僕等を繋ぐ物
〜あなたへ募る愛しさ抱きしめ〜
2 過去



   2 過去

 彼等人の住む大地、ヌリエーグロス界から光神アシフェルの住まう大地ティリロモスへ向かう唯一の方法とは、ミドウラナ大陸にある、見えない神殿へ行き、カリュッセと呼ばれる神にも人にも付かない者たちの住む地へ赴き、彼等が乗り物とする巨大な生き物ドラゴンを手にいれなければならない。
 そのためにまず二人はミドウラナの大陸へ向かうことになる。
 セムカパーズ大陸からミドウラナ大陸までの交通は今も昔も船しかない。
 彼等はメイジスラジアの首都、メイジスラザッカの北の港から船に乗った。
 見えない神殿の位置は誰に聴こうが分からないに違いない。
 とりあえずは最初の行き先として選んだのは、セウリラーザの言う廃墟の神殿。
 彼が育った地方に、古くから何人も寄り付かない神殿の廃墟があったと言う噂を頼りに 不安な第一歩を踏み出した。


「ネルナーサよ何か悩みでもあるのか? この兄にも言えぬことか?」
 金の髪をうねらせて光輝く神は、人の子として生まれた妹の柔らかな黒髪を指で梳きながら機嫌を伺うように語り掛けた。
「いいえ兄様。どうしてそのようなことをおっしゃるの?」
 静かな笑みは、見た目の齢より遥かに上を行っているような、大人びた物だった。
「このところそなたの瞳は私を見ていない。何か、もっと別な物へ心を奪われているような気がしたのでね」
 その兄の言葉にネルナーサはただ小さく笑っただけだった。
「ネルナーサ、歌を奏でてはくれまいか。久しくそなたの声を聴いていないような気がする」
 彼は妹の座る床に腰を下ろし、微笑む娘を緑の瞳に映しだす。
「──ごめんなさい兄様……。気分ではないの。それに、私はもう歌姫ではないのですもの。今はただ、こうして兄様のもとで静かに暮らすだけですわ。もとはといえば私の歌が原因だったのですものね」
 ふとネルナーサの瞳が遠くを見つめていることに彼は気付いた。
「メイジスラジア……。あの時、なにがあったか語ってはくれぬか? ルヴェリーゼだったあの日、そなたは幸せだったと語った。それはいつの日を言ったものだったのか……」
 真顔で聴く彼の様子に、少女からも笑みが消えた。だが、それはほんの一瞬のこと。すぐに微笑みは戻っていた。
「私はもうメイジスラジアではないのよ、アシフェル兄様……? それでもこの身に何があったかお知りになりたいと言うならお話いたします」
 彼女の瞳は真正面からアシフェルの瞳を見つめていた。
「それでもそなたは、今も私を兄と呼ぶ。ネルナーサよ、私はそなたの外見が幾度形を変えようと気には止めぬ。ただ私はそなた自身、その魂こそ真の姿であり私を魅了して止まぬ物。女神だった頃より変わらぬその魂こそが、我が愛する全て。たとえ今のそなたがメイジスラジアでなくとも私の愛する最愛の者であることは変わらぬ。私の気持ちはあの頃より少しも変わってなどおらぬのだから」
 ネルナーサの瞳が、メイジスラジアの意思で彼を見上げ、悲しげにゆるりと揺らぐ。
「何故、あの時の全てを見ようとはなさらないのです? 私の知るアシフェル兄様なら あの日以降、私の身に何が起き、どうなったかなど見ているはずですわ。過去を知る瞳をも、お持ちのはずではなかったの?」
 優雅に微笑んでいた瞳は見る見る曇り、その表情は今にも涙に濡れてしまいそうな程頼りない物に変わっていく。
「ネルナーサ……?」
 突然の態度の急変に焦りを見せながら、アシフェルは妹の肩を抱くように引き寄せた。その途端ネルナーサは弾かれたように泣き出し、兄の腕の中で泣きじゃくった。
「どうぞ、どうぞ見て下さいっ。私はずっと兄様が見てくれるのを待っていたのに……けして恥ずべき過去ではないのですもの。どうして見て下さらなかったのですか……。私の姿を知って下されば、きっと兄様は分かって下さると信じていたのに……あの日から、信じていたのに……」
 その涙で彼は妹の抱えてきた苦しみを初めて知った。彼が苦しんでいる時、妹もまた同様に苦しみ、今もなお苦しみ続けていたのだ。
 彼自身がその姿を見ることによって、語るより本当の姿を知ることによって自分の全てを知って欲しかったに違いない。さらに彼女がいなくなり不安に掻き立てられる彼の姿を知っていただけに、残してしまった兄がその姿を見てくれる、それでその不安が消え去ることを祈っていたに違いなかった。
 アシフェルはネルナーサの細く小さい震える肩を抱き締めた。
 抱き締めながら彼は、今、始めてその過去を見ていた。苦く辛い想いが、見ることを拒んでいた過去を、ようやく見ることが出来る。
 知る事が怖かった真実が、今、目の前に広がってゆく……。


 そこには大勢の人間が静かに腰を下ろしていた。皆、風に揺られるがごとく、小さな日だまりにその身を任せ、豊かな恵みに委ねられる子供のように流れる歌に耳を傾けていた。
 何の伴奏もなく、メイジスラジアの歌はそれだけで彼等を虜にする。
 そこにいる全ての者のためにと伸びやかに続く歌声に、澄んだ泉が流れるように、ハープの音色が重なった。
 二つの音が重なり、その場は更に静かな、冴々とした限りを知らない永遠の空間へと変わる。歌声はハープの奏でる音色と重なり混じりあい、無限へと変化し、メイジスラジアの気分をも最高な物にする。
 やがて曲は終わり、彼等は徐々に生気を取り戻したように宴が幕を開ける。それは闇と美の女神メイジスラジアに対する崇拝の意味を込めた、祭りの始まりであった。
 人間たちの歌や踊りで彩られ喝采は深夜にまで及んだ。やがて酒と肉に溺れ、踊りに狂う人間たちの中で、二人の男女が目と目を軽く交わしあった。
 ハープを奏でた青年はそっと人の輪を離れ、彼女を誘う。男の誘いに女はそれとなく乗り、ふたりは人の輪から外れた静かな大木の下で、お互いの存在に感謝した。
「メイジスラジア……」
 男はハープをもつ変わりにメイジスラジアの体を優しく包むように抱き寄せた。男の唇がメイジスラジアにそっと重なり、やがてふたりの間にふたりの子供が生まれた。
 女神であるメイジスラジアから生まれた子供たちは、どちらも美しく気高く気品に満ちた立派な青年へと育った。
 女神の血を分けた子供達は、人の子に比べ、異常な速さでもって成長する。そのために彼等は旅を続け、歌と音楽で生業を立て生活するようになった。女神は女神であることを忘れ、男は妻が女神であることなど、どうでもいいことだった。彼等は毎日を楽しく暮らし、多少の苦も気にすることなく何時でも隣に音楽を抱え生活していた。
 が、やがて男は旅の無理が祟ったのか、病に倒れ、彼の自慢だったハープさえも手に出来なくなってしまった。
 その時、彼は自分を気遣い看病する妻の姿に、やはり自分とは違う姿を見た。年老いていく自分の姿に、彼は急に不安になった。女神であるメイジスラジアは、彼と初めてあったあの日から少しも変わらないのだ。
 その姿に老いてはやがて死に行くことへの漠然とした不安が彼を襲った。
 もし、このまま自分が死ねば、彼女はこの後永遠の時を生きるのだろう。その時の中で彼女と暮らした数年の時は、彼女にとってどれ程の価値があるというのか。長すぎる命の中で、彼女は他の誰かを愛し、やがて私を忘れるのだろう……。
「メイジスラジア、もう私のことは忘れてほしい。本来君のいるべき場所へ、ティリロモスへ戻ってくれ。私はお前のその変わらぬ姿を見ていると、どうしても不安でたまらなくなる。何時までも美しく若いままの君が、今の私にはとても恐ろしい」
 男はそれだけを言うと、後は何も聞こうと、答えようとも口を開こうともしなかった。それどころか、彼女の作った物にも一切口を付けようとはせず、病は更に彼の体を蝕んだ。
「頼む。私の前から消えてくれ」
 男はそれ以外の言葉を口にすることがなくなり、ひとり床の中で静かに涙を流した。
 メイジスラジアはその言葉に従うように、彼のもとを去った。
 男は、これでいい、と自分に言い聞かせながらも強くメイジスラジアに謝り泣いた。
 子供たちは父の涙を静かに見守り、母に変わり、父の看病に明け暮れた。まるで、母の意思を継ぐように。
 メイジスラジアは彼の前から姿を隠しはしたが、兄のアシフェルのもとへは戻らなかった。彼女には彼の気持ちが痛いほど分かっていた。分かっていたからこそ彼のもとを去った。
 それなのに、やはり涙が止まらない。
 ある晩、夜の闇に守られるようにアシフェルの前に姿を現した彼女は、やはり泣いていた。
「大好きな兄様。私はもう帰れない……」
 その時、彼女にはそれしか言えなかった。彼女の中にはもうあの男しかなかったのだ。
 その身は、それだけを告げると、闇に紛れるように兄の前から消えて行った。
 メイジスラジアはこの時、ひとつの決心をしていた。帰る場所を失っても後悔しない程の思いを胸に、彼女は再び、その場所へと戻ることを決めた。
 今、自分が帰り着きたい場所がどこなのか、ようやく彼女は理解したと言っても良かった。そんな彼女の姿を見た男は、まるで夢でも見ているのかと思うほど嬉しく、そして切なかった。
「──何故、戻った? 子供たちが心配なら、連れていくがいい」
 男は喉が張り裂けそうなのを我慢し、やっと言葉を紡ぐ。
「もう、いいの。もう、やめましょう……。どうして私が貴方を忘れることが出来ましょう。どうして貴方との暮らしを捨てられましょう。どんなに長い命だとしても、貴方を忘れる私とお思いですか? この数年が私にとって価値のないものだったとお思いですか?
 それとも貴方は、もう私を愛してはくれないのでしょうか……。今よりも貴方を愛してはいけないのでしょうか」
 彼女は、女神ではなく一人の女として、一人の男の妻として、そして一人の人間を愛する恋人の思いを切々と問うた。
「メイジスラジア……」
 男は最愛の人の名を呼び、弱り果てた体をようやく起こそうと肘を立てた。その瞬間にも彼女は介添えの手を差し伸べ、彼を抱きしめる。
「貴方と居たいのよ、お願い……。もし、もしも貴方が私を信じられないと言うのなら、ば、私が貴方をこれから先に忘れると言うのなら、私はここで命を絶つわ。だって、私達はいつでも死を迎えることができるのですもの」
 泣きながらメイジスラジアは男の優しさに怒っていた。
 男は黙ってそれを聞き、そっと体を離すと、静かに涙を一筋流しながら細く酷く荒れた指で彼女の柔らかい頬に触れた。
「泣かないでおくれ。やはりお前には私の心が分かるのだな……。私の不安はお前に辛い思いをさせる為の物では無かったのだよ。ただ、これから先私が死した後にお前が私を忘れると思うことが、酷く悲しくて、寂しい思いに掻き立てるものだから、今のうちに私を忘れてくれればと……そう思っただけなのに。メイジスラジア、君は女神なんだよ。自ら死を願うことなどしないでおくれ。私なんかの男の為になど、絶対に許しはしないよ。私は……酷い我が儘な男だな……」
 天井を仰いだ男の目が笑った。
「貴方の弾くハープの音色が私を引き寄せたの。初めて貴方のハープに合わせて歌ったあの夜に、私は知ったのよ。私の大切な人と巡り合ったんだって。私は私が人と違うことを忘れたかったの……。兄様が言ったわ、人間とともに住むことは出来ても分かりあえない物だと……。でも貴方は、貴方とは違う。そう信じる私は、ただの女だわ……」
 痩せた体を抱きしめたまま、彼女はそこで泣き続けた。
 それから数ヵ月の後、フォバレスの大地に異常が起こり始めた。作物は枯れ、水は干上がり、人々は熱病に倒れ急激に温度が上昇を始めた。
 男の弱った体にその異常気象が災いし、彼は静かに息を引き取った。
 男が死んだ後も気温は上昇を緩めず、人々を苦しめ続けた。
 メイジスラジアにはそれが誰の仕業であるのか分かり切っていた。そしてこのままこの状況が続けば、この大地に住む者の命がないことも。たとえ自分が戻り兄を止めたとしても、被害はこれで治まるはずがない。
 神である彼等の他に、彼女の血を引く子供らは多少長く生き延びられようが、それでも命は尽きるに違いない。
 男の墓を凝視していた彼女は、二児の母親である顔から全ての生き物に対する慈しみ深い女神の顔に表情を変えていった。
 女神メイジスラジアはフォバレスの大地を飛び立ち、三日の内にヌグロスの世界を創造し、ふたつの大陸を築き上げた。休む間もなく彼女はフォバレスにとって返し、僅かばかりの残った人間達を新たな世界へと送り込んだ。
 最後に、彼女自らの子供達を、ひとりはミドウラナに、もうひとりはセムカパーズへと下ろし、人々の先に立ち彼等を守るようにと言い付け、その身と力を使い果たした。
 アシフェルがその事実を知り、その地を去った後も、フォバレスの大地には草も水もない広陵とした死の世界と化していた。無数の墓と、墓にも入れず、見とられることもなく死んだ屍が転がるだけとなりはてた。



「お前は、幸せだったのだな……?」
 緑の瞳が潤んだ黒い瞳を映した。
「幸せでした。あの人と暮らした日々も、兄様と暮らした日々も……。今でも兄様は私にとって大切なたったひとりの方ですわ。けれどあの人は、私のたったひとりの愛する人でしたの。ラリアディス様は気付いて下さらなかったけれど、それでもまた私を愛して下さいましたもの……」
 アシフェルの眉がぴくりと動いた。
「あの男がそなたの愛した男の魂を持っていた者なのか……? それ程までにあの男はそなたを愛したと言うのか? そしてまた私のもとからそなたを奪いに来るのだな……」
 アシフェルは人間の世界の全てを見ることが可能だ。そのために妹の魂の目覚めを知った。それゆえにラリアディスの魂の復活もとうに気付いていた。
 そして、どういう行動をとっているのかも……。
「全てお分かりなのでしょう? アシフェル兄様、どうか奪いに来るなどと言うおっしゃり方はお止めになって下さい。あの人は、奪いに来るのではありません。それにもう、彼はラリアディス様ではないのですら。私がメイジスラジアでもルヴェリーゼでもないのと同じように。再会と言う名のもとに、私達は初めての出会いをすることになるのです。もう一度私を愛してくれるとは限らないわ」
 ティリロモスの甘い風がネルナーサの長く流れる髪を優しく撫でて通り過ぎた。金色の髪が床に這うように黄金の河を形作り、彼等はそれ以上言葉を交わすこともなくただ黙ったままその場に座っていた。


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