果てない道を君と歩こう -最終章[彼方への扉]
3 嵐

 城内は上へ下への大騒ぎだった。
 城だけではない。町中がただひとりの人物を迎えるための準備に忙しく騒いでいた。
 王女が帰って来たということが、さらに拍車を掛けたらしく、普段から磨き拭かれた城中が輪を掛けて輝いている。
「気合いを感じるね。姉上には悪いことをしてしまったのかもしれない」
 その様子を見つめながら、バーディアルがそっと呟いた。
「そうですわね。きっと今頃」
 帰り着いた早々、姉は侍女達の手で自室に引き込まれ、さぞかし美しく磨かれているに違いない。
 隣でその呟きを聞いたマリューシャが、同意の呟きを返した。
「そんなことはなくてよ」
 と、そこへ山小屋暮らしの時とは比べ物にならないほど、豪華に美しく飾られた、本来ならこうあるべき姿のファウルディースが彼等の後ろからやってきた。
 その姿は、まさに宝石の輝きにも引けを取らない、希にみる美しさであった。
「姉上……」
「まぁ、お義姉様ごきげんよう」
 マリューシャが軽く膝を折り会釈する姿にファウルディースも微笑み返した。
「気を使うことはないのよ、マリューシャ。我が儘な私を許して下さいね」
 澱みない仕種が、美しさをさらに引き立てていた。
 白銀を主体にした色の衣装は、彼女のためだけに作られた物だった。
 上品に気高く、そしてさらに女性らしさを加えたデザインは、知性と艶やかさを合せ持つ彼女の魅力を充分に引き出している。
「やはり姉上はお美しい」
 バーディアルの素直な感想にファウルディースは小さく笑った。
「弟に褒められてもねぇ。まぁお世辞だとしても、嬉しい言葉だわ」
「お世辞だなんてとんでもありませんわ。女の私から見ても、見とれてしまいますもの」
 慌ててマリューシャが首を振った。
「ありがとう」
 ニコッと笑んだその表情には、どこにも嫌味なものがない。自分の美しさを褒められたことへの素直な喜びが出ていた。
「ところで姉上、カンザギオス様をどう思われていらっしゃるのでしょう」
 バーディアルがずっと気になっていたことをやっと聞くチャンスを得ることが出来た。「会ってみなくては、どう思うも分からないことでしょう?」
 答えはあまりにあっさりと返ってきてしまった。しかし、確かにその通りなのだ。
 バーディアルは頷くしかなかった。
「とても頭が良く、お美しい方と聞いたことがありますわ」
 マリューシャが前に噂で聞いたことを思い出しそう告げた。
 以前メイジスラジアで行われた会議の最中に、ファウルディースが剣技と舞いを披露したように、彼女もまたその席にて歌を歌っていたが、その間、時間の余裕が作れずカンザギオスとは逢えなかったのだ。
「そう、頭の良い方なのね?」
 微笑んでファウルディースはそのまま歩き出した。
「そろそろお着きになられるころかしら」
 歩き出したファウルディースの視線が、どこか遠いところを見ているように思えたバーディアルが声を掛けようとしたが、どうやら彼女は部屋に引き籠もるつもりらしく、そのまま来た廊下を戻っていく。
 微かな衣擦れの音が遠ざかり、彼等は暫く黙ったままファウルディースの歩き去った廊下を見つめていた。


 部屋にひとり佇むファウルディースは、彼女自慢の剣を手に取り、その鞘を愛しそうになんども撫で返していた。
 山小屋から持ってきた物はその剣のみだった。
「ファウル様……?」
 お付きの侍女がトレーにグラスを乗せ、遠慮がちに入り口から覗いていた。
 美しい若葉色の髪を脇でひとつに束ね、水に濡れたような新緑の瞳がじっと彼女を見ていた。
「どうしたの? お入りなさいエルマリア。ここへ来て、話し相手になってくれないかしら」
 エルマリアの故郷、ルゥダの村はファウルディースが十四歳の時に盗賊に襲われ、村人のほとんどが殺されている。
 討伐を行った結果、エルマリアを初めとする多くの子供と、年若い男女が救出された。 討伐隊の活動が迅速だったためか、村でさらわれた者達は売られずに済み、現在はライダで生計を立てている者も少なくない。
ルゥダは各地から長い年月を掛け、エルマリアのように緑の髪や瞳といった数少ない者等が集まり、ライダ領地の山中に築いた小さな村だった。しかし、その村も崩壊し、再建は無理に等しい状態だった。
 その当時、ファウルディースがまだ七つだったエルマリアを気に入り、自分のお付きとして引き取り、それ以来妹のようにエルマリアを可愛がっていた。
 ファウルディースを誰より慕っているのもエルマリアだろう。
 どんな時もファウルディースの側から離れたことのなかった彼女が、今回のこの家出騒動で一番心細い思いをしていたに違いない。
 ファウルディースの以前と変わらない態度に触れた途端、彼女は小犬のように小走りに寄ってきた。
「ファウル様……。ご無事で何よりです」
 緑の瞳が涙に潤んでいる。
「ありがとう。この城でそんなことを言ってくれるのは貴女だけよ。エルマリア」
 彼女はエルマリアからトレーを受け取り、テーブルの上に置くと、ソファーに座るように促した。
「ファウル様、ご結婚なさるって、本当ですか?」
 隣に腰掛けたエルマリアが不安そうな瞳を向ける。その瞳に優しい笑みを返し、ファウルディースは少女の持ってきたグラスを手にした。
 中にはロスパイジャが注がれている。ファウルディースの最も好む果実酒だ。
 コルト酒よりも甘みが無く、酸味の強いのが特徴で、香りだけでも気分をリラックスさせてくれる。
 もともとロスパイジャの香りには沈静の効果があると言われているくらいだ。
 喉を通る、透き通った壮快感がたまらなく好きだった。久し振りに飲む味に、彼女は無意識に微笑みを浮かべる。その様子を見ていたエルマリアがニコリと笑った。
「ねぇ、エルマリア。ずっと私についていてくれる?」
 思わぬ言葉に、エルマリアは彼女の赤い瞳を見つめた。
 今までに一度だとてこのような質問を受けたことがなかったし、彼女がそんなことを口にするなどと考えもしなかった。
「あ、わたし……。そんなこと考えたことなくて。ずっとファウル様のお側にいられるものと、勝手に思ってました。でもファウル様がご結婚さなれてしまったら、わたしはもうここにはいられません」
 彼女は俯いたまま首を振った。
「あら、なぜ?」
「だって、ファウル様はライダを出て行かれてしまうのでしょう?」
 緑の瞳がじっと赤い瞳を見つめていた。
 初めて出会った時の、縋るような目は今も変わらない。
 そんな瞳を見ているうちに、ファウルディースは小さく吹き出した。
「エルマリアはあの頃と全然変わらない」
 初めてあった日、盗賊討伐を終え凱旋した彼等の中で、まだ幼いエルマリアは両親を失い、ライダの自分を助けた兵士ですら信じられず、ただ馬車の中でひとり蹲って震えていた。
 馬車から他のルゥダの村人が降りた後でさえも、差し延べられる手を拒絶し続け、怯えた目を向けるだけだった。
 困り果てた討伐隊の隊長を勤めていた騎士隊の隊長は、当時剣の稽古をつけていた王子と王女に、何とかこの娘を説得して欲しいと頼みにやってきた。
 同じ子供同士の方が打ち解けやすいのではないかという彼なりの配慮だったのだろう。 彼としてみれば年の近いバーディアル王子に期待を持っていたが、少女はファウルディースの赤い瞳を見た途端、その首にしがみついた。まるで信じられるのは彼女だけだというように。
 それからはどこへ行くにも、何をするにもファウルディースの後を追いかけて歩き、ファウルディース自身も妹が出来たような気になり、すっかりこの少女を気にいったのだ。 少女が何故自分に懐いたのか、その理由はわからないが、ファウルディースはとにかく自分を慕ってついてくる幼い少女を何とかこのまま城に、自分の側に置きたいと父王に願い出た。
 しかしその頃のエルマリアは口も利けず、それまでの記憶すらなかった。
 おそらく両親が目の前で殺されたか、想像以上に恐ろしい体験をしたショックからだろうと医者は言った。
 自分の名前すら覚えていない娘を城に置くのはどうかと論議が持ち上がったが、ファウルディースが大人を相手に、威厳を見せるように静かな口調で瞳に強い意思を宿しながら、はっきりと言い切った言葉があった。
「忘れてしまった名など何になりましょう。そんなに名前が大切ならば私が名付けます。 今日からこの子の名はエルマリアです。『永久の少女』という意味を持つ立派な名です。
 それでも何か問題がございましょうか」
 と。その日以来少女は、エル『永久』のマリア『少女』と呼ばれるようになった。
「ねぇ? どうしてあの時、私だったのかを教えてくれない?」
 笑ったまま当時のことを思い出し、楽しい思い出を語るように尋ねるファウルディースに、エルマリアはなぜか赤くなって俯いき、暫くしてから小さな声で囁くように呟いた。
「きっとお笑いになります」
 その様子をじっと見つめる赤の瞳は、優しく微笑んでいた。
「笑う? 私が? どうして私が笑わなければならないの? 笑われるほど貴女は不真面目な理由で私を選んだの?」
「とんでもありませんっ、わたし凄く真剣で真面目でしたっ」
 と、頭を上げたエルマリアの瞳に映ったのは、包むような暖かい微笑みだった。
「ならば決め付けるのはおよしなさい。不真面目は笑われても仕方がないことよ。けれど本気や真面目を笑う者は愚かで、心が貧しく寂しい人の行いよ。エルマリア、自分が信じることが他人にどう受け取られようと、真剣ならばそれは通じる物なのよ? 話してみて、私を選んだ理由を」
 エルマリアはファウルディースの言葉に大きく頷き、ニッコリと笑顔を浮かべ、それから少し恥ずかしそうに頬を染めた。
「ファウル様の赤い瞳を見たとき、なんだかとても懐かしい気がして、赤い瞳が私を唯一受け止めてくれるって思ったんです。探している物が、きっとそこにあるような気がして。今でもわたし、信じてるんです。両親の記憶もルゥダの記憶もないけど、薔薇のような赤い瞳で微笑んでくれる人ときっと必ずどこかで出会えるはずだって。ファウル様に初めてお逢いした時、そう感じたんです。赤い瞳を見たとき物凄く安心したんです」
 黙って聞いていたファウルディースが、持っていたグラスをテーブルに戻し、姿勢を少しエルマリアの方へ向けるようにずらした。
「誰かを好きになったことはある?」
 静かな口調だった。
 エルマリアは静かに首を横に振った。
「そう。まだ貴女は十七だったわね。いつか貴女の思う人と出会える時がきっとくるわ。信じていれば、運命は自ずとそうなる物だわ。私の思いは適ったみたいですもの。だからね、もうそろそろ、いい頃なのよ」
 彼女は少し遠い目をして誰にともなく微笑を向けた。
 エルマリアは赤い瞳がこれほど澄んでいるのを始めて見たような気がした。
「今まではバーディアルのことだけが心配で、あの子が強くなければ、国も、あの子の愛するマリューシャも守ることができない。でも今のあの子は充分に力をつけて、私を越えている。自分では気付いてないでしょうけれどね」
 話を続けながら、彼女はそこで悪戯っ子のような目でエルマリアを捕らえ、口に人差し指を指に当てた。
「この話はあの子には内緒よ」
 彼女の楽しげな様子に、エルマリアはコクンと頷いてみせた。その様子に満足そうに微笑んで、再び口を開く。
「ここだけの秘密。自分で気がつかなければ意味のないことですもの。だから私も、そろそろ落ち着いて、皆を安心させなければ。そう思うでしょう?」
 そう問われてエルマリアは言葉に詰まってしまった。
 そんなことない。それとこれとは別問題だ、と言いたいのに言葉が出ない。
 まるでエルマリアの言葉を聞いたかのように、彼女は少し溜息をついて窓の外を眺めながら銀の髪を弄ぶ。 
「でも不思議なのよ。バーディアルとマリューシャを見ていると、前にもどこかでこんな幸せに満ちたふたりを見守っていたような気になるの。それだけでも私は充分に幸せな気持ちになれる。けれどずっとこのままでいるわけにはいかないの」
 まるで自分自身に言い聞かせるように彼女は首を振った。
「ファウルディース様……?」
 エルマリアがたまらずに声を掛ける。
「エルマリア、お願いがあるの」
 真剣な表情で、彼女は突然少女に向き直った。
「今度のお話しは、相手がどのような方でもお受けするつもり。ライダを離れる時は、貴女に私と一緒にサリフォウスまで来てほしいの。もちろんこれは命令ではないから、断ってもいいわ。答えをすぐにとは言わない。正式に私の答えが公表された後でいいわ」
そう告げると、彼女はフッと安堵の笑みを漏らした。しかしそれは、面と向かって自分の我が儘を伝えるのに、随分と回りくどい言い方をしてしまったものだと肩を竦めたのと同時に出た笑みだった。そして再びグラスを持ち、喉を潤す程度に中身を含む。
 彼女の心の内などおかまいなしに、それを聞いたエルマリアの顔は、パッと喜びと感激に華やいだ。
「ありがとうございますっ。わたしファウル様が付いて来いとおっしゃるならどこへでもお供します。でもぉ、わたしなんかで良いんですか?」
 最後の一言に不安の色が伺えた。
「貴女じゃなきゃだめなの。こんなにゆっくりお話しが出来るのは、エルマリアだけなのよ」
 ファウルディースの言葉に緑の瞳が嬉しそうに輝いた。
「ありがとうございますっ。わたし、今とっても嬉しいです」
 声が弾むように聞こえた。
 そんな和やかな雰囲気に、突然の侵入者があった。それは酷く慌てた様子でバタバタと慌ただしい足音とともにやってきた。
「申し上げますっ。只今東側庭園に賊が侵入し、マリューシャ様を人質に逃亡を計っているとの情報がありました。直ちにご命令をっ」
 膝を付いた兵士の言葉に、今までとは打って変わっって、厳しい表情を浮かべたファウルディースが、傍らに置いた剣を手にスッと立ち上がった。
 その刹那、風が吹いた。まるで一陣の風がその場を駆け抜けるような、一瞬の緊迫感。
 そこに立っていたのは、たおやかに談笑する麗人ファウルディースではなく、威光に満ちた剣士ファウルディースその人だった。
 その動きに合わせエルマリアが素早く彼女専用に誂えられた軍服を取りに隣室に駆け込んでゆく。まるで無駄のない動き、その動作そのものから、かなり手慣れていると思われた。数秒も経たない僅かな呼吸の間に、エルマリアの腕にしっかりとそれら軍服の一揃えがきっちり抱き抱えられ、彼女の前に用意が整った。
「賊の数は?」
 声までもが、凛々しく響き渡る。
「総勢約30余りかと思われます」
「国中の門を閉ざし、騎馬隊、騎士隊は門外に二十騎二十名づつ待機。残りは東の山を中心に進路を塞ぎ、騎士隊は民の安全確保に十五名を動員せよ。哨兵はより厳重な見張りに勤め、ひとりたりとも逃がすな。賊の正体を割り出しておけ。すぐに東側庭園に行く」
「はっ、畏まりました」
 駿足を誇る守兵は、一度深く頭を下げるとさっと踵を返し走り去った。その後すぐに彼女は輝く銀の軍服に身を固め、優雅に結われていた髪を乱暴に解く。
 脇でひとつの三つ編みを慣れた素早い手つきでエルマリアが編んでいる間に、膝頭まで覆うブーツに履き変える。わずかの時間に支度は整い、白金のマントを肩に止め、腰に剣をさげた姿が凛々しく猛々しい。
 ファウルディースはそのまま、エルマリアに視線を少し向けてから、マントを翻し立ち去った。
 向かうはマリューシャの囚われた現場。東側の庭園だ。
 東側といえば裏城門のある場所だった。
 そしてその東の山こそ、ファウルディースの住んでいた山その物だ。したがって彼女は東の山に住む山賊の類いではないと即座に判断していた。
 少なくとも近隣の山に身を潜める賊が、城を襲うはずはない。
 彼等は皆ファウルディースには手をださないという協定の元に、その力関係を保っているのだ。
 というのも彼女は以前、近隣の賊の大将と一騎打ちをして回ったことがある。その時彼女に勝てた者がなかったために、彼女と彼女の国には一切手をださないという約束を取り決めていた。
 彼女が庭園に現われた時、対称的な黒い軍服に身を包んだ男が寄ってくる。
「姉上っ、お待ちしておりました」
 その男は他でもないバーディアル本人、マリューシャの夫であり、彼女の弟その人だった。
「お前が付いていながらどうしたというのです? 説明なさい」
 厳しい声が飛ぶ。
「マリューシャは何人かの侍女と、この庭の中央噴水にて、たわいもないおしゃべりに興じていたらしいのです。そこへ突然後ろから六、七人の男が襲いかかり、マリューシャに薬を含ませ担いでその木を伝い壁から逃げたということです」
 どうやらバーディアルのいない空きを突いた犯行だったらしい。
 バーディアルの指差す木を見つめながら、ファウルディースはその時の状況を頭の中で再現しようと勤めていた。
「怪我人は?」
「侍女が二人、切り殺されています。残り三人も重軽傷を負って、医務室に運ばれました」
 彼女の顔が、微妙に歪んだ。
「殺された……? 何と可愛そうに。手厚く葬ってやらねば」
 と、その時だった。頭と腕に包帯を巻いた侍女が小走り息を切らせやってきたのは。
「申し訳ございませんっ。わたし達が付いていながらっ」
 彼等の前についた途端、彼女は地面に手をついて頭を擦るほど深く下げたまま、上げようともしない。
「過ぎたことだ。それより何か見なかったか? 賊の身に付けているものや、何か手掛かりになりそうなものは」
 ファウルディースは侍女の肩に手を掛け、そっと立たせてやりながら聞いた。
「はい。あっ、マルスラ様だかマルトゥラ様だかがなんとかって、マリューシャ様を抱え逃げる途中にそんなことを言い合っていたと思います」
 その言葉にファウルディースもバーディアルも、顔色を変えた。
「ありがとう。よく覚えていたわね。ゆっくり養生し早く元気になるのよ」
 ファウルディースは彼女に労りの言葉を忘れず掛け、そのまま城内に下がらせた。
「マートゥラだわ。あの男がなぜマリューシャを?」
 眉をしかめたまま、唇を噛み締める。
「何か証拠があれば……」
 まるでその呟きを待っていたように、騎士隊の兵士がなにやら掴んで走り寄ってくる。「ファウルディース様、このような物が城壁に掛かっておりました」
 それは布の切れ端だった。恐らく逃げる途中に城壁の岩に引っ掛け破れたのだろうが、これでは証拠にならない。
「城壁のどちらの壁だ?」
 南にならば間違いない。マートゥラの仕業と考えていいだろう。
 マートゥラとはライダより南、メイジスラジアの統治するフリシリアの成り上がり貴族で以前息子の結婚相手にと申出があったものを断ったことがある。
 それ以来マートゥラとは一切関係を持ってないが、噂では彼の息子はファウルディースが諦められずにいるというが、真偽のほどは確かめたことはなかった。
 今夜にもサリフォウスからカンザギオスの一行がやって来るという時に、今や城は緊迫したムード包まれていた。
 それはあまりに間の悪い時期に起こった。このままではカンザギオス等を迎えるどころではないが、相手がマートゥラであるとほぼ確定した今、相手の出方を伺った方が賢明
なのかもしれない。
 まだ断定した訳ではないのだ。乗り込んでいくわけにもいかない。確たる証拠が見付からない今は。
「ファウルディース様、このような物が南側城壁に」
 哨兵が差し出したのは一枚の封筒だった。臘を溶かした押し印が封筒の口を止めていた。
 その印は、紛れもなくマートゥラ家のレリッセの花を象った紋章だった。
 ファウルディースはそれを手早く読み終えると、バーディアルにその紙面を読むよう差し出した。
 それを受け取り素早くその内容を読みとったバーディアルの顔が引きつっていく。
「姉上、これは……脅迫です。よりによってマリユーシャと姉上の身柄交換だなどと」
「最初から狙いは私なのか、それとも今度の縁談を反対するものなのか。どちらにしても、汚いやり口ね。でも仕方無いわ。マリューシャは私の大切な妹。バーディアルの愛する姫君ですもの。受けて立ちましょう」
 彼女はくるりと踵を返すと、足速に城内に戻っていく。バーディアルも慌ててその後を追った。


「エルマリア。サリフォウスに一緒に行って欲しいと頼んだのは本心からよ。でも、これから私が行くところへ貴女を連れては行けない。きっと貴女には貴女の信じる人が現われるわ。何時までも貴女らしくいてね。エル(永久の)マリア(少女)」
 その旅立ちはあっと言う間だった。彼女の出発の意味を知ったエルマリアは、目の前が暗くなる思いがして、倒れそうになる自分を必死で堪えていた。
 国王も王妃もファウルディースがなぜ突然にマートゥラ家へ嫁ぐと言い出し、その日のうちにしかも軍服のまま、弟とわずかの兵を従えただけで慌ただしく誰の意見を聞くこともなく旅立ったかその真相を知って、暗く沈んでいた。
 拉致されたマリューシャの身柄の安全と、メイジスラジアの王に知られる前に、騒ぎを大きくしてはなるまいとしたその意思を無駄にするわけにもいかず、どうすることも出来ない。
 時間ばかりが急速に流れるような、静かな暗い雰囲気に包まれたライダの城へ、とうとうファウルディースのいないライダに、サリフォウスからの一行が到着したのはファウルディースが出発して二時間と経たないうちであった。
 間が悪いと、誰しもが呟いていた。
 もう少し、あと何時間か早く着いていてくれれば、マートゥラの好きなようにはならなかった物を。
 城門が開き豪華で華やかな行列がやってくると、さり気なく皆が目を逸らす。
 謁見の間へ通される彼等の姿に、誰しもがその驚きと感嘆の視線を向け、しかしその双眸はすぐに落胆へと変わり、見つめ続ける者はなかった。
「遠い所、よくおいでくださいました。長旅でさぞやお疲れのことでしょう。今夜はゆっくりと休まれますよう、部屋の支度は整っております」
 ライダ国王ダイルタインの静かな瞳に、複雑な色が浮かんだまま、ファウルディースに求婚に来た皇子を見ていた。
 その容姿は、セムカパーズでは珍しい透ける光の束のような豊かな黄金の髪と、太陽の輝きと呼ばれる程の見事な琥珀色をした瞳を持っていた。その端正な顔立ちの中にも、威厳や儀容溢れる偉大さといったあらゆる気品が全身から滲み、生まれながらにして偉大なる王となるに相応しい立派な青年だった。
 ファウルディースと並べば、さぞかし美しい取合わせになっただろう。
 ダイルタインの横に並んだ、おとなしく控え目な印象を与える王妃ミレスフィアの目に涙が浮かび、見る見るそれは頬を伝う流れと変わり、王妃は顔を覆い、声を殺して泣き始めた。
「どうなされました? 王妃様にも、この国の民にも。私は歓迎されぬ客なのでしょうか?
 どうぞご遠慮なく、申して下さい」
 カンザギオスの言葉に王は頭を振った。
「この日を待ち望まぬ者がこの国にいたとは思えません。姫は、貴方の来られるのをずっと待っておりました。どうぞ気を悪くなさらないで下さい。王妃はここのところ体調が優れず、精神的に不安定になっておりますゆえ。後程改めて、ゆっくり話しましょう」
 王の合図で侍女が彼等を客間へ案内するために進み出る。
 怪訝そうな表情を浮かべながらも、彼はそれに従わないわけにもいかず、とりあえずは謁見の間を後にした。
 残された王は頭を抱え、王妃は声を上げて泣き出した。
 マートゥラの息子ラドソンがカンザギオスの十分の一でも、しっかりした若者であったなら……。
 マートゥラ家と言えば、悪どい商売で荒稼ぎした金で今の地位まで上り詰め、今も人身売買や売春、密輸、貧乏人に多額の利子を付けては金を貸し、人を人と思わぬ諸行の数々をし尽くしていることは有名だった。金のためなら人の命など紙屑以下だともっぱらの噂だ。さらにその息子ラドソンは金に物を言わせ好き放題やっていると聞く。
 かつてファウルディースに求婚した時も、その贈物の数と言ったら、王公貴族にも負けない程のもので、品物はどれも趣味の悪い金銀細工ばかり。贈られてもよろこべないような物ばかりだった。
 その際ファウルディースのとった行動は、すべての贈物を手付かずのままに送り返し、使いの者には丁重な断りの手紙を持たせのだった。
 ファウルディースの最も嫌う人種と言っても過言ではなく、正視すら耐えられないと憤慨していたものだ。
 その男のもとへ行ったのだ。娘の幸せを第一に考えていた王妃の涙は当たり前だろう。
 客間へと通されたカンザギオスは自分を案内した侍女を呼び止め、何があったのかを聞き出そうと試みたが、侍女は思った以上に口が堅く首を横に振る以外、答える様子は伺えなかった。
仕方無く、彼の身の回りの世話をするための少年と部屋におとなしく引き下がることにしたが、どうにも腑に落ちない。
 メイジスラジア帝国からの話しでは、ライダと言う国は小さいながらに平和に、そして友好的な立派な国であり、メイジスラジア国王の愛娘が嫁いでいると聞いたが、その王子もその王子の妃となられた姫も、挨拶に来られないとはどうしたことか、その理由がたんに自分と言う存在を嫌っての嫌がらせなのか、それとも、何か重大な出来事の只中に来てしまったのか、それすら検討がつかない。
「どうしたというのだ。この国の者は皆私を見て見ぬふりをする。私はそんなに醜いか?」
 彼お付きの少年に尋ねると、少年はびっくりした瞳で主人を見つめた。
「僕は主人様ほどお美しい方など滅多におられないと思いますよ」
「外見などどうでもよい。美しくなくても構わぬが、中身は別だ。私は多くの民支持されねばならぬ身。その私の心が醜く、この国の者は目を合わせぬのであろうか」
 大きく深い椅子に腰掛けた彼は、足を組み膝に肘を掛け、美しい手に形の良い顎を乗せていた。
「まさか。主人様の良さが分からぬなら、この国の人間は見る目がありませんよ」
 少年は主人の苦悩する姿を見ながら元気の良い笑顔を作った。
「そうとは思えんがね」
 と、その時扉を叩く鈍い音が響いた。
「はい?」
 少年が扉を開けると、そこには美しい緑の髪と目をした少女が立っていた。
 今まで泣いて居たのだろうか、目に涙を溜めて潤んだ瞳が少年を見上げている。
 服装からすると、侍女たちの物と良く似ているが、どことなくデザインが違う。
「カンザギオス様はいらっしゃいますか?」
「え、ええ。何のご用です?」
 少年は少女の涙に潤んだ瞳に驚き、少し警戒していた。
「お願いです。助けて下さい。ファウル様を助けて……」
 少女はその場に力なく泣き崩れ、少年をさらに困惑させる。
「どうしたね?」
 奥から異常に気が付いたカンザギオスが出て来ると、その様子に眉を寄せた。
「おやおや、こんなお嬢さんを泣かしてはいけないよ」
 その場の雰囲気を解きほぐすための口実と知ってはいても、少年は複雑な表情で、泣き崩れた少女を起こす主人を見つめる。
「さぁ、中へ入って。何か飲むかい?」
 カンザギオスに支えられ、部屋に入った少女は首を横に振り、お願いとばかり繰り返している。
「困ったね。何をしてほしいのか、泣いていたら分からない。落ち着いて、最初から話してごらん」
 ファウルディースの部屋にあるのと同じような幅広のソファーに腰掛け、彼は宥めるように優しく語り掛ける。
「わたし、エルマリアっていいます。ファウル様の身の回りのお世話をさせて頂いてる者です。カンザギオス様、お願いです。ファウル様を、ファウルディース様を助けて下さい」
 彼の優しい態度に落ち着きを取り戻した少女は、両手を合わせ頼み込んだ。
 彼ならファウルディースを幸せにしてくれる、大きな強さを秘めた男性とだと、エルマリアは信じて縋っているのだ。
「ファウルディース姫に、なにがあった?」
 彼はエルマリアから彼が訪れる前、数時間前に起こった出来事を聞き出し、彼等の態度をようやく理解した。
 彼等は彼を認めなかったわけではなく、認めたからこそ悔しかったに違いない。
 そこで彼はエルマリアに微笑んでみせた。
「ファウルディース姫は私に任せ、君はここで帰りを待ちなさい」
 するとエルマリアは強く頭を振った。
「嫌です。どうか連れていって下さい。マートゥラ邸へはわたしが案内できます」
 その瞳には強い意思があった。
 彼は少女の瞳に「分かった」と告げた。
 早速彼等はダイルダイン王に騎馬の要請を申し出ると、それまで我慢していた多くの兵が志願しだし、たちまち大きな軍が出来上がった。相手はたかが成り上がり貴族とはいっても、マートゥラは油断のならない相手だ。どう言う汚い手を使うか分からない、彼等はその日の夜城を出発した。



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