■第十三章■
01 雲散霧消
「アハハハ……、ジャスティス、何をしているの? 早く来てよ」 
少年の楽しそうな笑い声が、遺跡の中に流れる川の上に響き渡る。
その刹那、滑る床に足を捕られ少年の体が前にのめった。
「兄さんっ!! ほら、そんなにはしゃいだら危ないじゃないか」
 後ろから慌てて駆け寄ったジャスティスの腕に抱き留められ、危うく難を逃れた少年の頬が、紅を差したようにほんのり朱色に染まる。
「あ、ありがとう……」
腕の中でジャスティスを見つめる瞳が眩しげに細められた。
「兄、さん……」
 ゆっくりと体を預ける少年と、その少年の唇を塞ごうと近付く唇。少年の瞳が溶けるように輝き、柔らかく閉じて行く瞼を見つめ、ジャスティスが恍惚とした表情を浮かべたその時、何者かの気配が上の階から感じられた。
突如体を強張らせたジャスティスの様子に、少年は心配そうに瞳を向けた。
「どうしたの? 何があったの? ジャスティス?」
ジャスティスの警戒するその姿に、少年がなおきつくしがみつき、それに答えるようにジャスティスも腕に力を込める。
彼の緊張はもはや局限まで達していると言っても過言ではなかった。なぜならその気配は複数で、しかも彼の知る者達の匂いだったのだから。
しかし、もはやセティーはジャスティスの手に落ちたも同然。何を今更恐れる心配があるというのか、それでも着実に近付きつつあるその気配は、彼を非常に不安へと追い込んだ。
「渡さない……。誰にも渡しはしない」
彼は呟き、少年の体を後ろ手に匿うようにして立った。
程無くして彼等は再開を果たす。


彼等の間に長い沈黙があった。川の流れるせせらぎの音だけが奇妙に大きく響いているように思えた。
「ジャスティス殿、お久し振りにこざいます」
バールベリトが静かなゆっくりとした口調でその沈黙を破った。
「何しに来た? さっさと子供等を連れて帰るがいい。さぞかしライウェン達が心配しているだろうからな」
彼の威嚇するような声に答えたものは、意外にもバールベリト達の後ろからやってきた声だった。
「その心配には及びません。心配のあまり、私達がこうして降りて参りましたからね」
一斉に誰もが振り向いた。その声の主を確かめようと。
「父上? 母上!!」
それは紛れもなくライウェンとアタラクシアの二人だった。
フォルネウスの驚きに満ちた声が石壁の中を何度か谺して消えていった。
「まぁ、すっかり逞しくなったわね、貴方達」
アタラクシアが感慨深げに子供達をぐるっと見渡した。それはまさに親ばかというに相応しい視点であるように思われる台詞であったが、その点にわざわざ触れる愚か者がいるわけではない。所詮は親の贔屓目という奴に他ならない言葉とは裏腹に、この七年とも言う間、しっかり成長したのは人間であるソフィアと、イェラミールの二人だけで、当の子供達の表面上の変化と言うか、成長ははっきり言って常人には分かり兼ねるほど微妙なものでしかない。それもこれも寿命の長い彼等の、異様に長いようで実は短い幼少期の貴重な特徴だと言えるだろう。
うっとりするような華やかな笑みを浮かべる竜王と竜王妃とは裏腹に、見る見る血の気を失っていくジャスティスが、狂人の瞳の輝きを取り戻しつつあることに、ライウェンがいちはやく気付いた。
不意に銀のマントが大きく波打ったかと思うと、彼はすっとジャスティスの額にアラバスターの指先をあてがった。
一瞬の出来事の後、ジャスティスの瞳が大きく見開いたかと思ったその刹那、彼の意識が突如とぎれたようにライウェンに抱き抱えられるように倒れ込んだ。
「ジャスティスッ!」
慌てたのはそれまでビクビクと彼の後ろで様子を伺っていた少年だった。
「何をしたのっ! ジャスティスに一体何をしたんだっ」
ライウェンの腕からジャスティスを強引に奪い返えた少年は心配と不安と、それでも最大の勇気を宿した瞳でライウェンを、その後ろに並ぶ美しい者達を睨んだ。
「心配はない。意識ははっきりしているはずだよ。ただ体の自由を一時封じさせてもらっただけだから」
人懐っこい笑みが少年に向けられた。
「自由を封じるって、貴方達は何者? どうしてジャスティスにこんなことするの?」
 ジャスティスをその膝の上に横たえさせた少年が悲痛な表情を浮かべて見せた。
「イェラ……ミール……? 貴方イェラミール、なんでしょう?」
 少年は、不意に名を呼ばれ、その方向に視線を向けた。
そこには紛れもなく美しく可憐に成長し、立派な美少女となったソフィアの姿があった。だが、その彼女に向けられた視線は、まるで見ず知らずの相手を見るような警戒したまなざしでしかなかった。
「ソフィアよ……? 私、ソフィアなのよ? ねぇ、覚えているでしょう?」
 恐る恐るイェラミールに近付くソフィアに、それでも身を堅くして何のことか分からないといった感じの視線を返す。
 静かに、ライウェンの手がソフィアの行動を制した。
「無駄でしょう。今の彼は外見こそイェラミールですが、私達の求める『彼』はもっとずっと深い場所に眠っているはずです。最も、人間としての彼が生存しているかどうか、私にも疑問ではありますけれどね」
ここまで酷い精神圧縮を受け、完全に人格を無視した別の人間ですっぽり覆われているような状態であるこの少年の、本来なら育っているいるはずの人間としての人格は、恐らくもう随分前に崩壊しているだろうことが予想される。
「では、セティー殿としての人格は残っていると言うのですか?」
 バールベリトが後ろから尋ねた。
「セティーにはジャスティスの術は利かないからね。そうでもなければチャンスはそれこそ星の数。転生以前の世で行われていたよ」
 と、楽しそうに答える姿に、バールベリトは妙な納得をしてしまった。
「でも、でもどうやってセティー様を呼び戻すのですか?」
 アガレスが心配そうな震える声で尋ねる。やはりこの少年が一番深刻に感じているのかもしれなかった。ソフィアにイェラミールと合わせると約束し、ここまで来てみればその本人の人格はすでにないらしい。その原因を作ったのはすべて彼の父親なのだ。
あまりに平和主義な息子には、絶えられないような事実の羅列に思われて仕方がないのだろう。
だが、彼がそれでも平然とした態度を保っていられるのも、実は彼の背に回されたバールベリトの暖かく大きな手の感触があったからに違いなかった。
バールベリトは励ますようにずっと小刻みに震えていたアガレスの傍らでそれを見守っていたのだった。そして無言で優しく手を差し延べている。
「うーん。それは……、そーだねぇ」
ライウェンは妙に芝居臭く、困惑の表情を作って見せた。
誰もがその方法を聞きたくて身を乗り出さんばかりの場所で、ライウェンは軽い溜め息をつきながら肩をふっと落とし、にっこりイェラミールに微笑み掛けた。
「セティー、そろそろ私の子供達やアタラクシアに挨拶くらいしてくれても良いと思いますよ?」
そして次の瞬間、彼等はその目を疑った。
突如として、何の前触れもなく目の前のオドオドした少年が、威厳と威圧感に包まれた、まるで研ぎ澄まされた刃のような重みを持つ気迫に包まれた、なんとも言えない存在感を生み出す落ち着きと静けさをまとった視線で彼等を見渡し、そっとジャスティスを脇に寝かせ立ち上がった。
静かにライウェンに近付いた彼は、妙に慣れた動作でその前に跪き深く頭を垂れた。
「ごきげん麗しく、我がいとしの竜王陛下」
恭しくその手にキスをすると、再び立ち上がった。
「これはまた随分と他人行儀な挨拶だね、セティー?」
と、こんな唐突な会話について行けないまま、取り残されていた姉弟が突然乱入を決め込んだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、ほんとに親父か?」
呆然と成り行きを見守っていたケイエルが怪訝そうに少年を見つめた。姉のリリーもいささか戸惑っているようだ。
「リリー、ケイエル、お前達には迷惑をかけたな。すまなかった」
フッと微笑むと彼はアタラクシアに視線を移した。
「立派な竜王妃となられましたこと、心よりお喜び申し上げます。遅れ馳せながらこのセティーソワル、お二人に心からの祝福を申し上げます。ただ、お二人の晴れの舞台を拝見できず、少々心残りではありますが」
「まぁセティーたったら」
無邪気に微笑みその祝福を素直に受け止めたアタラクシアが、ライウェンの傍らに寄り添った。
「それもこれも皆、セティーのお陰ですわ」
 彼女は改めてありがとう、と礼を述べた.
「セティー、私達の息子と娘。そしてジャスティスとアクラシエルの息子だ」
 ライウェンが後ろを振り向き子供達を紹介した。
「お初にお目に掛かります。セティーソワル殿。長兄のバールベリトにございます。そして弟のフォルネウス、その双子の妹のアタール」
言われた順番にペコンと頭を下げて挨拶をする。
「では君がジャスティスとアクラシエルの?」
「は、はい。アガレスと申します」
背筋を必要以上に伸ばしたアガレスが緊張しながら名乗った。
「なるほど、アクラシエルに良く似ている」
と、そう微笑みかけると彼の視線は一瞬不安そうに立ち尽くすソフィアを捕らえ、再びライウェンに注がれることとなった。
「ライウェン?」
後ろからでは見ることができなかったが、このときのライウェンは明らかに何かを物語っていた。そのことに対する問い掛けが今のセティーの言葉だった。
「戻ってくれるね? やはり私の側近は後にも先にも貴方とジャスティスしかないと思うのだが?」
「では現在の側近は?」
「当時のまま、その席は埋まっているよ」
「なるほど?」
 彼は一度軽く溜め息をついて再び言葉を繋げる。
「聞きたいことはそれこそ山のようにあるが、なぜ私を探した?」
 まるで要らないことをしたと言わんばかりの視線でライウェンを睨み付ける。
 だがもちろんその程度で退くライウェンではない。
「セティー、是非私の血を、と言いたいのですが、息子は想いの深い叔父にその役を譲りたいと思いますが? それに、私の血は他に使用しなければなりませんから」
その瞬間、まるで彼等は静寂の中に二人の姿を見ているような錯覚に囚われていた。
誰もがライウェンとセティーソワルの間に交わされているはずの会話を聞くことができない。
だれもその耳に心地好い安らぎある竜王の声を捕らえられる者はなかった。ただひとり、ジャスティスだけを除いて。
「ソフィアか……」
随分長いこと隠し通し、実の弟にさえ知られることのなかった秘密を、一番知られたくなかったはずのライウェンの口から聞かされたにも関わらず、セティーは顔色ひとつ変えるどころか、眉一つ動かすことはなかった。
「さすがですね、父上。私がこの秘密に触れることはすでに予想されていたと」
「──最悪なことに私と良く似た面を持っているからね」
「本当に。ところで、ソフィアの、ダナ、いえ母上の記憶を封じているのはなぜです? これだけ多くの時を竜族と共に過ごせば少しは誘発されるはずなのに、記憶の断片も彼女は思い出せない。これは貴方が封じているためでしょう?」
「彼女には、死の記憶を蘇らせて欲しくなかった」
 死の記憶……。確かにそれは嫌でしかない記憶だった。
 ライウェン自身体験している。アタラクシアも、おそらくライウェンより凄まじいショックだっただろう。目の前で繰り広げられた血の祭典を、そして自らの命を絶つ瞬間を、彼女はちゃんと脳裏に焼き付けてしまっていた。
ライウェンも知らない訳ではなかった。母ダナがどれ程惨たらしく苦しみ、それ故どれ程美しくその最後を迎えたか。
だからこそ一瞬の沈黙がある。
「それで? ジャスティスは何時から? アクラシエルはどうしたんだ?」
 不意に話題を逸らしたセティーに、ライウェンも仕方無くそれに従った。
「アガレスが生まれて、暫くは何の問題もなかった。ひとりで二人分の仕事をこなしていたよ。完全におかしくなったのはアクラシエルが自殺するより少し前辺りだったかな」
「アクラシエルが? そう、か。 苦労ばかりかけているな。できれば人間としてソフィアと二人で静かに暮らして行きたかったんだが、どうやらそれも無理か。ジャスティスが許さないだろうからな」
と、そのセティーの苦笑混じりの溜め息に、ライウェンもどこかすまなそうに微笑んでみせた。
「ところで父上は?」
「アラストール叔父上、いや祖父なら父と幸せに留守を守ってくれていますよ」
「ああ、それなら問題はないか。ライウェンが誰と誰の息子であるか、あの二人は知っている」
不意に軽く頷いたセティーはくるりとその視線の向きを変えた。
「ジャスティス、聞いていただろう? ライウェンは私とダナの息子。もちろん妹のタルティーヌも私達の娘だ。長いこと黙して語らなかったのは混乱を避けるため。そしてこれまでも幾度かあった王位継承者の移動を黙認するため。本来ならばモレク王とダナの間に生まれた娘アクラシエルと、ジャスティス、お前の間に生まれた息子こそ本来の王位継承者。バールベリトに継がせるも、アガレスにその地位を返すも、お前の意見を尊重しよう」
そう言いながら彼は幾度もその髪を愛しく撫で、頬を指先で愛撫していた。
 ジャスティスの瞳だけは、その動作を繰り返す少年を見つめている。唯一自由の利くその瞳で。
耳も目も、そして思考さえも持ち合わせたまま、彼はそこで逃げることも歯向かう術もなく、ただ無力に手足を投げ出し倒れているに過ぎない。
そのジャスティスの哀れな姿をじっと見つめていたセティーが、とろけるほど優しい微笑みを浮かべていた。
「ジャスティス、我が愛しの弟君よ、その身に流るる血を、我に与えてはくれぬか? 再び血の通うた兄弟として、我を受け入れてはくれまいか。のう、ジャスティスよ」
不意に屈み込み、その両の頬をそっと両手で包み込むように押さえ付ける。
 妖しいまでに潤い艶を放つ瞳。そして唇。
 誰もがその瞬間を見つめていた。セティーの、イェラミールの妖艶ななまめかしさの中で、ジャスティスが目覚めていくのを。
彼の唇が重く、熱く重なったその瞬間、一度ジャスティスの体が大きく痙攣したように見えた。
そして次に、その抱擁に答えるジャスティスの手が少年の首に、そして腰に回された。
長い沈黙があった。
何時の間にか形勢が逆転していることを彼等は知った。
ジャスティスの体が、少年の上に絡まるように覆い被さって、その両の手首を押さえ込んでいる。
ツッーと、合わさった唇の、少年の口の端より赤い筋が流れる。
幾度か上下する喉の動き。
変化は突然起こった。
イェラミールの全身が、物凄いスピードで色を黒くしていく。
髪が、はえぎわからその長い毛先まで濃い艶やかな暗緑色に変化した頃、少年はフッと瞳を開き、ジャスティスを優しく突き放した。
 少年の若葉の瞳は、すでにセティーの色と化していた。
唇から流れる血を乱れた髪の間から覗く瞳で微笑みながらそっと嘗めとり、手荒くその腕で拭った。突き放されたジャスティスも、長い吐息を漏らしながら、天を仰ぎ拭い去る。
「ジャスティス」
「兄さん……、お帰り。僕は兄さんを歓迎するよ」
ジャスティスの瞳に、すでに狂気に満ちた生気は見られなかった。
 彼は時間を取り戻したのだ。
兄の死によって失った時間を、兄の帰還によって取り戻した。
「すべて聞いていた通りだが、私は今なおダナを愛している。ライウェンを、タルティーヌを、そして彼等の愛する者全てを。そして私はジャスティス、お前をも愛していた。それは今も変わらない事実だ。だが、このことをお前に告げる気はなかった。あの死の瞬間まではな」
ニヤッと笑ったその陰に、ジャスティスは何か恐怖を感じた。そう、セティーソワルに対して抱いた恐怖を再び体験している。
そのことが返って現実味を帯びた形でセティー復活を物語る。
「で? どうする? アガレスに告げるか? 正当な王位継承者はお前だ、と」
自分が言った台詞に答える空きも与えず、彼は静かに、けして強制しているようでも、圧力をかけているわけでもないのに、どこか冷めて凍えるような口調で、どちらを取るか、まさに二者択一の選択を迫る。
「そ、それは……」
ジャスティスはぐっと息を飲んだあと、吐き捨てるような形で一言だけ告げた。
「器が違う」と。
セティーはそのことに特に何の感情も見せず、分かったと言うように一度頷いただけだった。
「では今までの会話、彼等に届ける必要はないな、ライウェン?」
「ええ、そのようですね」
彼は笑って答えると、ジャスティスを見つめた。
「手荒な真似をして申し訳ありませんでした」
「いや、当然の報いだ」
二人のやりとりを見て微笑んだセティーが、時を告げる。
「そろそろ壁を」
「ええ、では……」
 と、確かにライウェンは答えはしたが、これと言って行動を起こした素振りもなく、辺りはやはり張り詰めた空気の音ばかりが響く静寂でしかなかった。
その中を、セティーがコツコツと靴音を響かせながら、バールベリトの側へ向かった。
 バールベリトの鋭い視線にも臆することなく、彼はその目の前で歩みを止めた。
「礼を言う。ソフィアをここまで立派に、無事に守り通してくれたことを、心から感謝している」
と、似たような言葉を彼等にそれぞれ述べたセティーは、とうとうソフィアの前でその足を止める。
「ソフィア……」
「イェラ、ミール?」
 戸惑いがちに差し出された手の指先に彼女は遠慮がちに自分の白い細い指を乗せた。
 そこから全身に互いの温もりが広がるような気がした。
「私と共に、生きますか? 人として生きますか? 全ては貴女に、その選択を任せましょう。これは貴女自身の問題だから」
小さく柔らかく、イェラミールが微笑む。けしてどちらも強制する訳でもなく、冷たく突き放す訳でもない。
どちらを選んでも、すでに逆転生を行ってしまった彼にとって、辛い結末を招くことを知っているとでも言いたげな、とても儚く優しい悲しみ。
しかし、それを汲みとったのは竜王ただ一人であったに違いない。
「私……」
そう彼女が呟いてから、どれだけ時が流れたか、数秒か、あるいは数分か、とにかく歪んで間延びしたような時間が彼等の間に流れていたように思えた。
「私……、イェラミールが好き。ずっと小さい時、じーちゃんの家で初めて会った時から、バールベリト達と旅をしている間も、瞳も髪も変わってしまったけれど、それでも私の知っているイェラミールのままな貴方が、大好き。私を知らないと貴方が言った一瞬、とても、いいえ言葉なんかではとても言い表せないほど悲しくて怖かった。でも、でも今はもう何も怖くはないわ。貴方と暮らせるなら、貴方と共に生きられるのなら、私はその道を選ぶわ」
「私も、幼い頃からソフィアを愛していた。それは今も変わらない」
と、イェラミールが遠い瞳で告げるのを見守っていたバールベリトは、全てのわだかまりが溶けていくのが分かった。
今まで自分の中で燻り続けていたもの、それはジャスティスの思い人が強く愛した相手に対する確かな嫉妬。
それがまさか、今まで旅を一緒に過ごし、その成長を楽しみに見てきた少女だったのだ。
 どこかで予想はしていた。そう感じるほど、彼は冷静にその光景を眺めていた。
 あれ程焦がれていたはずのジャスティスに、さほどの感情も沸かないのはどうしたことだろうか。
彼が一番戸惑っているのは、紛れもない自分自身の変化だろう。そんなバールベリトに、イェラミールが振り向いた。
「バールベリト、私は再び以前のように竜王ライウェンの側近としてジャスティスと共に支えることになるだろう。同時に次の側近の指名として、まず一人はアガレスを候補に立てようと思う。もちろん時期王のために教育される人格と認められれば、の話しだが、それはほぼ確実だと私が保証する。そうだな? ジャスティス」
と、振り向いて同意を求められたジャスティスも、得意げに頷いて答える。
 その瞬間、彼は全てを悟ったような気がした。
 僅かな時間に、自分自身でさえ気付かなかった感情を、彼は見ていたのだと。
いつしか彼にとってアガレスの存在が大きく変化していたこと。
 そう、だったのか……。
 彼はじっと隣に立つアガレスを見つめた。
「依存は?」
 と、尋ねられ、彼は静かに首を降った。
「いえ」と。
 その答えに満足したのか、今度はジャスティスの側へ歩み寄ると、何やら耳打ちするような体制をとってみせた。
 それにジャスティスは何の反応も返すことなく、突然憮然とした態度でリリーの前にやってきた。
「叔父様お久し振りです」
 と、リリーはすかさずにっこりと微笑んだ。
 ところがジャスティスは突然乱暴にリリーの顎に手をかけると、グイッと手荒くその顔を引き上げた。
隣に立っていたケイエルの顔色がサッと変わったような気がした。
「フン、相変わらずひとつも兄さんに似ているところがないな。これでは幾ら兄さんの娘だからと言っても、納得できないが、形式だけの政略結婚なんて、いつでもそんなものか」
吐き捨てるように言うジャスティスの言葉が、何を意味しているのか、理解できなかった。
「リリー、ジャスティスと正式な式を挙げてはどうだ? 悪い話ではないだろう?」
後ろでセティーが真顔で尋ねるその様子を見つめながら、アタラクシアは不自然な物をみているような気がして、そっとライウェンの手に触れた。
「ああ、そうだね。でも見ていてごらん。すぐに分かるから」
セティーをずっと昔から知っているアタラクシアにとって、その行動があまりに妙に思えたが、ライウェンはその行動の意味するところを知っているらしく、小さく微笑んでみせた。
その直後であった。
「待てよ親父っ、あんた本当に親父か? 以前の親父はそんなこと言うようなことはなかったじゃないかよっ。俺とリリーと、家を出るったって、何も言わねぇし、俺達が何しようと、どうしようと何も言わなかったじゃねぇかよ。それが何だよ突然、悪い話じゃねぇじゃねぇよ。何だってリリーが幾ら親父の弟だからって、後妻で、しかもアガレスにゃ悪ぃけど、こんなでかいガキの母親になんなきゃなんねぇんだよっ」
ケイエルが初めて、そう確かに初めて父親であるセティーに向かって掴み掛かるような勢いで怒鳴り散らした。
「ケイエル……?」
おどおどした瞳でリリーが剥きになる弟を見つめた。
「なんでリリーなんだよぉ」
 政略結婚、なのだ。当人同志の意思など関係無い。家が、親が決めるこの結婚に、何を言ったところであらがえるはずのないことを彼は理解してはいた。
だからこそ、震える声で掃き出すように、そう呟いた。
「だったらいい加減女遊びも程々にすることだな」
 と、冷たくジャスティスが言い放つ。その言葉の真意を計り兼ねるようにケイエルが頭を上げた。
「そろそろ本当のことを告げる時か……」
 セティーが溜め息混じりに話し始めた。
「リリーもケイエルも、父親は私ではない。二人ともそれぞれ異なった父親がいる。つまり私達夫婦は、そういう夫婦であって、それで保たれていたに過ぎない」
そういう夫婦、とは、お互いに別の誰かを愛していながら形だけは中の良い夫婦を演じている、形だけの結婚をしている者を差す。
「そ、そんな……」
 もちろん子供がその事実を知らされることはほとんど希である。だから当然、突き落とされたようなショックを覚える。
「嘘ではない。お前達は半分の血を分かち合い、半分の血を別の物としている。
 そういう血は何かと魅かれ易い物だ。
 何も臆することはないのだぞ? 前例など幾らでもあるのだからな。まぁ、それでも私はお前達を私の子供として見守ってきたつもりなのだがな」
 淡々と語るその口調は、それでも暖かい物が感じられた。
 彼等は自分達では押さえ切れないだろう感情に、相手に悟られまいと苦しんでいたことを、お互いが同じ苦しみに悩んでいたことを初めて知らされた。
 今、竜王の前で二人は正式にその仲を認められたのだった。
「これからは浮気もできないですね、ケイエル」
 ライウェンが悪戯っぽく二人に祝福を継げた。
「リリー、やっぱり町で暮らすのかしら? 城の方へは?」
 ようやく全てを悟ったアタラクシアは、祝福の微笑みでそう尋ねた。
「あ、そ、それは……」
「あら、そうね。ちょっと早すぎたわね。ゆっくり考えて、話し合って頂戴ね」
口ごもるリリーに、アタラクシアがうっかりしたわというように微笑んだ。
「まったく、どうしてこう私の子供達ときたらどの子もみな面倒ばかり掛けるのか、そうは思いませんか? 竜王?」
どこか不思議な喜ばしさを称えた微苦笑がライウェンに向けられる。その意味するところに、ついライウェンも微笑んでしまう。
しかし、和やかな雰囲気はそう長くは続かなかった。
彼等は皆、一様に辺りを見回し獣のような鋭さで警戒する。
 夜が明ける。
 たとえ人気のない古びた遺跡の忘れられたような空間にさえ、いつ何時人間が現れるとも限らないのだ。夜が明けてしまえば闇に紛れ人目を避けることすらできなくなる。
 時を見定めるには行き過ぎるほどの目を持つ者達。
 彼等は皆一様に頷き合うと、古びて朽ち掛けた、過去の栄華をいまだ夢見るかのような古代の遺跡を後に、まだ暗い明け方の空へ舞い踊る。
一対の銀と金の竜を先頭に、暗青色の竜が二人の人間をその背に乗せて、後に子供達の姿が続いた。
その光景を見た者がもしあったならば、それはそれ、覚めやらぬ我が身のかい間見た夢か、空に明け来る黄金の、新しき日の光の見せた幻と、一度の幻想にとおぼしき現。


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