あなたと出逢うため
恋歌緋色の宮殿を前に彼等は立ち止まり馬を繋いだ。片牙が隣に聳え彼等を圧迫する。 「デューリシオス……」 ラリアディスの低い、だがよく通る声が静かな時の中へ混じる。 こんな気持ちは初めてだった。戦の中にも感じたことのない恐怖とも不安ともいい難い、命を盾にする奇妙な興奮が彼を捕らえていた。 全身の血が何かを訴え走っていく。 デューリシオスは、そんな彼を見透かしたように優しげに笑って見せただけだった。 いつものよく見慣れた笑み。そのお陰か彼の中に渦巻き、ほぐれきれなかった糸がようやく解けたように感じる。迷いが断ち切られた。 デューリシオスとラリアディスはけして多くを語らない。語る必要などない。デューリシオスはラリアディスを、ラリアディスはデューリシオスを互いに良く知っていた。 剣の癖も瞳の言葉も、表情ひとつ指先ひとつが語る言葉も真実以上に彼等は理解出来る。 ここまできてデューリシオスの身を案じるラリアディスに、言葉ではなく笑顔を返すその行為はどんな言葉より彼の負担を軽くすると知っていた。 突如、彼等の新たなる決意を知ってか知らずか緋色の光神に使える神馬の嘶く姿を彫り込んだ巨大な扉が左右に開き始めた。音もなく振動もなく滑るように。 警戒するふたりの前に死んだ魚のような濁った瞳の無表情な娘がひとり立っていた。赤茶けた髪を結い上げ、緋色のローブを身に纏った娘は案内係りなのか彼等について来いという仕種を見せ先に立って歩き始める。 警戒心はそのままに彼等はその娘の後を追って歩いた。ひんやりした簡素な寂しい空間がどこまでも続く。人の住む気配は感じられない。 手入れの行き届いた無人の館といった感じだろうか。 彼等の靴音がさらに奥へと谺する。瞬間、彼等の前を何かが過ぎった。 美しい女。 ルヴェリーゼ!? 彼等に同じ少女の名が浮かぶ。隣を行く瞳を見ればそれは明らかだった。確かに人影は少女に似ていた。 女は美しく笑いさざめきながら彼等に見えない手を引いて彼等に見えない何かを見つめ、時に離れ、時に近付き、そこが森か林のように零れ日の降る木立ちの間を忙しく立ち回る。 幸せに満ちた美しい女性。黒い人影、確かに黒い瞳はルヴェリーゼの持つ色に似ていた。しかし脈動する輝きは彼等の少女とは異なった光。黒い髪も同じ艶を放っていたが長く長く風に舞っている。細く伸びた白い手足も、少女にはない活発な動きを見せる。 ルヴェリーゼはおっとりした優しい美に包まれ、ここに動く幻の女は生き生きと、明るい美しさを放っている。 対称的な美。彼等は知った、そこに遊ぶ夢の女性の正体を。 彼等は赤茶けた髪の娘を追いながらそれを見つめていた。 女神メイジスラジアの姿を──。 不意に娘は立ち止まり女神の姿は消え、彼等は現実に引き戻された。そこは扉の前。真っ直ぐ伸びた暗い廊下が彼等を挟み左右に続く。扉は手を触れぬうちに意思あるもののように開き始める。 入り口の、巨大な扉の時と同じように音も立てずに。 「ようこそラリアディス殿、デューリシオス殿。我が城は気に入って頂けましたかな」 正面に彼はひとりで寛いでいた。 片手にコルト酒の入った杯を持ち、薄笑いを浮かべ彼等に世辞を使う。 彼等はその顔に被っていたそれぞれの仮面をとり素顔をさらした。 「お招き頂き光栄にございます、アシフェル殿」 ラリアディスの皮肉っぽい声が響く。 「何の御持て成しも出来はしないがね。招かずとも来るだろうことなど承知していたのだがね、あえて招待させて頂いた。問わずにも承知だが、万が一、と言うこともあるやもしれぬ。我が城を尋ねようと決心された程の要件、伺いましょうぞ。私は君に、あまり興味がないのでね、否、君達とひとりを覗いた人間全てに、とでも言うべきか。まぁそれ程時間を割く気はないと、先に忠告しておいてさしあげましょう」 彼の若葉の瞳が冷たく輝いた。 「私としても長く御邪魔していたくはないのでね要件だけを述べさせて頂きましょう」 彼の瞳もまた鋭い光を打ち出した。 「有り難い」 せせら笑うようにアシフェルが言う。 「ルヴェリーゼ……、アシフェル殿の唯一興味を引かれる存在。彼女に逢いたい」 アシフェルは顔色ひとつ変えず表情を崩すことなく微笑み、彼女を呼んだ。 「愛しいルヴェリーゼ、そなたに客人(まろびと)ぞ。我の腕へ来るがいい」 するとまるで無垢な子供のように巣を求める雛のように、彼女は小走りに彼等の入ってきた扉から一目散にアシフェルの側へやってきた。 ラリアディスのすぐ横を通り抜けて。 アシフェルがにやりと笑った。その腕に飛び込んだ小鳥を抱いて。 「さあルヴェリーゼ、何時までも私にばかり寄り添わず客人にご挨拶なさい」 そっとその体を放しルヴェリーゼが振り返る。 ラリアディスを見上げ、優雅な微笑みを向けた。 それは初めての相手に対する儀礼の微笑み。 小さく屈み小首を傾げる仕種は可憐な花のように見えた。 「ルヴェリーゼ……? 私が、私が分からぬのかっ!? デューリシオスを忘れたのかっ!? 彼は驚き声を荒げた。 その声に少女はビクッと肩を震わせ堅く身を寄せた。叱られた子供のように。 「あぁルヴェリーゼ安心おし。彼は君を叱っているわけでないのだから」 後ろから優しくアシフェルの声が響き、腕が伸びる。彼女はその腕にしがみつき、影から彼等を伺った。 「ルヴェリーゼ、アシフェルに何をされた? なぜ私が分からぬ?」 彼の中に苛立ちが立ち昇る。彼女の瞳は怯えるばかりだった。 「ラリアディス、落ち着きなさい。それでは彼の思う壺です」 銀の髪が揺れ彼の耳にそっと囁いた。 その通りだと思った。 「ルヴェリーゼ、我が名はラリアディス。この者はデューリシオス。この名に聞き覚えはないか?」 彼は幾分落ち着いた様子で、少女の彼を見つめる怯えた瞳を見つめ返した。 思えばいつも彼女の瞳は怯えていた。彼は深い溜め息混じりの吐息を吐いた。 その時相変わらず怯えた瞳から、涙が一筋流れて消えた。彼女自身驚いた様子で無意識の涙で濡れた頬に触る。 「ルヴェリーゼ?」 その涙に動揺したのはアシフェルの方だった。彼女はただ分からないといったふうに首を振るだけだ。信じられないとばかりに。 「ルヴェリーゼ王女は全てを自分の中にしまってしまわれたようだ。感情も記憶も、言葉さえも」 デューリシオスは静かにラリアディスにだけ耳打ちした。 「まさかっ」 彼の瞳が大きく見開いた。 「では歌っていたのは誰だというのだ」 ラリアディスは外で聞いた歌声を思い出した。確かに二人ともその声を聞いた。だが現に少女は一言も口を聞かない。 「ルヴェリーゼ、歌ってくれないか? 日暮れの頃に口ずさむように聞かせてくれたあの歌を」 何を思ったか彼は突然優しく少女語りかけた。 思い出したのだ。逢う度に彼女が歌っていた歌を。あの歌は彼女なりのやり方で彼に語り掛けていたのではなかったのか。縋るような思いだった。 沈黙がその場を支配する。 がやがて彼女の声が静けさを虜に溶けるようにメロディーを奏で始めた。 甘く薫る闇の中に 立ち尽くす私を見つけて ルヴェリーゼの瞳から止め処なく涙が溢れ、その場に力無く崩れた。 「あぁ、お父様……」 彼女の口から零れた言葉にアシフェルの動揺がいっそう増した。 「ルヴェリーゼ、すまない。私は君の民をひとりとして救うことが出来なかった……」 歌は封印を破る鍵となった。アシフェルの魔法も効果を無くす程に強力な呪文。 最初は無意識に彼女は歌い出したのだろう。 永い月日にも繰り返される筈の想いを、彼女は歌い、己を重ねて詞を綴る。彼女ゆえにこの歌はその真っ直ぐな想いを受けて歌われていた。 彼女はこの歌に自分とその恋人を忍ばせ歌っていた。それゆえ鍵となり得た。 「ルヴェリーゼ……」 アシフェルの手が肩に触れた。 「ごめんなさい、貴方を二度も裏切るなんて……。でもこれだけは信じて。あの頃私は幸せだったのよ……」 彼女の言うあの頃が、アシフェルと暮らしていた頃のことなのか、人間の何者かと暮らしていた頃なのか分からなかった。 それを問う暇を与えずルヴェリーゼは言葉を続けた。 「愛していたわ、誰よりもよ……。でも私には守るものがあった。たとえ命を犠牲にしても……。人を憎むのは止めて、優しくて親切だった、人に愛され敬われる私のアシフェル兄様にどうか戻って……。私はもう戻れはしないのよ」 強く言い切り、彼女は立ち上がった。 「ルヴェリーゼ」 ラリアディスがその名を呼んだ時、彼は今まで一度も見たことのない強い光をその瞳に見ていた。 「ラリアディス様、デューリシオス様。私の力は私が女神だった頃の力。私の歌は女神の頃の名残……」 ふっと彼女の瞳が曇ったかに見えた。 「だめだっ ルヴェリーゼッ!!」 ラリアディスはルヴェリーゼの肩を力強く抱き締めた。 「私は暫く眠ります。今度目覚めた時、私を祝福して下さいますね? アシフェル兄様」 言い終わらぬ間に彼女の体を取り巻く黒い炎が沸き立ち始めた。徐々にそれは薔薇の花を象り全身を包み込む。 黒い薔薇の花の、炎の褥にくるまれ、彼女は微かに笑った。 ラリアディスは腕の中に彼女の最後が来ることを感じさらに強く抱き締めた。 アシフェルの美しい顔は大理石より白くなったまま動かない。 「ラリアディス様……、ごめんなさいね。貴方を恐れていたのではないの。貴方を巻き込みたくなかった。でも、結局巻き込んでしまったのね……。ごめんなさい……」 「──ルヴェリーゼ」 彼女の体から命が抜け掛かっていた。 黒薔薇の炎は勢いよく彼女を包む。 抱いている彼にはなんの影響も与えず確実に彼女の命だけを吸い付くし、艶やかに咲き誇る。 「ルヴェリーゼッ」 彼は叫んだ、その名を強く。 「──貴方を、愛しています……」 彼は声に成らぬ声でその名を呼んだ。 黒い薔薇は静かに散った。 跡に残ったものは魂の抜けた、屍と化した彼女だけだった。 彼女は逝ってしまった。 神と人との狭間に疲れ、守るべきものを守ろうと彼女は選択した。そうすることが愛する全てを守ることだと信じて。 「私は二度までもそなたを死なせてしまったのか? メイジスラジア……、我が妹」 アシフェルは独り言を呟き彼の椅子に倒れるように腰掛けた。 その顔は死人のようだった。 「ラリアディス……」 さすがにデューリシオスも言葉に困り喉を詰まらせた。 彼女の屍を抱いた彼の肩に手を乗せ、彼の落ち着くのを待つこと意外、なす術もない。 「なぜひとりで逝ってしまった……? 私を愛しているならばなぜ。とうとう私は私の真実を打ち明けられぬままに大切な者を失ってしまったんだな、ルヴェリーゼ……? お前を、愛している──」 ラリアディスの遅すぎた告白は、永く深い眠りの縁へ落ちて行く少女のに向けられた。彼の真実の言葉は、とうとう最後まで彼女の耳には届くことはない。 こんなに、側にいるのに……。 |