■第十五章■
01 千姿万態
「これからどうする?」
 唐突に、不安を拭いきれないままに、ジャスティスは兄を窺った。
「どうもこうもないだろ。以前と同じだ。多少の違いはあるにしろ」
 依然イェラミールの、少年の姿を色濃く残したまま、彼は平然と応える。そんな兄の様子に、彼は少し安心したように笑い、少しだけ視線を落とした。
「ダナのことは、医師として必ず戻してみせる。すぐには、無理だけど……」
 あの壮絶な悲鳴が耳に残っている。あの美しさが、脳裏に焼き付いている。そして何よりも、叫びつづける彼女を抱きしめていた兄の微かな震えを、彼は感じていた。傍らにいて、何も出来ない自分をもどかしくさえ感じた。
 そんな弟の言葉に、少年の笑みで頷いて返す彼の瞳には、すでに悲しみや苦しみの色は残っていない気がした。
「ああ、時間はまだまだある。信じているさ」
「……誰を? ……何を?」
 屈託のない笑顔にジャスティスは、つい聞いてしまった。一瞬、そんな弟をセティーがじっくりと見つめ、優しく微笑んで言った。
「お前も、ダナも。全てを、さ。ほら、もう寝よう。明日は祝典だろ? 忙しくなる」
 そう言われて、彼は少し嬉しいような、恥ずかしいような感覚を覚え、それでいて酷く安らいだ気持ちが沸いてくることを実感していた。
「ああ、そうだね。お休み兄さん。戻ってくれて嬉しいよ」
 彼は何度も何度も同じ言葉を言い続け、それでも改めて長い一日の終りに、もう一度その言葉を投げ掛ける。
「お休み、ジャスティス」
 セティーはその言葉を微笑みで受け止め、ゆっくりとドアに向かって歩き始める。
「兄さんっ」
 去って行こうとするセティーの後ろ姿に、ジャスティスが慌てたように声を掛けた。
 彼は立ち止まり、問い掛けるように微笑んだ。優しげな瞳で。
「ごめん……。今夜だけ、何もしないから、昔みたいに……」
 瞳を伏せたジャスティスに、セティーが歩み寄る。
 その肩に手が掛かった。
「まだやっぱり不安なんだ。また兄さんがどこかへ行ってしまうような気がして……」
「ジャスティス」
 甘い声音に誘われるように、二人は広い寝具に身を委ねた。
 白くぼやける天井の飾り絵を見つめながらセティーが笑った。
「いつからだったかな、こうして兄弟で一つの夜具に眠らなくなったのは」
「いつだろうね。幼い時からきっと僕は兄さんに憧れて、恋して……。ずっと兄さんだけを見ていて、いつからか兄さんが見えなくなったんだ。側に居るのに……。でも何でだろう、今は、ずっと昔に帰ったみたいだ」
 その言葉に返されたのは、低い意味ありげな微かな笑い声だけだった。
「兄さん?」
「ん?」
「──愛している」
「知っている。もうずいぶん昔から」
「諦めないよ。今は休戦中だから。ダナが良くなるまで。本当のダナが戻ってくるまでは。 フェアじゃないとね」
「有り難い」
 それっきり、声は止んだ。
 灯されていた蝋燭の炎が吹き消され、辺りは暗闇と静寂の支配下となった。


「驚いたわ」
 アタラクシアが溜息をつくようにライウェンを見つめた。
「ソフィアのこと?」
「ええ、そう。それと他にも色々」
 寝室の、暗い灯の中でさえも煌めく二人が、静かに向かい合う。
「そうだね。知らなかったことがたくさんあった。例えば、ケイエルとリリーのこと。母上とセティーが人知れず愛し合っていたこともそう。でも、アガレスが側近候補に上がったのは喜ばしいことだよ」
 彼は少し遠い目をして、記憶の中の情景を思い描くようなそぶりを見せてから、ひときわ明るい笑みでそう締め括る。
「ええ、そうね。でも……、義母様、大丈夫かしら」
「大丈夫。セティー、否イェラミールもいるし、ジャスティスもいるんだ」
「そうね。きっと何時かは昔の、聡明で明るくていらっしゃったダナ様にお戻りになられるわね。そうしたらまた一つ、幸せになれるわるわ」
 ライウェンの言葉に彼女は頷いて、穏やかな微笑を取り戻した。
「ああ、そうだね。早くその日が来ると良いね。さあ、アタラクシア、もうお休みよ。今日は疲れているだろう? 明日も忙しい」
「ええ、ライウェンも」
 夫の手にいざなわれ彼女は先に柔らかな感触に埋もれるように横になった。
 暗い灯が吹き消され、隣にいつもの暖かさを感じると、アタラクシアは途端に眠気を覚えた。
「お休み、アタラクシア」
「お休みなさい、ライウェン」
 間もなくして、ライウェンはアタラクシアの静かな規則正しい眠りのリズムを耳に、己も静かに目を閉じた。


 あどけない二つ美しい童の顔を、バールベリトは見下ろしていた。
 疲れていたのに違いない。それまで興奮気味にはしゃいでいた彼等もベッドに潜るやいきなり寝息を立て始めた。
 その安らかな寝顔に、やっとすべてが終わり、新たな出発点に立ったことを感じた。
 何時までも幸せに。
 そう望まずにはいられない寝顔に軽く微笑み、はだけたシーツを直す彼の後ろから、遠慮がちに声が掛かる。
「バールベリト様」
「直ぐ行く」
 ぼうっと明るい廊下を、二人の影が歩く。
「ここで少し待っていてくれ」
「はい」
 と、素直に言われた位置で待つアガレスの元に、バールベリトは直ぐに戻ってきた。
「どうでした?」
「まるで人形のようだ。だが今は良く眠っている。ジャスティス殿の薬のお陰か」
ソフィア、ダナの様子を言っているに違いなかった。
「そう、ですか」
 呟いたアガレスを最後に、声はとぎれ、そのまま彼等は深い闇の中に紛れるように揃って一つの扉の中へ消える。


 月が差し込んでいた。
 天井近くに開いた窓の向こう側に、ぽっかりと浮かんだ青白い月の差し延べる銀の筋。
 少女がひとり眠っていた。
 銀色の髪、赤い唇。白く滑らかな頬は、月明りに照らされてさらに儚く消え入りそう。
 少女の名はソフィア。
 銀の髪と金の瞳を持つ少女。
 けれど彼女のその耳には愛の囁きさえも届かず、その瞳はあれ程焦がれた姿も捕らえることはできず、その唇はその名を呼ぶことさえ叶わない。
 二度目の死を体験したことで、その魂は沈黙してしまった。長い眠りに彼女は逃げてしまった。
やはり少女は、それを乗り切れるほど強くはなかった……。
それでも彼等は待つのだろう。彼女の目覚める日を。
その金の瞳に微笑みを湛えるその日を。
少女はひとり眠り続ける。
少女の耳に、彼の囁きが届くまで、どうか安らかな夢をみて欲しい。


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