■第十四章■
01 死中求活
 それは旅立ちと同様、人目を避けるように速やかに、無言の静寂の中で執り行なわれた。
 竜王の不在、国民の中に長くは止めておくことのできぬ不安材料が、突然落とされ、突然拭われる。
 久々の感触に思われた。
 ジャスティスにしろ、その後を追った子供達にしろ、セティーソワル本人もまた、この地に再び己の足で立つことになろうことは、予想しなかった筈はないのだろうが、やはりどこか浮かばぬ表情をしている。
 不安げにすがりつくソフィアの腕を、腰をしっかり支え、セティーはライウェンの後を追った。
 行き先は知れている。問うまでもない。
 しかし、ソフィアにとってこの光景の全てが想像を絶する世界であり、血が覚えている空気であった。その規模に驚き、緻密な飾りの数々に目を凝らし、それでも嗅ぎ慣れた呼吸を感じる。
 ソフィアが誰であるか、口外はしていない。知るものはセティーと、ジャスティス、そしてライウェンだけだった。
 三人は、他の者を制し城の奥へと臨んだ。
 向かうは北の塔。
 かつてアガレスとアタールが、ジャスティスの狂気によって閉じ込められた王族の墓であるあの塔へ、彼等は黙々と進む。
 扉は難無く開き、竜王を迎えた。塔の一階は一つの螺旋の階段の上り口があるだけで、他に何もないように見えた。
 しかし、実際墓地は、ほとんどの墓地がそうであるように、例に漏れず地下へ死者は埋葬されている筈であった。
 上る螺旋の影に、一枚の扉がひっそりと開かれるのを待っていた。
 それこそが墓地へ続く地下への入り口。
 彼等は黙ったまま、地下へ降りる。冷たく暗い世界を素通りし、再び現れた扉に、封印を示す記しを見つける。
 ライウェンが、その印に触れると、途端にそれは流れるようにして消え去った。
 扉は大きく開く。細く響く嫌な音を軋ませながら。
 そして彼等は見つめた。
 後ろで扉の締まる音が聞こえる。しかし、目の前に現れた光景が彼等を捕らえて放さない。
 美しき墓標。
 一際凍えるように冷えきった冷気の正体。
 空中に止まるようにして、苦悶の、悩ましげに歪んだ妖しい表情を浮かべ、体を、まるで偉大なる芸術家がとらせた至難の体制に伸縮させた、銀の髪の女性。
 快楽と苦痛にさいなまれるようにして時を止めたままの、この姿を失うことは有り得ない。
 生きたまま永久の氷柱に埋め込まれた美貌の女。
 一度獲物を取り込んだが最後、捕らえて放さない生きた液体の中で悶え、苦しみ、彼女は死んだのだろう。
 もがいてももがいても、けしてその位置から上昇することも沈むことも許されず、求める空気は徐々に奪われ、冷えてゆく気温。
 熱を奪われ、凍える中で苦しくもがきながら、生きたまま氷漬けにされた女の恐怖は、その様子は、死姿が美しければ美しいだけ惨く、静かな長い恐怖であったことを物語る。
 ライウェンに良く似た面差し。銀の髪。
「ダナ……」
 セティーの指が冷たく堅い巨大な氷柱に触れた。
「ソフィア、記憶を無くしたままの貴女には理解できないかもしれないけれど、これは私の母、前竜王妃であったダナ。そして貴女自身」
 美しい死の様子を、声もなくただ見つめていたソフィアは、やはり眉をひそめ、不思議そうにその言葉に答えただけだった。
 そしてそれは儀式の始まり。
 開幕の時を告げる竜王の言葉。不意に、扉が開き、新たな人影が現れた。
「立ち会わせて貰えるかな、私達も」
 二人の寄り添う姿を見た。
 以前に増して若々しく、美しいモレクと、黒曜石のように艶やかな女性。一目でアラストール自身であることを知る。
 ライウェンは静かに頷いた。
 時が来た。
 難しいことは何もない。
 ただ、ただ息子であるライウェンの血を少量ソフィアに与えればいいだけのこと。
 それでも戸惑うのは、躊躇するのはなぜか。
 誰もがソフィアにそれを耐えられるだけの抵抗力があるように思えないと認めていたから。
 アタラクシアはその点苦しみが少なく済んだ。最愛の、目の前で死んだはずの竜王が側で彼女を見ていた。記憶が一瞬、悪夢という形にすり替えられ、酷いショックを与えられる前にクッションを与えられた。
 だが、ダナの死は壮絶だった。
 生きて、繋がれジワジワと殺された。命を請う余裕も、苦しみから逃れる術もなく、長い苦痛のうちに彼女は死んだ。
 狂ったように笑う男が、その様子を見ていた。
 苦しみながらも、ダナはその男を見ていたのだろう。
 自分を酷い目に合わせ、地獄の最中に突き落とした相手の、愉快に笑う声を聞いていたのだろう。
 銀の杯に満たされた輝く血の波打つのを見つめ、ソフィアはためらった。
 飲んで良いのだろうか。
 一瞬のうちに手首を切り裂き、杯を満たしたのは無表情なライウェンだった。
 その杯を受け取り、ライウェンの傷口をそっと嘗めたのはイェラミールだった。
 その途端流れていた血が止まった。ジャスティスがその後を引き継いで傷口に手を翳す。
 見る見る塞がってゆく。ソフィアがその杯を受け取ったころ、手首の傷は、完全に塞がっていた。
 ほんのり赤く色付いたそれも、またアラバスターのような白い肌に戻る。
 無言のままだった。
 終始、誰も口を開くものはなかった。
 ソフィアの白い喉が上下する。震える指先から空の杯が音を立てて転がった。
 それを合図に、彼等は耳を塞ぎたくなるような悲痛な悲鳴を聞いた。
 北の塔に、長く尾を引くような恨みがましい甲高い悲鳴がとぎれることなく響き渡る。
 やがて、始まりと同様に、悲鳴はプツリととぎれ、それ以来一度も聞かれることはなかった。
 やがて北の塔を出るセティーの腕に、銀の髪を靡かせた少女が抱かれていた。


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