果てない道を君と歩こう -最終章[彼方への扉]
2 迷い

 一度滅びたライダの国は、再び奇跡の繁栄を遂げていた。今から何百年もの昔、この廃墟と化した大地を蘇らせたふたりの人物の肖像画は、今も広間に色鮮やかなまま飾られ、高い壁から彼等を見下ろしていた。
 滅びの直前を知っていただろうふたりの肖像画もまた、そこに飾られている。どちらも幸せそうに寄り添う、王と王妃の姿として描かれていた。
 その二組の肖像画の見守る中、王子は何度も部屋の行ったり来りを繰り返し、時々止まっては深い溜め息に肩を落とす。
 その原因は、先程父王から明かされた相談ごとに他ならなかった。
「姉上に、縁談、か……」
 王子は先程から、同じ言葉を何度も呟き繰り返していた。
「バーディアル様、こちらにおいででしたのね? 何をなさっておいでですの?」
 その様子をしばらくじっと見ていた黒い瞳が、不思議そうに首を傾げる。
「なにかお困りごとがございますのでしたら、私にもご相談くださいましな。お役に立つことがあれば、なんでもおっしゃって。私、貴方のお力になりとうございます」
 彼の無意味な動作を止めたのは、彼の妻マリューシャだった。彼女は美しいと呼ばれるより、愛らしいと表現されることが似合う女性だった。まだ年も若く、全体的に幼い印象を与えるのは、彼女が大切に育てられた証しだろうが、バーディアルを思う気持ちにそんなことは関係ないらしい。
 彼は、姉に縁談話が持ち上がっているということを、少女のままの妻に話すべきかどうか少々迷い、僅かの時間、黒い深い闇の底のような瞳を覗き、少女の瞳に映る自分を見ていた。が、突如不意に、その迷いは断ち切られ、妻の瞳に込められた、彼を思う気持ちに決心は固まった。
ひとりで考えていたところで、いい案などでるわけはない。ここはいっそ同じ女性の意見を取り入れるべきなのかもしれないと、彼は思った。
「マリューシャ、実は姉上にまた縁談が持ち上がっているんだが、肝心の本人は知っての通り不在のまま、相手の方は三日のうちにも到着なさるそうなんだ」
 彼は心底困ったように肩を落とした。
父王がそのことでどれだけ悩んでいるか、彼も彼なりに考えていた。今までに何度も縁談話はあった。彼女の美しさに世界中から言い寄る男は絶えなかった。しかし彼女にはまったくその気もなく、ましてや自分より腕の劣る男のもとへなど、考えただけでも鳥肌が立つと、もの凄い剣幕とともに、毎日のように届く贈物の中から飛び出してしまったのだ。
「今までようにお断りできない方ですの?」
 黒い瞳でマリューシャが覗き込む。何と無邪気な瞳をしているのか。それでいて時々驚くほど聡明な、妙に大人びた光を宿す瞳。
「相手はミドウラナ大陸でも最も強大な力を誇る国、サリフォウスの第一王子カンザギオス様なんだ」
 言いながらも彼はその大きな国を思い浮かべさらに大きな溜め息をつく。サリフォウスと言えば、セムカパーズ大陸で数千年の歴史を誇っている。今だ衰えることを知らない大帝国メイジスラジアと肩を並べ、その強大さゆえに古くから平和協定を結び、一切争うことのないよう勤めていることは有名で、その名を知らぬ者はないと断言できるだけの実力を持った国でもあった。その協定のために今までに二つの大陸の間に大きな争いはないに等しい。
 メイジスラジアとサリフォウスは、暗黙の了解のうちに、各大陸の代表と見なされている。その力関係に大きな変化もないまま現在に至っているのだ。その巨大な国からの申し出であった。それだけではない。メイジスラジアの国からも、友好の証しを立てる意味として、この縁談にくれぐれも粗相のないようにとの無言の圧力が掛けられている。その証拠にマリューシャの実家、メイジスラジア家から新たに五人もの侍女と、サリフォウスの王子を迎えるためと思われる幾つかの調度品が届き、さらにはカンザギオスに贈る赤毛の見事な馬一頭が運ばれていた。
 不意にマリューシャの表情が曇った。
「それで、でしたのね。どうして今頃になって侍女が増えたり、調度が運ばれたのか分かりましたわ。なんとお詫びしてよいか……」
 どうやら実家の圧力の掛け方に気付いたらしく、彼女は瞳を伏せ俯いた。
「いや、君が誤ることではないから。それより、どうやったら姉上が戻って下さるか、というのが問題で、何か意見を請おうと思ったんだ」
 今までは紙面のやりとりですんだが、今回は違う。なんといっても海を渡って本人がわざわざやってくるというのだ。そんな最中に当人の姿がないなど、考えただけでも恐ろしいというもの。
「では、お迎えに行ったらどうですの?」
「なんども使いの者を出したよ。しかし、どれもこれもみな相手にされずに戻ってきた」
 彼はまた更に深い溜め息とともに肩を落とし、首を重くうなだれた。
「ですから、使いの者ではなく、貴方ご自身がお迎えに上がるのです。ファウルディースお義姉様はとても聡明でいらっしゃいますもの、きっと分かって頂けるはずですわ。宜しいではありませんか。カンザギオス様にはお目に掛かったことはございませんけれど、お義姉様がお気に召さなければそれまでとなされば。その後のことは私が父にちゃんと説明いたしますわ」
 相当実家の圧力を気にしているらしいマリューシャの発言にしばし驚きつつもその心遣いが嬉しかった。
「まさかそんなことを君にさせるわけにはいかないよ。それに、話して分かって下さるかどうか……。なんと言っても今度は国同志の関わり合いだからね。まあ幸にも僕の父はこれと言って領土拡大だとか、政略結婚とかいったことを好まない方だから今まではなんとかなってきた。僕も、姉上はこの国で軍事総指揮官長のままでいてくださるものと思っていたからね。でもそれでは姉上がかわいそうだ。本来ならそれは僕が任されるはずだったんだから」
 だんだん彼は落ち込んだ気分になってきた。思えばずっと姉に甘えていた気がする。どんな時も姉が側にいて、彼を見ていた。赤い瞳は彼を包むように見つめていた。見ていられるのが当たり前で、見ていられれば安心して行動できた自分。
姉は無言でいたこともあった。助言をするときもあった。すべて適格に、彼のためだけに行われていた姉の行為。
 今初めて彼は気付いた。姉の気持ちがほんの少しわかったような気がした。
「ならば剣の試合を申し込まれてはいかが? 貴方が勝てば宜しいのよ」
 突然彼女はとんでもないことを平然と口にした。
「それは無理に等しいよ。竪琴を奏でるなら負けないけれど、剣では一本も取れた試しがないんだから」
 彼は力なく笑ってみせた。
「あら、そんなことありませんわ。貴方と私が出会った日を覚えていらっしゃる? 貴方はあの時、身分をお隠しになっていましたわね。偽名まで使って、城で行われた剣の試合に出場なさっていたわ。それで見事に貴方は優勝なさったではありませんか。あの時のあのいで立ち、まるで暗黒の魔人様の再来かと思われましたわ。その後で一曲奏でて下さって、父が貴方をとても気にいりましたのよね」
 彼は彼女のにこやかな微笑みに、照れたような笑いを浮かべてみせた。
「琴はともかく、剣は、あれはマグレだよ。ああいうことは滅多にあることじゃない」
 彼は慌てて訂正を入れたが、彼自身剣の腕に自信があったのも隠し切れない。
「騎士長様がおっしゃっておられましたわ。これ程の使い手が、そうそう滅多にいるものではないと」
 にこやかに微笑むマリューシャは、まるで彼の心を知っているかのようだった。
「そうかい? それは大変嬉しい言葉だ」
 少々ドキッとくる視線を交わし、彼は彼等を見下ろす二組の肖像画を見上げ崩壊前のライダ最後の王と王女を見つめた。
 文献によればそこにいる王は、当時メイジスラジアの皇太子だったという。どういういきさつかは詳しく記されていないが、正式にふたりは結婚していたわけではなく、何者かの手でたった一夜にして滅ぼされ、奪われたこの国の王女を、皇太子は命を掛け救うべくその相手に立ち向かったらしい。が、それっきり彼等は姿を消したと言う。
 この絵は結婚式に備え描かれた、唯一ふたり揃った只一枚の絵なのだと聞いた。不思議にそこに描かれた王女の黒い瞳に映る影が、やや離れた位置に飾られたもう一枚の絵に描かれている、再びこの国を蘇らせた彼等の先祖でもある肖像画の王妃の姿に映る影と同じ
物に見えた。さらにその表情はマリューシャに通じる物があるように思えてならなかった。
 国を、地位を捨ててまで戦った暗黒の魔人。魔人と呼ばれ恐れられたメイジスラジアの皇太子を愛した美しい王女。人はそれほどまでに誰かを思い続けることができるのだろうか。命を掛けても、結ばれなかったふたり。
 荒れ果てたこの地を、再び活気溢れる平和な国として蘇らせたふたり。
 彼等はともに何を見、何を考えたのだろう。まるで彼等は時を越え、その思いの深さを物語るような瞳で見下ろす。なにを語り掛けるのか、今の彼等に。
 ファウルディースの心にも、彼等と同じ思いがあるのだろうか。誰かを待ち続けているのだろうか。
 バーディアルは、心の中に様々な思いが駆け抜けるのを感じていた。そしてそれは今まで彼を一番に支えていた姉への思いでもあった。
確かに自分の剣の腕は今や上達の極みではあったが、姉に勝てるだけの物か定かではない。よしんば勝てたとして、姉のプライドが傷付きはしないか。剣の試合を申し込むにあたって彼が一番心配している部分でもある。しかし彼自身の自信としては負けるか、引き分けになるかといったところだ。
 あの姉の剣捌きは各地を歩き、様々な人間を相手に実践を交えてきたにも関わらずそれを越える者がなかったくらいだ。まさに天性の才能と呼ぶに相応しい。
 滑るように流れるような身のこなしは女性ならではなのだろうか。剣を握った姿があれ程美しい人もまずいないであろう。
 それに彼の勘では、姉はまだその実力の全部を出し切っていないに違いない。片鱗を見るだけでも相手は怯まずにはおられない。剣を手にした姉の醸し出す雰囲気は確かに命の糸を断ち切るであろう予感を伴わせる緊張を含んだ物だ。もし本気になれば、確実に死ぬという予感を与えるのかもしれない。もしかしたら、それ以上の恐怖を。
不意に実の姉の、銀の刃を手に、赤い瞳が薄く微笑む姿が見えた気がした。
その口元に妖しい程に美しい笑みが漏れるその瞬間を思い描いた時、背筋に凍るような息吹を感じ恐ろしくなった。
なるべくなら二度と剣を交えたくない、そんな相手が自分の実の姉だとは……。裏を返せば、敵でなくて良かった。ということだろうか。
「どうなさいましたの? いきなり黙り込まれておしまいになられて」
 いろいろと考えていた彼を覗き込む視線にようやく気がついた彼は、慌てて笑んで見せると、取って付けたような返事を返した。
「確かに君の言う通りかもしれない。僕自身が説得すれば、姉上だってきっと分かってくれるはずだ。僕でなければきっとだめなんだ」
 ファウルディースの心残りはきっとバーディアル自身。そのことに彼はぼんやりと気付き始めていた。
 暖炉の前で座り込んだ彼の髪が乾き始めた頃、彼のいる部屋と姉のいるだろう部屋を分けていた布が緩やかに動いた。
「──姉上?」
 白い人影がぼんやりと浮かんで見えた。影は、次第にはっきりと輪郭を象り、ゆっくりと彼へ向いた。瞳を伏せた愁い顔のファウルディースが、壁にもたれるように現れる。
「バーディアル。わざわざ貴方が出向いたのにはそれなりの理由があってのことなのでしょう? 話してちょうだい。私が帰らなければならないことが起きたのなら、はっきり言ってちょうだい」
 静かな歩みでファウルディースはバーディアルから少し離れた戸棚の扉を開き、コルト酒の瓶と、ふたつのグラスを手に、彼の側へやってきた。
「アルコール度はないに近いけれど、多少は気を落ち着けてくれるわ。お飲みなさい」
 そう言いながら彼女はグラスをひとつ手渡すと、そこに液体を流し込む。途端に甘い香りが鼻をくすぐる。
「ありがとう。丁度喉が乾いていたんだ」
 彼はそれを笑顔で受け取り、煽るように飲み干した。すかさず空になったグラスにコルト酒が満たされる。
「さぁ、話して。私の居ない間になにが起きたの?」
 床の、毛足の長い獣の型をそのままに残した敷物の上に、バーディアルを正面にファウルディースは座り込んだ。
 彼は赤い瞳をじっと見つめ、口を開く。
「実は……」
 彼はいきなり本題に入るべきかどうかを少し考えた後、ファウルディースをしっかり見据え話し始めることにした。
「姉上に縁談があります。サリフォウスの王子カンザギオス様がそのお相手と言うことです。以前メイジスラジアで行われました会議の席で姉上を見掛けられ、噂を耳にしたということです」
「会議の席?」
 ファウルディースは少し考え軽く頷いた。
「お心辺りがお有りですか?」
「ええ、たぶん。あれはそうね、確か二年程前になるかしら。七年に一度メイジスラジアの王とサリフォウスの王、それと各国の王や貴族が集まって国々の友好関係を維持するために行われる会議があるでしょう? まだ貴方は出席したことはないはずね。その会議は三日間行われるんだけど、その間の一日は友好の証しとして相手の大陸を持て成すために、色々な催しが開かれるのよ。その時にね、メイジスラジアの王からのお達しで、剣技と舞いを披露させて頂いたことがあったわ。確かあの時サリフォウスの王子もいらっしゃっていると聞いたような気もするわね。私は知らないけれど、きっとその時だと思うわ」
 その話を聞きながら、確かに彼女ほど美しく剣を振るう者はないだろうと妙に納得する思いがした。
「姉上の剣と舞いでしたら心奪われても不思議ではありませんね」
 なんとなくバーディアルの方が嬉しさに沸いているような、自慢気な笑みを漏らす。
「バーディアル、私の縁談の話ではなかった?」
 つい脱線しそうな雰囲気をファウルディースが柔らかく止めに入った。
「そうでした。ええっと、それで……。ああ、カンザギオス様がこちらに向かっていると言うのです。なんでも姉上と直接話をしたいと。できればその場で婚約を取り決め早々にも纏めたいとのことです。どうやら先方は相当姉上をお気に召したようですね。それで父上が悩んでおられるのは、第一に姉上が城にいらっしゃらないこと。第二に、メイジスラジアの方からそれとなく圧力が掛かっていること。姉上のこの縁談は国と国、ひいては大陸と大陸の問題にまで発展することも考えられることゆえ、どんなに望まなくても断ることができないのではないかと、そればかりを案じておられます」
 彼女はそれをじっと黙って、目を閉じたまま聞いていた。
 不意にゆっくり開いた赤い瞳が優しく、しかしどこか諦めの色を浮かべ微笑んだ。
「私ももう二十四でしょう? これ以上渋っているわけにはいかないわ。それに、ここまでの我が儘を許して下さったお父様を、これ以上苦しめることはできないもの。貴方がここへ来たときから考えていたわ。きっと私に選ぶ道はないって。でも大丈夫よ。覚悟は出来ているの。それでカンザギオス様はいついらっしゃるの?」
 ファウルディースの何もかも吹っ切れたような、晴れやかな笑顔が余計に寂しくもあり悲しくも見えた。
 バーディアルは瞳を伏せて視線をずらし、横で燃えている炎の照り返しを肌に痛いほど感じた。
「それが、明日明後日にも。こんなぎりぎりまで迷っていました。姉上が戻って下さるか、耳を貸して下さるか、不安だったんです。姉上、許して下さい」
 ファウルディースの顔を見ることができずに、そのまま首を竦めるように彼は突然誤った。すると、ファウルディースの高らかな笑い声が響き彼の肩に白い手が乗せられた。
「貴方がなにを謝るの? 使いの者を追い返し、聞く耳を持たなかったのはこの私。私は悪い姉ね。ごめんなさいね、バーディアル。貴方まで苦しめてしまっていたなんて」
 笑いは消えていた。そこには泣きそうな、か弱い女性の姿があった。バーディアルが初めて見る、今にも崩れてしまいそうな姉の姿。
 さっき肩に置かれた手は、彼女の体を必死に支えるように、毛足の長い敷物に埋もれている。炎に向けられているはかない横顔。ファウルディースは暫くどこを見つめているのか定まらない視線のまま、動く気配すら感じさせなかった。
「……姉上?」
 彼はそっと呼び掛け覗き込んだ。その声にようやく顔が向けられた。弱々しい笑顔とともに。
「ねぇ、バーディアル?」
 赤い瞳に映る彼の姿が緩やかに揺れているようだった。この大陸、否、世界の中でも珍しい色を持つ姉の姿を改めて感じた。このライダの国を含めた、セムカパーズ大陸に住む者のほとんどが黒という色を主体にしてはいるが、中には例外もない訳ではなく、極僅かだが赤や緑、青などといった色を持つ者も存在している。
今ではさほど珍しい物ではなくなってきたが、彼女のように銀という色を主体に、赤い瞳と白すぎる肌を持って生まれる子供は非常に少ない。生まれたとしても、そのほとんどが生を受けた直後に死んでしまうのが常であった。
彼女のようにそのまま健康に育つという例はごく希で、その為に希少価値がつく。これが平民の生まれであったならば、今頃は高い金で売り買いされていても不思議ではなかった。それが一番自然な運命だったに違いない。
 しかしかつて、メイジスラジア帝国の血筋においても彼女のような白い子が生まれたという記録も残っている。立派に成長したその子は銀の幻影と呼ばれ、このライダの滅亡を目の当たりにしたとされる皇子の片腕として恐れられた存在だったらしい。
 そのこともあり、今ではその剣の腕と彼女の色が重なり、銀の幻影の再来と呼ばれていた。ところが、銀の幻影と呼ばれた人物の面差しを知ろうにも、彼を描いた絵が一枚も残っていない今、彼がどういった人物であったのかは、文献のみでしか知ることができない。
 だがきっと、彼はファウルディースがバーディアルを見つめるように、その赤い瞳に王子を映していたに違いない。
「貴方は強いわね? 私がいなくとも大丈夫よね。いつまでも、昔のままの貴方ではないのですもの。大丈夫よね、もう子供ではないもの」
 彼女は弟の姿を瞳に映しながら、自分自身に向かって納得させているようだった。微笑む姿が何を考えているのかバーディアルには分かったような気がした。
 ファウルディースは幼い頃からバーディアルを庇い、バーディアルのために様々な行動をとってきた。
 彼女の中にある物は、バーディアルが強くなることだけ。自分自身の力で幸せを守れるだけの、やがて王となり多くの信頼を得られるだけの強さと大きさを持った立派な姿を見たい、それだけが願い。それがファウルディース自身の決めた、ただひとつの思い。
 だからこそ、彼に強さを求める。それが彼女の定めであるかのように。
 彼を誰よりも愛している。その思いが今初めて強く感じられる。愛しているからこそ、彼女は微笑みを浮かべている。
 この世にただひとつの、不定形な愛の形。恋愛ではけしてない、世界でただひとつただひたすらに好きだから、大切だから幸せをと願う心に満ちた思いの形。
 バーディアルは泣きそうな自分に気付き、慌ててそれと悟られぬよう喉に込み上げる思いを飲み込んだ。
「明日、貴方とともにここを出ましょう。ここは処分するわ」
 自分は姉より強くなったのだろうか。
 姉の意思の籠った瞳に彼は不安になった。
「本当ですか? 姉上」
 彼はもし話してだめなら、剣の試合を申し込むつもりでいた。自分が勝ったら必ず連れ戻すという条件を付けて。けれど、その決心は無駄に終わったが、本当にそれで良かったのか、自分がどれ程姉と戦えるか、姉が本当に喜ぶほどつよくなったのか、突如彼の胸に不安が沸き上がる。
「ええ。本当よ」
 彼女はグラスに残っていたコルト酒を一気に空けると、すっと立ち上がりそのまま布の仕切りを跳ね除け奥の部屋へと消えた。
 まるで彼の心の不安を読みとり、それに向かって励ますような笑顔を見せて。
 彼はまたひとり暖炉の前で、弱くなった炎に照り返されながら、姉の消えた奥の部屋の入り口に掛かる布をじっと見つめていたが、やがて暖炉の脇に重なった薪を火の中にくべると、毛布を引き寄せ体に巻き付けた。
 しばらくはパチパチと火の粉の弾ける音が耳に触ったが、それに慣れるころ彼は深い眠りに落ちていた。


 次の朝は良く晴れ渡った気持ちの良い青空が広がっていた。嵐の後の静けさとでも言うように。
 バーディアルは鳥の囀りに急かされ目を覚ました。香ばしい薫りとクツクツと鍋の煮える音が目覚めを促している。
「おはよう。昨夜は良く眠れて? 今日はとても良い天気。外に水桶があるわ。顔を洗ってらっしゃい。本当は裏の泉で洗うのが一番気持ちが良のだけれど、今朝はだめよ。昨夜の嵐で水かさも増えて。濁ってしまっているわ」
 バーディアルの気配に気付いたファウルディースは、パンを切りながら後ろを振り向かずに声を掛ける。
 清々しい声に、夕べの陰りは見えない。
「おはようございます、姉上」
 まだ眠りから覚めきらないのか、目を擦り大きな伸びをしてから立ち上がった。
「椅子に掛けてあるタオルをお使いなさい」
 見れば二つしかない椅子の片方の背もたれに、純白のタオルが掛かっている。
「ありがとう」
 そのタオルを手に、彼は扉を開けた。昨夜嵐の中開いた扉だ。
「何て良い朝だろう」
 空を仰ぎながら天に向かって再び伸び上がり、戸口の脇に置かれた大きな桶を見付け蓋を取った。中には良く澄んだ綺麗な水が彼の触った振動で弧を描き、波紋が模様を作っていく。
 手を入れるとひんやりと肌を刺す。心地好い冷たさが刺激となって眠惚けた神経をシャンとさせる。
「気持ち良い……」
 彼は早速顔を洗いさっぱりさせると、家の中へと戻り、おいしそうな香りに幸せな笑みを浮かべた。
「目が覚めたでしょう? 食事の支度は出来ているから、久し振りに一緒にいただきましょう」
 朝食の支度が整い、テーブルの上ではゆらゆらと白い湯気が立ち上ぼっている。
「全部姉上が?」
 席についた彼は目を丸くして尋ねた。
「そうよ。全部自分でね。凝った物は出来ないけど、それでも人間は生きて行ける物よ。さぁ、しっかりおあがんなさい」
 にっこりと笑む姿は、昔のまま惜しみない愛情を注ぐ優しい物だった。
「いただきます」
 朝食は穏やかな雰囲気に包まれ、姉弟、水入らずの時を過ごした。
 やがて出発の時刻になると、彼は昨夜途中から乗るのを諦め、引いてきた馬を近くの大きな木から放し連れてきた。
「良い場所に繋いだわね」
 ファウルディースは連れてこられた一頭の馬のたてがみを撫でながら笑った。
 彼が繋いだ場所は、木の影になり直接の雨には濡れないような場所だった。
 吹き付ける雨が多少馬を濡らしただろうがバーディアルと旅に出たこともある馬だ。野宿や雨風には城で飼われる他の馬よりは慣れているはずだった。
「良い子だこと」
 おとなしい馬の背を軽く叩く彼女を見ながら彼は身支度を整えると、早速馬に飛び乗った。
「荷物は誰かに取りにこさせますから、さぁ行きましょう」
 と彼は馬上から手を差し延べる。
 素直にそれに従った彼女を乗せた彼は、不意に姉が軽く、自分よりもなんと細いことかと驚いたが、口には出さなかった。
「しっかり掴まっていて下さいよ」
「ええ、分かっているわ」
 そう微笑んだファウルディースの腕には一本の剣が大事そうに抱かれていた。
 二人を乗せた馬は、早速走り始める。
 ぬかるんだ大地に、馬の足音が響き渡る。
 風が銀紫の髪の合間を縫って駆け抜けていく。
 森を抜け、木立ちを走り、小川を飛び越え、橋を渡り、やがて町並みが眼下に広がり始めたころ城壁が迫り来る。
 城は、近い。



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