果てない道を君とあるこう - 最終章[彼方への扉]
1 プロローグ

物凄い風と雨。豪雨。
 激しく叩き付ける音は、風に吹き飛ばされた雨だろうか。それとも猛り狂う風、そのものなのだろうか。
木々が激しくざわめき、森に住むものは皆巣穴に潜り身を寄せ合い、口を閉ざし不安を抱く嵐の晩。黒く重い雲は激しい風に押し流されても尽きることを知らず、音を立てて叩き付ける雨もまた、止むような気配はなかった。
闇が一層不気味さを掻き立てる夜の嵐。そのけたたましい森の悲鳴の中を、ただひとつ灯った窓の明かりを目当てに進む者があった。
この暴風雨の中で、馬を引いて何とか吹き飛ばされそうになりながら必死に歩いていた足が止まる。ずぶ濡れになった雨具の水の滴る隙間から、白い息が風に掻き消えた。
 明かりの灯った窓を見上げながら、馬を諌める。
家の中は静まり返っていた。
しかし建物自体、風と雨の叩き付ける力に微かに震えているようだ。
壁の僅かな隙間から入り込んだ風が部屋の空気を揺らす。木目の質素なテーブルの上に置かれた、半分より小さく溶け掛かった蝋燭の炎が、影をゆらりと不気味に踊らせた。
炎に照らされたのは女だった。しかも、とても美しい妖艶な美女。
炎を見つめる瞳は、極上のルビーのように赤く、照り返されやや朱に染まった白い陶器のような頬に被さる髪は、銀紫色をしていた。何とも不思議な美しい色。
 女は物憂げに炎を見つめている。瞳の中で炎が煌めく。
女と蝋燭の小さな炎、それだけでは外の雨風がまるで嘘のように思えた。
 激しく打ち付ける雨は風に煽られ、さらにその力を増すようだ。
 家は、家と呼ぶにはあまりに質素な山小屋ではあったが、女は確かにこの東屋のような場所に一人で暮らしていた。滅多なことでは人とも逢えない、寂しい山奥の小屋で、女はどんな花よりも妖しく咲き誇っている。
 女が炎の揺らめきを見つめているその時、扉がゴトゴトと音を立てた。最初は風か、次ぎには雨かと、気にもならぬような音を、女は敏感に、それは人が戸を叩く音だと判断した。黒い影が大きく揺らぎ、女はゆっくりと扉を開く。
戸を叩く者を焦らすかのように。
警戒している訳ではないらしい。こんな山奥に、しかもこんな嵐の晩、何をしにきたのかと疑問を持つ様子でもない。ただゆっくりと、物憂げに立ち上がる姿に浮かぶ物は、憂欝だった。
 扉の外には、ひとりの男が立っていた。男と呼ぶには幼すぎる、まだ少年の域を越えたばかりだろう青年の姿は、雨に煽られぐっしょりとくたびれている。
「こんな天気の中、貴方ひとりで来たのかしら?」
 女はびっくりするほど冷静な声で、どこか呆れたような表情を浮かべながら、ずぶ濡れの客人を招いた。
 男はそそくさと家の中へ入ると、なんの意味もなくなった雨避けの外套を脱ぎ捨てる。そこから現れたのは、黒い髪に強い光を宿した若々しいオニキスのような瞳。
 女は男から外套を受け取り、雨を避けるように戸の外で二度三度バタバタと雨の滴を落とし、戸口の側の壁に引っ掛けた。
「ほら、さっさと暖炉の側へお行き。いつまでもそんなところで立っていたって暖まりはしないのよ」
 毛布を投げてやると、男は素直に奥で赤々と燃える火の側へ寄った。毛布にくるまりながら、暖炉の前で丸くなり、凍えた指先を盛んに擦りながら暖を取る。
「本当に懲りないこと。私は帰らぬと申したはず。ここで暮らしていた方がずっと楽」
 暖かいスープを手渡しながら女は言った。
「食事は? まったく貴方ときたらいつまでも……」
 男はすまなそうにスープを受け取り、その器から伝わる暖かさに笑みが漏れた。
「ありがとうございます。食事は済ませましたが、これは頂きます。もう身体が冷えきってしまって……」
 情け無く笑って、スープを口に運び始めた。それを見つめる女のまなざしは優しく、浮かべる微かな微笑みさえ春の日だまりのごとく柔らかく幸せに満ちていた。
「沢山あるわ。遠慮しないで食べなさい」
 彼女の言葉に頷き、結局二杯のスープを綺麗に飲み干し、ようやく一段落したところで彼は本来ここへ来た目的を思い出したように改まり、正面を向いて真剣な目をした。
「姉上、もう良いでしょう? 帰って頂かないことには、父上も心配していらっしゃる。母上など、お身体に触り寝込みがちです」
 彼の言葉は案の定、彼女の思っていた通りの物だった。
「心配などいりません」
 きっぱりと言いきった。空になったスープの器を手に立ち上がり背を向けた。
「しかし、女の人がひとりで暮らすには危険が伴う場所ではありませんか? 獣や、時にはその……賊なども出るでしょうし」
 彼は慌てて姉の背に向かって少々身を乗り出し、大きな声で言った。
「獣や、賊ですって?」
 木目むき出しの壁に、大きな影が揺らぐ。炎が揺らぐたびに、影がゆらりと笑う。彼女は弟の前に立ち、暖炉の脇の飾り棚から一本の細身の剣を掴んだ。彼女同様、非常に美しい銀細工の鞘に治まったそれを、すらりと抜き放つ。
炎に照り返された銀色の刃は、冷たい輝きを宿していた。女が持つには不似合いな、細身とは言え重量のあるしっかりした剣だ。が、これ以上彼女に似合う剣も他にはない。
美しく研ぎ澄まされた銀色の刃を見つめながら、女は赤い瞳を男に向ける。
「良いこと? 私はライダの王女ファウルディース。ライダのファウルと言えば、聞いて怯まぬ者はないといわれるほどの剣の使い手だわ。この大陸に伝わる、暗黒の魔人と恐れられた皇子に仕えた、銀の幻影の再来とまで言われているのよ? その私に、暗黒の魔人とも呼ばれない貴方がそんな心配する必要はなくてよ。余計なことで心配している暇があったら、私を越えなさい。越えて、魔人となって私を影になさい。そんなことでいざと言うとき国を守り切れると思って? 雨が止んだらお帰り、良いわね? バーディアル?」
 そう言うと、彼女はさっさと奥の部屋へと引っ込んでしまった。布で仕切られただけの部屋の向こうへ消えた彼女の剣幕に、彼は溜め息をつく。
「姉上……」
こうなることは知っていた。否、もしかすると今日はまだ良いほうだとも考えられた。
 これが弟でなければ、剣を突き付けられていただろう。
嵐のような天候でなければ戸を開けてももらえなかったかもしれない。
条件が良かったというものだ。ともかく家の中に招かれただけでも、幸運だったと思うしかない。しかし、そんなことを悠長に考えている場合ではなかった。
 彼は無造作に束ねてあった髪を解き、火に翳しながら、城を出た時のことを思い出していた。
「大丈夫ですよ父上。きっと姉上は私が連れて戻りましょう。母上も、楽しみになさっていて下さい。ええ、大丈夫ですとも。姉上はきっと、戻っていらっしゃいます」
 大見栄を切って出てきてしまった手前、このまま帰るという訳にはいかない。
 彼は毛布にくるまり直すと、もう一度大きな溜め息をついた。彼は暖炉の赤い炎を見つめながら、ある決心を固めた。
 とにかく一度、ほんの一週間でも、三日でも良い。戻って頂かないことには、父も母もどうすることもできないだろう。弱小国の辛い所だ。いくら剣が強くとも、所詮は大国には適わない。権力も財政も、軍事力などは特にその差がはっきりと目に見えた事実なのだから。



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