果てない道を君と歩こう -最終章[彼方への扉]
4 闘神

 ライダ城を後にして一夜明けた今、ファウルディースは赤い双眸を真っ直ぐ前に向け、決然としていた。
「マートゥラ殿、約束通り参上した。ついてはそちらにも約束を果たしていただくために、マリューシャをこちらへ返して頂こう」
 醜く油ぎった、いかにも好色そうないやらしい体系のよくに似通った親子を前に、ファウルディースは無表情に言った。
「まあ、返さぬと言っているわけではない。そう慌てなくともよいでしょう。ここはひとつ話し合いの場を設けようじゃないかね? どうでしょうね、バーディアル王子。王位を姉君に譲ってはいかがか?」
 不健康を絵に描いたような薄青白い顔に浮かんだ欲の塊に、バーディアルはカッとなり剣に手を掛けようとして思い止どまった。
 ファウルディースの手がそれを制していたせいもあったが、まずマリューシャの安全が確認されていない。
「落ち着いて、紳士的に話し合いましょう」
 醜く太った体を悪趣味な装身具で着飾ったマートゥラは慌てて愛想笑いを浮かべる。
「マートゥラ殿、王位は譲る物ではなく、授かる物。ダイルダイン父王が健在の今、そのような話し合いは無意味というもの」
 ファウルディースは完全に無表情を決め込むつもりらしい。
「今すぐに、というのではなく、将来ね。ライダの王とて不死身ではありますまい。やがては老衰にしろ病にしろ、暗殺と言うことも有り得なくもない。とにかく何時かは死ぬんですよ。将来の話し合いはけして無意味でない。それも確実に訪れる未来ならば特に、ねぇ」
 不気味な笑みは悪寒を覚えるほど酷い物だった。
「そんなに王位が欲しいか?」
 堪らずにバーディアルが前進した。
「それはもう」
 男はニヤニヤと答える。
「バーディアル、ここは私に。マートゥラ殿、そんなに王位が欲しいのなら私に剣で勝つことだ。我がライダにおいてはまだどちらが王位を継ぐか、その決定はなされていない。決定はなされていないが、私自身はその権利をすでに放棄している。だがここで、私に勝つことが出来たなら、権利を復活させよう。ここで仮にバーディアルが王位を譲ったとしても、今の私にはそれを授かる権利がないのだからな。どうする? マートゥラ殿。」
 無表情のまま相手を見つめ、相手が口を開こうとしたその前に、彼女は、ただし、と言葉を続ける。
「ただし、戦うのは権利を手にし、王位を授かったとき、実権を握る本人、つまりラドソン子息と言うことになるがよいか? 王たる者常に弱者を守るだけの強さがなければならぬからな」
 無表情な声と、無表情な態度。正正堂堂と背筋の伸びた姿勢のまま、彼女は相手を見ている。
「ま、待て。待て待て。幾ら私の息子と言っても姫に適うわけがない。ハンディをくれ。 戦うのは、王子だ。それならよかろう?」
 醜い親子はバーディアルを見てニヤリと笑ってみせた。
 コソコソと父親は息子に耳打ちしている姿は、何を言っているのかだいたい想像がついた。
「良いでしょう。バーティアルに私の代わりを務めさせましょう」
 チラリと目で確認してからファウルディースは返事を返した。
「なら決まりだ。では早速、試合の準備を」
 と言って、彼の座る椅子の横に下がった紐を引っ張ると、ガランガランと鐘の音が響いた。するとすぐに扉が開いて、おそらく奴隷として使われているであろう若者が裸足で駆けてくる。
 若者の格好は酷く薄汚れてはいたが、さぞかし美しい薔薇色の髪の持ち主だろうと思われた。きっと瞳の色も髪と同じ、上等の薔薇色をしているに違いない。
 彼等はその奴隷に試合場の準備を言い渡すと、さっさと犬でも払うような仕種で追い出した。
「準備ができしだい、ということで。ではその間に、お食事でもいかがかな?」
「いや、我々は外に止めたままにしてある馬車で待つ。用意が出来しだい、使いの者を」
 ファウルディースはすかさずそう言った。
「よろしい、そういたしましょう」
 露骨に嫌な顔をして見せたが、彼等が約束通り、十騎にも満たない兵と、王子と王女だけで来ていることは確認ずみのこと。
 別になにができるわけでもなかろうと、彼はその申出を簡単に受けた。


 馬車に戻ったファウルディースは大きな深呼吸をする。
「息が詰まるわ。あの男、バーディアルの噂を間に受けているらしいわね。お陰でまんまと貴方を指名してきた」
 バーディアルの噂とは、剣を持つ腕はなく竪琴を奏でる腕は天下一という物で、彼の剣技がどれ程のものか知られていない。
「だが姉上、私で本当に勝てるでしょうか」
「随分気弱だこと。今更弱気になってどうするの? 幻の剣士様」
 その一言にバーディアルはぎょっとした。
「姉上っ、ご存じだったのですか?」
「何も彼も。偽名を使い顔を隠した剣の名手は、剣技大会において優勝し、そしてそのまま姿を消した。人はその使い手を幻の剣士と呼ぶ。そうよね?」
 まったくその通りだった。
 彼の強い要望で、このことは口外されなかったのだ。
「参りました。さすがは姉上」
 彼は頭を下げ、感服の気持ちを現した。
「期待しているわよ。それにしてもマリューシャは安全なのかしら。気になるわね」
 不意に真顔に戻り、彼等は沈黙した。
 どれ程の時が過ぎただろう。ファウルディースが突然頭を上げた。
「姉上?」
「しっ、静かに。今、確かに聞こえたわ。エルマリアの声よ」
 それは微かにそっと呼ぶ声だった。
 ファウルディースとバーディアルは揃って馬車から飛び下りると、木の影に緑の髪の少女を見付けた。
「ファウル様っ」
 ファウルディースは急いで辺りにマートゥラの手の者がないか確かめてから、小声でその少女の正体を確認する。
「エルマリアッ?」
「はい。ファウル様」
 確かにその返事はエルマリア本人の声で返ってくる。
 彼等は慌てて少女のもとへ駆け付けると、その奥に自国の兵が居るのを見付けた。
「どうしたと言うのです?」
 驚いた彼女は、エルマリアを見つめた。
「カンザギオス様にお縋りいたしました」
「カンザギオス様に?」
 と、そこへ輝く金色の髪を波立たせた、気品溢れる青年が近付き、恭しく方膝を付くと彼女の白く細い手を取った。
「お初にお目に掛かり、光栄に存じます。カンザギオスと申す者でございます。貴女のお美しさは、噂以上だ」
 その日、木立ちに囲まれた午後の光の中で彼等は初めての出会いを迎えた。
「ファウルディースにございます。お目に掛かれて私こそ光栄ですわ。けれど、これはどういうことですの?」
 当然の疑問だった。
「貴女は人望のある方だ。特にエルマリアというこの少女は、貴女を心から心配している。
 私は貴女の国の民が貴女へ向ける思いに打たれ、ここまで遠路はるばるやって来たのですが、なるほど貴女は噂以上に素晴らしい女性のようだ」
 カンザギオスは円満な微笑みを浮かべファウルディースを賛美した。
「お褒めに預かり光栄に存じますが、今はこの通りの状況でございます。申し訳ございませんが、あの話は」
 ファウルディースの言葉を最後まで言わせずに、遮るように強引に口を挟む。
「私は貴女と今初めてお逢いして、貴女を気に入ってしまった。王女ファウルディース、貴女はもう充分にしてこられたのではないか? 守り、見つめるだけも良いかもしれぬ。
しかしそれでは辛い時、貴女は誰に頼り、安息を得るおつもりか? 辛ければ辛いと、泣きたければ声を上げて泣いていいはず。人は、人が思うほど強いわけではないのですよ」
 カンザギオスの言葉に、ファウルディースの双眸がみ開かれて行く。
 ただ一度、今初めて言葉を交わしただけの彼が言った言葉が、ファウルディースの心を包み暖める。
「もし、ご迷惑でなければ私とお付き合い願いたい。そしてこれは提案なのだが、以前より婚約は済んでいたことにして、婚約者の危機にナイトが駆け付けたと言う筋書きはいかがです? そうなればわざわざ民や各国に報告する手間が省けると言うもの。ファウルディース姫、私と結婚してくださいませんか?」
 彼はにこやかに兵士達の前で言い切った。その様子に、ファウルディースは思わず笑いだし、それから女性らしい微笑みで彼を見つめ返す。
「カンザギオス様、貴女は素敵な方だわ。私で良ければ謹んでお受けいたします。どうかよろしくお願いいたします」
 その返事を聞いた兵士達は皆、声を上げずに歓喜に沸き立った。
 ふたりの縁談が纏まると、それまでの事の成り行きを細かに説明し、これからの行動の打ち合わせを済ませると、何食わぬ顔で彼等は馬車へと戻った。
 程無くして、マートゥラの使いがやって来ると、中庭にその準備が整ったと言う。
 さらに試合観戦をより楽しく充実させるために傍観者にはこの服をと、衣装まで持たせてきたのである。
 仕方無く彼女はそのマートゥラの下心が見え見えの妙に婀娜っぽい露出度の高い衣装に身を包み、剣を持ち馬車を出た。
 木立ちの影から、それを見ている複数の視線に、使いの者に分からぬようにそっと目配せを送りながら、彼女は塀の奥へと消えた。
 バーディアルは先に会場へ通されている。
 中庭に作られた彼女の席に案内される。隣に座るのはもちろんマートゥラ自身だ。そしてそこにはマリューシャの姿もあった。彼女もまた、艶っぽい衣装を身にまとって不安そうな表情を浮かべ、何人もの兵士に囲まれ、座っていた。
「ファウルディース殿、剣はこちらでお預かりしましょう。物騒ですからな」
 マートゥラは剣に手を差し出したが、ファウルディースはにこりともせず、先程この会場の準備を申し付けられていた薔薇色の髪の奴隷を見付け呼び付けた。
「マートゥラ殿、剣はこの者に預ける。それでも良いか? 私が持つのではないから、同じことだろう?」
 自分の手を無視し、奴隷の若者を選んだファウルディースにマートゥラの顔は歪んだ。「宜しいでしょう。好きなようになさるがいい。どうせ我が儘を言っていられるのも今だけだ」
 すっかりラドソンと結婚するものと信じているマートゥラは、勝ち誇って見下げる態度でファウルディースの頭の先から足の先まで嘗めるように見ながら言った。
 彼女の視界内にマリューシャがいなければすぐにでも剣を抜き去り、その首切り離してやるところだった。
「貴方、名を何というの?」
 薔薇色の若者は、思った通りその瞳も澄んだ美しい薔薇の色をしていた。
 ファウルディースの問い掛けは、マートゥラに向けるものとは裏腹に、女性らしい柔らかさと、彼女本来の笑みがあった。その態度の変化に隣で油ぎった体に引火したように、真っ赤な憤怒の形相で引きつっている視線があったが、それには軽蔑するような一瞥をくれただけで、ファウルディースは若者に向き直る。
「奴隷に名を聞くなどっ、汚らわしいっっ」
 男のヒステリーな声が響く。
「生憎私、奴隷等と呼ばれる汚らわしい人種は存じませんわ。心の醜さを装いで隠そうとなさる方を汚らわしいとは思っておりますが」
 ファウルディースはその時初めてマートゥラに妖艶とも呼べる美しい微笑みを向けた。 今にも湯気が立ち上ぼりそうな男は、怒りと屈辱に震えている。
「マートゥラ殿、座ってはいかが?」
「言われんでもそうしようとしていたところだっ。口の減らない生意気女めっ」
 男は自分のために用意された特大の椅子に尻の肉を詰め込んだ。
「さあ、聞かせてちょうだい。貴方の名前」
 それまで主人の不機嫌さを恐れ、目を逸らしたまま俯いていた若者の、奴隷としての証明である黒い腕輪の嵌まった逞しい腕を掴んだ。ビクッと若者はうろたえ、腕を掴んだ白い手をまじまじと見つめた。
「私はファウルディース。ライダの第一王女よ。貴方の名は?」
 幾度目かの同じ質問に、おどおどと彼は視線を上げた。これ程美しい女性に彼はあったことがなかった。
 彼にとって、その美しい優しい笑みは、救いの女神に見えて当然であった。
「ラジード。でも本当は、ルルスファイン」
「ルルスファイン? 『薔薇の皇子』という意味ね? 貴方の両親が付けて下さった名前なのね? 何て貴方にぴったりたのかしら。素晴らしいわ」
 奴隷として働かされ、その名の意味が気に食わないと、マートゥラが勝手に名前を変えたのだろうということは想像が付く。
 ラジードとは、薔薇とは正反対に、赤と黒が不気味に混ざり合った色調で異臭を放つ、人にあまり好まれない花の名だった。
 マートゥラにしてはよく考えたものだ、とファウルディースは思った。
「では、私の剣をお願いできる? ルルスファイン」
「はいっ、よろこんでっ」
 と手を出して、彼はその剣を受け取ろうとした瞬間、慌ててその手を引っ込めた。
「どうしたの?」
「奴隷の手は汚いって」
 そのあまりに美しい装飾が施された銀に輝く細身の剣を目の当たりにしたとたん、自分が触って良いものか彼は躊躇したらしい。
「面白いこと。私達は同じ人間でしょう? そんなこと有り得るわけがないわ」
 とファウルディースは自分から彼に剣を握らせると、席に着いてしまった。彼はそこで剣を両手でしっかりと抱えたまま、ファウルディースの脇に立った。その光景を面白くなさそうに、マートゥラが見ていた。
 マリューシャがそのやり取りに気がついてファウルディースに潤んだ黒い瞳を向けていた。
「ごめんなさい」
 瞳はそう告げているようだった。
「さっさと始めろっ。ラドソンッ、そんな竪琴しか握ったことのないようなガキ、殺してしまえっ。あとで何とでも言い訳はたつ」
 本音はそこだろう。邪魔者はどんな理由を付けてでも殺してしまえ。マートゥラのヒステリーな叫びに試合の開幕を知らせる鐘の音が高らかに鳴り響いた。
 その刹那、門番が血相変えて走ってきた。
「マートゥラ様っ、た、大変です。屋敷を、屋敷をサリフォウスの兵が囲っておりますっ」
 息急き切った門番は、その様子を告げた。
「サリフォウスだとっ? 見間違いではないのか?」
 試合を行うために、中央に出揃った彼等を始め、全てのものが男の金切り声に向き直っていた。
「ま、間違いございません。あの旗印しはサリフォウス家の物ですっ」
 ダラダラと油汗を流す男の狼狽ぶりに、ファウルディースは人知れず笑っていた。
 ライダの兵を後衛に、サリフォウスの兵を前衛に持ってきたのは正解だったらしい。
 まんまとはったりに引っ掛かってくれた。
「し、指揮をとっているのは誰、誰なんだ」
 まるで心当たりがない様子に、最初から目的がファウルディース自身と、ライダの王位にあったと気付く。
 どうやらサリフォウスからのカンザギオスの一行が縁談のために出向いたことは知らなかったようだ。
「マートゥラ殿、おそらくそれは我が婚約者サリフォウス王国第一皇子、次期帝王カンザギオス様ですわ」
 妙に落ち着き払った態度でファウルディースが笑って答えた。
「ば、ばかなっ。婚約者だとっ?」
 幾ら金に物を言わせようと、今度ばかりは相手が悪すぎる。
 サリフォウスを敵に回せば自国メイジスラジアを敵に回すことになるのだ。
「あら、私に婚約者のひとりもないと、本気でそう思っていらしたのなら心外ですわね。貴方は間が悪すぎましたわ。悪運もここまで。私達の関係はすでにメイジスラジアの王もご承知でしたのよ。ただ、口外は伏せていましたけれど。なんと言っても、わが国にはメイジスラジアの姫が嫁いでますでしょ? それに加えてサリフォウスとも繋がりができれば、我がライダはただでさえ攻めにくい自然の城壁に囲まれておりますのに、さらに手出しできなくなりますでしょう? 反対派の動きもありますし、結婚のギリギリまでは、と思っておりましたの。そうですわ。マートゥラ殿、マリューシャが、メイジスラジアの王の愛娘であることはご存じね? 私も事をできるだけ大きくしたくはなかったので、こうして出向いて来ましたけれど、もうお終いですわ。どのようなルートでこのことをお知りになったのか存じませんが、この度の一件、メイジスラジアの王のお耳にも届いてしまいますわね」
 ファウルディースは相変わらず顔色のひとつも変えることなく涼しげに微笑んでいる。「ええーいっ、いまいましい女めっ。ラドソンっそいつを殺してしまえっ。お前達もぼっと突っ立てないで、この女を始末しろぉっ。そいつの剣をよこせっ」
 マートゥラは若者から銀の剣を奪おうと手を伸ばしたが、その刹那ルルスファインがその手を払い除けファウルディースに素早く剣を差し出した。
 件を受け取った彼女は、細身の長剣をスラリと抜き払った。
 銀色に輝く刃が眩い光を放ち、剣をただ抜いただけの、何の構えもないファウルディースから立ち上ぼる凄まじい冷気のような物が辺りを立ち込める。
 そこにいるすべての動きを止めるほどの、静かな殺気。
 赤い瞳は血を欲して笑っているかのように、銀紫の髪は立ち込める幻夢を思わせ、その姿には神々しいまでの気品があった。
 全てを飲み込む荒々しさと、鏡のように澄みきった湖の静けさ、それらを合せ持ったファウルディースの姿を例えるなら、まさに闘神。美しければ美しいほど、その威力は高まりを見せる。彼女にはそれだけの威厳が漲っていた。
「さぁ、どうするの? 私と戦う者は武器を持て。少しでも生き長らえたい者は消えるがいい」
 ファウルディースの言葉にようやく彼等は自分を取り戻した。
 途端に怖じ気付いた者がその場を後ずさりしながら、去って行く。が、主人への忠義か、それとも自棄を起こしているのか、少しばかりの威勢と、恐怖を振り払う呪いのようなときの声が上がり、ファウルディース、バーディアル両名を目掛け立ち向かう地なりが響き渡った。
「愚かな」
 ファウルディースはそう呟き、剣を構え向かってくる兵を旨く交わしながら、バーディアルと合流する。
 こうなれば互いに背後から攻められる危険性はずっと減るというものだ。
「バーディアル、まずマリューシャをっ」
 拳全体を覆うナックル・ガードのついた両刃剣は、突くにも切ることにも適した威力ある物だった。
 バーディアルもファウルディースも構えている剣は同じ型の物だ。
 バーディアルが先にひとりを切った。続けてその剣の反動でもうひとりの腹を突く。
 まったく動きに空きのない彼を見たラドソンが素早くその場を離れ、マリューシャのいる観戦の場へ行き着き、剣も握ったことのないマリューシャの腕を掴み上げた。
「い、いやぁーっ」
 マリューシャの悲鳴と、マートゥラの馬鹿笑いが同時に上がる。
「見ろっ、姫の命はラドソンの手の中っ、おとなしく降参し、婚約を破棄してくるんだなぁ。さもなきゃこの可愛い姫がどうなっても知らんぞ」
 ラドソンはマリューシャの首に刃っ先をあてがい、狂気じみた笑いを浮かべている。
 抵抗を止めようとしたその時、ラドソンの腕に飛び付いた物があった。
「エルマリア───ッ」
 ファウルディースが声を限りに叫んだ。
 ラドソンの腕から、マリューシャが解放され、同時にエルマリアの体が吹き飛ばされた。
 振り切られ、倒れたエルマリアの下の地面が朱に染まって行く。
 全てがあまりにゆっくりとしていた。
「エルマリアッ」
 叫んだファウルディースは、単身敵の最中へ踊り出た。避けるなどとまどろっこしい動作は見せずに、前を塞ぐ者を、行く手を阻む全てを、確実な動作と素早い動きで切り捨てる。息ひとつ乱れることなく突き進んだ。ところがあと一歩というところで、マートゥラが剣を振り上げ、エルマリア目掛け今にも降り下ろそうと構えた。
 間に合わないっ、そう思った瞬間、薔薇色の髪が舞い飛んだ。ルルスファインだ。
「うわぁぁーっ」
 エルマリアを庇って、彼の肩が裂けた。
「ルルスファインッ、エルマリアッ」
 いつもの冷静なファウルディースが感情をむき出しに剣を構える。ファウルディースの剣がマートゥラに狙いを定め振り上げられたその時、白くあらわになっていた肩を貫いた槍があった。
「姉上っ!!」
 ラドソンが近くの兵士から奪った槍を投げたのだ。カランッ、と堅い音を立てて銀の剣が大地に転げ落ちた。ファウルディースが利き腕の肩を押さえ、崩れるように倒れかけたが、その身は金の青年に優しく抱き留められた。
「ファウルディースっ、しっかりしろっ」
 もはや正気の沙汰ではないラドソンの不気味な笑いが聞こえた。
「いい気味だっ。この女はもう死ぬぞっ。槍には毒が塗られているんだっ。助かりっこないのさっ」
 フツフツと笑う声が不気味に辺りをこだまする。カンザギオスが剣を構え、片腕にファウルディースを抱えたままユラリと立ち上がったかと思うと、静かに揺らぐ殺気を琥珀の瞳に宿し、ラドソンを見据える。
「腕の一本も切り落としてくれる」
 ファウルディースを抱えたままだというのに、その動きには乱れがなかった。上から降りる刃を堅い金属音とともに払い除け、突き出された切っ先を降り下ろしてはその反動を利用した動きで確実に敵兵に切り掛かり、時には深々とその刃を飲み込ませる。ラドソンの前に立つまでに、時間はいらなかった。
 漸く全てのライダとサリフォウスの兵が進軍を終え、その数の多さに逃げ出すマートゥラの兵達の中で、逃げ場を失ったラドソンは、彼の予告通り彼の剣によってその腕を切断された。
 肩から腕が離れ飛ぶ。絶叫が辺りに血の匂いをまき散らし、転げ回る姿が彼の行いの報いを示していた。戦いは間もなくして幕を迎えた。
 どっと押し寄せ乗り込んだライダの兵と、サリフォウスの兵、その数の多さに圧倒されたマートゥラの兵士は、武器を捨てて降参し、マートゥラとその息子ラドソンはライダの兵に掴まり、その日のうちにメイジスラジアへ送られることになった。


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