■第十二章■
01 当意即妙
「──見つけたわ。──とうとう見つけたわよ。レーマン……、貴方をさらった竜を、私とうとう見つけたわ」
 ガーネットの菫色の瞳が、水晶の中で危なげな陰りを漂わせながら揺らいで映る。


「ねぇ陛下、子供達の帰り、遅すぎるとは思いませんこと? 何だか心配になってまいりましたわ……。ジャスティスが正気に戻ってくださいましたのなら話は別でしょうけれど、こんなに長いこと私達の側を離れているなんてやっぱり何かあったのではないかしら」
 キラキラと黄金色に輝く瞳を潤ませながら、胸の前に両手を組んだ格好でアタラクシアが不安そうに首を傾げた。
「んー、確かに遅いようだね。少し時間が掛かり過ぎている」
 ライウェンは心配そうに覗き込む妻の瞳に優しく微笑みかけると大きく頷いてみせた。
「そろそろ私達も降りる時期かもしれないようだね」
「はい」
 その言葉を待っていたようにアタラクシアが満足げに頷いた。
「さて、だとしたら留守を誰に頼んだら良いだろう……。本来なら一番頼れる筈の側近達が私達の側にいないと言うのは、やはり心許無い。そう思わないかい?」
 同意を求められたアタラクシアも、まったくその通りだと言わんばかりにええ、と深く頷いてみせた。
「仕方無い。ここは一つ、父上とオルレーヌ殿に頼むとしようか」
「そうですわね。それがよいですわ」
 散々悩む素振りを見せておきながら、ライウェンはあっさりと微笑んだ。まるで当初から予定していた事柄のように。
 話しはすぐに纏まった。以前ライウェンが殺された時は姉のアクラシエルがその役を務めたが、今やオルレーヌと言う永遠の恋人をその傍らに座らせることができ、幸せの絶頂を行くモレクも、以前のように姫を伴わずして王座に座することはできないなどと消沈していた頃と違い、その頼みを快く承知してくれた。
 もともと竜王だけ、竜姫だけでこの王座に座ることはなかった。若くしてライウェンが王座に着いたのにも訳があったのだ。
 モレクの妻であった前竜王妃ダナの死亡により、ひとりでその席に座れない王がすでに竜姫の存在を確認していた息子にその座を譲る形となった。
 そして再び一人ではなくなった前竜王モレクが留守を預かるのに何の支障もない。そもそもアクラシエルが引き受けたのは席の開いた玉座の管理であった訳だから、今回のように現竜王が前竜王にその留守を頼むという異例な事態こそ初めてのことではあった。


「まず……」
 と、ライウェンが言った。
 彼自身なんとか決着を付けなければならない事柄を抱え、その予期せぬ存在をどう扱って良いものか、困惑の中にいた。本来ならすぐにでも子供達の向かう場所へ直行したいと願っていたが、事態はそれを少し遅らせていた。
 異常なまでに人目を魅く美しい二人は、とある町の外れに荘厳なたたずまいをみせる一際大きな神聖な聖域を前に立っていた。
 暫く黙っていたライウェンも、ようやく優しい笑みを満面に湛えながらアタラクシアをいざないその神聖な建物の一角へ足を踏み入れる。
 静寂と暗闇が支配する時間帯にも関わらず、二人は輝き、しかも天の旋律さえ聞こえてきそうなほど幻想的に、ある部屋を目指す。
「アタラクシア、君はここで待っていてくれるかい?」
 何の説明もなく、どんな理由付けさえないのに、彼女は疑問の一つも文句の一つも言わず、はい、とにっこり微笑み返した。
 アタラクシアにとってライウェンとは絶対的存在であるがゆえ、王であり夫であり、最愛と称するになお余りあるほど愛しい存在であった。
 そしてその最良の夫が開け放した扉の向こうに、菫色の瞳を悲しげな狂気に染めた一人の女性を見出だした。
 ライウェンはふと、レーマン・オピウムの遥かな記憶に残る快活で聡明な、それでいてどこか勝ち気だった菫色の瞳を思い出した。あの頃とは比べ物にならないほど荒んでしまった瞳の輝き。
 ライウェンの心に浮かぶのは、もはやその少女に対しての哀れみのみだった。
 明らかにレーマンの知る姿ではないその女性は、不幸にもその精神と肉体をガーネットの古代魔術によって奪われた犠牲者なのだろう。過去、この二千余年の間、どれだけの若い娘たちの体を滅ぼしてきたのか、すでに想像を絶する物がある。
 それでもライウェンは、いつもそうであるように、柔らかく美しい笑みを湛え、その女性の側へ月の光を纏わせたような美しさでもって歩み寄った。
 女はその光景に見入っているのか驚愕しているのか、それとも懐かしさに胸が支えているとでもいうのか、身動ぎ一つ、瞬きの一つもなしにじっとライウェンを、ライウェンだけを見つめていた。
 立ち止まったライウェンと、凝視し続けるガーネットの間に流れる長い沈黙を破ったのは、やはりライウェンの緩やかな光のような優しい声音だった。
「ごきげんよう、お嬢さん」
 それはまるで街角で交わされる簡素でしかも親愛の情が込められたかのような挨拶のように聞こえた。
「……」
 ガーネットは突然現れたこの神々しいまでに美しい、男とも女とも言い兼ねる、全てを超越してしまったかに思える程の優美さを宿した人物を無言のままに見つめ続けていた。
「あれから随分と長い年月が過ぎているのに、君はまだ滞ったままでいるつもりなのかな。
 そろそろそのお嬢さんを解放してあげてはどうだろう、ねえ? ガーネット」
 ライウェンはにっこりと親しみやすい笑顔を浮かべ一歩、彼女の側へ近付いた。
 するとガーネットの瞳が少し見開かれたように思えた。
「……だ、れ? 貴方は、レーマン……?」
 その表情から彼女がすでに過去の人物であり、すべての時の流れに順応であることを知った。
 精神だけが生き続け、他人の肉体を使って目的のために行使するというはっきりした意思を持ち続けたガーネットは正常すぎるほどに正常であった。
 だからこそライウェンをその見た目の美しさや身に着いた優雅な物腰を除いても、すでにいないはずのレーマンという一個人と結び付けるような乱暴な思考など、咄嗟に浮かばなかった。浮かんだとしても肯定できる筈がないことをちゃんと理解している。
「そう、ですね。自己紹介が遅れてしまいました。改めて、私はローズ・ライウェン・シャルルドゴール。かつてレーマン・オピウムの名で呼ばれていたこともありますけれどね」
 人懐っこい微笑みで彼はさらっとそれを言ってのけた。
「ガーネット、私はあの日以来二度と貴女に会うことがあるなどと考えもしませんでした。 まさか貴女が私を乗せた竜の姿を目撃していたなどと夢にも思いませんでしたし、だからと言ってこれ程強引に貴女自身の精神を無理やりこの地に止めるなどと言う馬鹿げた行動にでるなど、誰が想像するでしょう。正直言って、貴女には失望しました。一体これまでに何人、何十人の人の体を犠牲にしてこられたのですか? あの時私は確かに言った筈ですね、忘れて欲しいと、貴女とは一緒になれない、と。そしてあの時私が確かめたかったことが、今現在の私自身です。私はもはや人ならざる者。貴女が敵と信じる竜族を統治する者なのです」
 ずるようにしてガーネットが一歩後ろへ後退去った。
 彼女は信じられない恐怖に怯えた瞳で、しかしその圧倒的な美しさから目を放すこともできず、狼狽するばかりだった。
 そこで語っている人物は、ガーネットの良く知っていたレーマンでも、先程優しく微笑みながら挨拶を述べた者でもなく、身も凍り付くような視線に、見下したような態度の、美しすぎるがゆえに恐ろしい人物だった。
 今まで誰一人としてこれ程冷酷な態度のライウェンには会ったことがないだろう。長年連れ添ったアタラクシアや、妹のタルティーヌはもちろん、実の子供たち、彼に信頼を寄せる国の者たちの誰一人として。
 ここで交わされる会話は、部屋の外で待っているアタラクシアには聞こえる筈がなかった。それ程までに彼の声は低く、そして慎重にガーネットの挙動の全てを己の身でもって視界を遮る。
 成り行きのような彼等の位置関係も、すべては計算され尽くした結果だった。
「貴女が今見ていたその光景は、……ああ、少し時軸がずれているのですね」
 水晶に映る光景を見つめたライウェンは小さく頷いた。中に映っていたのはジャスティスが一人の少年を掴んで飛行する姿だった。
「これは私の従兄弟で、実に頼りになる側近の二人ですよ。少年の方が、以前私を運んだ竜で、その少年を乗せているのがその弟。つまり私は本来私が居るべき場所に帰っただけのこと。ライウェンと言う竜族の王が死に、そしてその魂を持ったレーマンと言う人間が生まれ、再びライウェンとして生きる道を選んだ、というだけのことなんですが、理解して頂けたかどうだか。良いですか、最初で最後の忠告です。そのお嬢さんを解放してあげなさい。できなければここで貴女を消滅させることくらい、私には造作もないこと」
 冷たく開いた金の瞳、まったく感情が消え失せた美しい顔。
 恐怖するほど美しい容貌に見入られ、反論する余地もない程圧迫する精神的苦痛。それはその瞳で見つめられていると言うだけで襲ってくる。
 彼女は力なくその場に膝を折った。圧倒的な力の差があることを知ったのだ。
 それを見たとき、彼は不意に優しく穏やかな笑みを漏らした。
「貴女に紹介しておきたい人がいるのですが、最後に会って下さいますね」
 それは有無を言わせぬ強引な口調にも関わらず。それまでとは打って変わった柔らかい月光のようであった。
「アタラクシア、おいで」
 彼は振り向き、そっとその手を差し延べ最愛の妻の名を呼んだ。途端に愛らしい少女の微笑みを浮かべその手を捕るようにひとり少女が扉を潜ってやってきた。
 あまりに美麗で優美な光景だと思った。神々でさえ造型するのにその鼓動を押さえ切れぬかのような光り輝く二人。
「私の愛しい妻アタラクシア。最後に紹介することができて本当によかった」
 そう微笑んだ数秒後、彼はその場に座り込んだままのガーネットの指先から、赤い宝石の嵌まった金細工の小さな指輪をすっと抜き取った。
 その刹那、少女の意識が突然とぎれたかのように静かに床に沈んでいった。
 ガーネットの意思が宿った指輪を抜き取ったため、少女は長い間押さえられていた本来の自分を取り戻すことができるだろう。
 彼は静かに微笑み、その指輪を自らの指に滑らせた。
「ここでお休み、ガーネット」
 小さくつぶやいた声は、誰にも聞きとれはしなかった。
 そしてその場を離れようと振り返った矢先、扉の影に老人が立っているのに視線を移した。別段驚いた様子も見せず、ライウェンは軽く笑いかけた。
「あ、貴方々は……一体?」
 老人は神の御遣いでも見るようなまなざしで二人を見ていた。
「以前私達の子供がお世話になったそのお礼に、少しばかり立ち寄らせて頂きました。それから、オルレーヌが貴方によろしくと。それではもう、失礼致します」
 それだけ告げると、ライウェンはアタラクシアを伴って、何事もなかったかのように老人の前を行き過ぎた。
 まるで夢のような光景であった。


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