果てない道を君と歩こう -最終章[彼方への扉]
5 想い

 空がどこまでも晴れ渡った朝、ライダの国は歓喜に溢れかえっていた。
 祝福の色一色に染まりきった町並み。
 通り過ぎる風までもが喜びに温もっているようだった。
 王女ファウルディースと、サリフォウスの王子カンザギオスとの婚約が発表されたのは、昨日の日暮れ時。
国王自ら表に立ち、最初の祝辞を述べた。そのニュースはあっと言う間に国中に広がり、今朝はもうすでにセムカパーズ大陸ほぼ全土の知るところとなっているに違いない。
 色とりどりの花火が打ち上がり、彩り鮮やかな紙吹雪が絶え間なく乱舞し、喜々とした賑わいに震える町を赤い瞳が見つめていた。
城の自室から、その光景を眺める、少しだるさを伴った虚ろな赤い瞳。しかしその口元には笑みが漏れている。
 椅子にもたれた女がただひとり、満足気にその光景を眺めている姿を、黒い瞳が柔らかいまなざしで見ていた。
「姉上、只今戻りました」
 彼は軽く壁にノックを響かせ、にっこりと笑って見せる。
 銀紫色の長い糸のような髪がサラサラと風に揺れ、肩から背中へ落ち、ゆっくりと彼女が立ち上がると、肩に羽織っていた一枚の布が柔らかく滑って落ちた。
 ファウルディースはその布を肘に溜めるように押さえ振り向いた。
 やはりまだ具合が悪いのだろう、白い肌がより白く、消え入りそうにはかない顔色をしている。それでも心配をかけまいと、微笑んで静かに手を差し延べた。
「バーディアル。思ったより早かったのね」
 町並みを見下ろしていたファウルディースは、おぼつかない足取りで二三歩近付こうとしたが、バーディアルの腕が細い腕を支えるように掴んだ。
「ご無理をなさってはお体に触りますよ。それに薬、まだ飲んでいらっしゃらなかったんですか?」
 窓辺から姉の手を取りベッドまで誘導したバーディアルは、薬の用意を見て笑った。
「忘れていただけよ。それよりマートゥラはどうなったの?」
 肩に受けた傷が原因で、あの日より丸五日間高熱にうなされ、意識不明のまま過ごしたファウルディースは、昨夜からやっと立って歩けるほどまでに回復し、早速メイジスラジアから帰るバーディアルを待っていた。
「裁決は下されましたよ。地位や財産は剥奪。屋敷は取り壊されるとのことです。多くの奴隷も解放されて今は自由の身となり、それぞれ帰るべき土地へ送り届けられるそうです。あの親子は罪が重く、十年間地下牢幽閉の後、討ち首ということです」
 彼はそれまでメイジスラジアの裁判に立ち会い、下された刑のすべてを語りながら水差しの水をグラスに注ぎ薬とともに手渡した。ファウルディースは渋々それらを受け取ると、一度バーティアルを上目遣いに見つめたが、仕方無く一気にそれを飲み干した。相当苦いのだろう、表情がそれを物語る。
「そう。でも同情の余地はないわね。ねぇ、ルルスファインがどうなったか分からない?」 苦さを堪えながら、エルマリアを庇って怪我を負った薔薇色の若者の身を案じる。
「心配いらないでしょう。カンザギオス様の下で働いてますよ、彼。今はエルマリアに尽きっきりで看病してますけど」
 彼は楽しそうに笑って答え、姉の手からグラスを受け取り、そっと横に寝かせる。
「そうなの? 良かったわ。彼ならエルマリアを幸せにしてくれるわねきっと」
 しばらくは舌に苦さが残るだろうが、その答えには彼女の笑顔が広がった。
「ええ、ですから姉上にも早く良くなって頂かないといけません」
 と、彼は側の椅子に腰掛け手と足を組んで、ニコリと微笑んだ。
「そうね」
 ファウルディースは天幕の張られた天井を見つめ、クスッと小さな笑みを漏らした。
「ところで姉上。本当にカンザギオス様で良いのですか? あの時、なぜ即座にお受けになられたのでしょうか」
 不意に彼は今まで心にわだかまっていた問いを持ち出した。
 その弟の真剣なまなざしをファウルディースの赤い瞳が見つめ返す。
「カンザギオス様は、ただの一目で私を見抜いていたの。あの方は私の欲しかった言葉を下さった」
そこで一端言葉を区切ると、黒い瞳を覗き込み、また天井へ視線を移すと、深く呼吸を溜め込んでから、力を抜くようにゆっくり吐き出す。それからまた話し始めた。
「それにね、あの方のあのお姿を拝見した途端、不思議な思いが私の中を駆けた気がしたの。私はこの方を待っていたんじゃないかしらって、そう思ったのよ。あの方が私を選んで下さるのを待っていたような気がしたわ。バーディアルも前に話してくれたわよね。マリューシャと出会った時、運命の女性だと直感した、と。きっと、その時の貴方と同じ気持ちだわ」
 ファウルディースの声が幸せに弾んでいるよでバーディアルの心に安堵感が広がって行く思いがした。
「姉上の欲しかった言葉とはなんだったのでしょう」
 バーディアルはゆっくりと姉を見ていた。
 まるで夢を見ているようにまどろんだ意識の中で、ファウルディースは微笑する。
「あの方は、泣いて良いとおっしゃった。もう、私の役目は終わったと。ずっとその言葉を待っていたわ。貴方がもう立派になっているのに、それでも私は心配せずには、守らずにはいられなかった。でも、もうそれは終わったのよ」
 ファウルディースの静かに閉じた目から、一筋の涙が流れ落ちた。バーディアルの初めて見た涙。
 今まで誰よりも強く、凛々しいと信じていた姉の初めて見せた涙は、とても美しい滴だった。
 ファウルディースのバーディアルを思う気持ちは知らない間に彼女自身を束縛する鎖となっていたのだ。それに気付かなかった彼等が、さらに彼女を追い詰めていた。
 彼等は彼女の心を気遣うことを忘れ、守られているのが、彼女が強くいることが、当たり前だと感じていた。そのことにようやく気付いたバーディアルが口を開こうとして、言葉を飲み込んだ。
 ファウルディースは、安心したのか、喋り疲れたのか風に当たり疲れたか、または薬が利いたのか、眠ってしまっていた。その寝顔をしばらく見つめていた彼は、風の入る窓の戸をそっと閉め、ファウルディースの寝室を後にした。
「姉上の我慢を強さだと信じていたなんて僕等はどれだけ、姉上に我慢させてしまっていたのだろう……」
 廊下の静寂の中に、彼の歩き去る足音と呟きが静かに解けて消えた。


 バーディアルとカンザギオスが向かい合い談笑し、マリューシャとルルスファインも楽しそうに微笑み合う最中。
 開いた窓から流れ込む風が、薄いカーテンの布地を柔らかく揺らしていく。
 たわいもないおしゃべりに興じている彼等の中に、まだ少しふらつくファウルディースが、すっかり傷も癒えたエルマリアに支えられやってきた。
「たのしそうですわね。よろしければ仲間に加えて頂きたいわ」
 病み上がりだと言うのに、その美しさに陰りひとつない彼女の微笑みは、幸せに満ちていた。スッと立ち上がったカンザギオスがエルマリアに代わって、ファウルディースの体を支えると、ゆっくりとソファーに座らせ、自分もその隣に腰掛け、彼女が楽なように肩を貸し与える。
「ごめんなさいね。ご迷惑をかけて」
「気にすることはない」
 ルビーのような瞳がじっと琥珀色の瞳を見ている。
「不思議だわ。貴方と前にどこかで逢っているような気がする……」
 肩にもたれながらファウルディースは微笑んで、エルマリアに視線を移した。
「ルルスファインは、貴女の信じてい待っていた人だと思う?」
 その問い掛けにルルスファインがびっくりしてエルマリアを見つめ、見つめられたエルマリアは頬を朱に染めながらも、はっきりと大きく頷いた。
「はい。ルルスファインの薔薇色の全てがわたしに教えてくれました。出会う時が来たんだって」
 嬉しそうなエルマリアの側にルルスファインがそっと寄った。
 ふたりが揃って初めて一本の完全な薔薇が咲いた、とファウルディースは思った。
「ルルスファイン、エルマリアを幸せにしてあげて。人一倍寂しがりだけど、その分勇気のあるとてもいい子よ」
 まるで本当の姉であるかのように、彼女はエルマリアの幸せを願っている。
「ありがとうございました。ファウルディース様。貴女のお陰でエルマリアに出会えた。 貴女の言葉が僕を救って奴隷から解放してくれた。あの時、エルマリアがマートゥラに殺されると思った時、僕は知らずに庇っていました。僕も、ずっと探していた。そんな気がします。エルマリアの緑の瞳がなぜか、とても懐かしい大切なもののように思えたんです」
 ルルスファインはマートゥラの屋敷で出会った時より遥かに輝いて見えた。きっとこれが彼自身本来の姿に違いない。
「ファウルディース、ひとつ提案があるのだが、聞いてもらえるかい?」
 カンザギオスがそっとファウルディースの手を握った。
「提案? 是非とも伺いたいわ」
 琥珀の瞳を見つめ上げる。
「君も知っての通りルルスファインは我が下で働いて貰うことにした。エルマリアは君に付いてくると言っているそうだね」
「ええ」
 小さく頷いてみせる。
「私達の挙式と、彼等の挙式を一緒に行ってはどうかと思うんだ」
 その発言はファウルディースだけでなく、そこにいたすべての者を驚かせたが、反対する者はもちろんなかった。
「お義姉様、おめでとうございます。エルマリア、幸せになってね」
 それまでその光景を黙って見ていたマリューシャが一番最初に彼等に祝福を送った。
「惜しいね、僕らもまだ結婚していなければこの輪の中に入れたかもしれない。姉上、僕はもう大丈夫ですから、どうぞ幸せになって下さい。カンザギオス様、これからは弟としてよろしくお願いいたします」
 バーディアルも楽しそうに笑った。
「その時は、バーディアル殿の竪琴にマリューシャ姫の歌を合わせ、披露していただくことにしよう。それにしても、なんと素晴らしいことか。どうやら一度に弟と妹がふたりづつ増えたらしい。私はファウルディースだけでなく、多くの友人を得たわけだ」
 カンザギオスは微笑んで、そこにいるそれぞれの顔を見て言った。
「素敵だわ。これからはカンザギオス様をお義兄様とお呼びできるのね」
 マリューシャの顔がぱっと輝き、カンザギオスの記憶の片隅に何かが浮かんで消えた。
「どうなさいまして?」
 その様子に、ファウルディースだけが気付いたらしい。誰にも分からぬ程度の声でそう尋ねた。
「いや、何でもない。ただ、何だかとても満たされたような気がしてね。この時を、こうして皆で互いの幸せを祝福し称えあうという瞬間を、ずっと心のどこかで夢見ていたような気がする。今、私の心はとても穏やかなのだよ。ファウルディース……」
 彼はそっと呟いて深く椅子の背にもたれかかった。
「私達は皆、心の奥でこの日を待ち続けていたのですわ。これで良かったのです。きっと。 これは運命だった、と私は思います」
 ファウルディースは静かに、瞳を伏せて呟いた。自分に言い聞かせているかのように。
「運命……か。そうかもしれない。私達は始まりを求めていた、幸せに暮らせる日の始まりを。もう、ずっと昔、気の遠くなるような過去の時代から」
 遠くを見つめる琥珀の瞳に映っている風景が、なんであるのか誰も知らない。本人ですら、その過去を知らないのだから。
「私達は行き着くところへ行き着いたのですわ。そして、これから新しい未来が始まろうとしているのですわね」
 赤い瞳がそっと、過去を思い、未来を思いながら、静かに閉じられた。
 そこにはバーディアルとマリューシャが寄り添い、ルルスファインとエルマリアが微笑み合い、そして、カンザギオスとファウルディースが語り合う。
 

二組の幸せを願う祝福の鐘が鳴り響き、花嫁達の白いヴェールが青い空に栄えそよぐ中で、彼等は手を取り合い、明日を望む。
 そしてこの幸せが続くことを彼等は祈る。それは懐かしい、どこかで見ていた風景。
「旅をしていたような気がします。ここへ辿り着くための、長い長い旅を」
 マリューシャがぽつりと呟いた。バーディアルが、遠い遥かな空を眺めながら相槌を打った。
「本当だ、とても長い時を費やしたような気がする」
 彼の黒い瞳は清しく微笑んでいる。
「神は……見ておられるのだろうか。こんな小さな我々の、些細な出会いがどれ程の意味を持っているか、神は知っているのだろうか」
 ルルスファインの呟きは、大気に溶けて流れだし、大空の彼方へ、神の身元へ届くだろうか。
「それでも私達はいつか出会える、そんな気がする。旅を終えるその日まで。私達は引かれあう。それが定め」
 エルマリアの素直な気持ちは、出会う前から只ひとりを待っていた。それ程までに自分を信じそれが自分の道だと知っていた。今、少女の中に広がる気持ちはどんな空よりも晴れ渡っているに違いない。
 青くどこまでも高い空にブーケが舞った。鳥がその上を渡っていく。
「私の旅が終わりを迎える時、またこの瞬間を願う時、願わくば、誰にも知られず消えて行きたい」
 カンザギオスの言葉は、愛される者への労りと、愛する己への素直な気持ちだった。
 知られずに、知らずに終われば、誰も傷付かない。誰も傷付けることがない。
 それは愛する者を知った者の強さ。そして弱さその物。
「どんなに遠くても、きっと迷わない。たとえどんなに遠く離れても、時を隔てたとしても私達はきっと、どこかで出会えるわ。愛し、愛された記憶はなくても、また探してしまうのよ。それが永遠に続いても。心からの安らぎを求めて、広い空を、海の上を迷わずに飛ぶ鳥のように。きっと、いつまでも……」
 ファウルディースは空に向けて微笑んだ。
 ここが、彼等の新しい始まり。
 時が、止まることを許さない旅の静観者であるかぎり、彼等の旅は終わらない。
 青く澄み渡った大空に、歓喜の声が谺する。

 どこかで誰かがクスリと笑う
 この微笑ましい幸せを
 天空の果てから見ている誰か

 幾億もの未来、夢見て求めた小さな明日を、私は今 
この胸に抱き寄せる──


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