あなたと出逢うため
言えなかった言葉ラリアディスの体が強張り、緊張した。 彼の様子と、その目前に突如として現れた光景を目の当たりにした途端、足を止めた従兄弟の後を追うように部屋へ入ったデューリシオスの顔色が素早く変化する。 「──これ、は……?」 怪訝の表情を浮かべたデューリシオスが呟く。 目を見張る二人の前に、そこにいるはずのない美しい青年とその青年に抱かれ、柔らかなとろん、とした笑みを浮かべるルヴェリーゼの姿が大気に揺らぎ、陽炎のように朝の光にすけながら浮かび上がっている。 その姿は神話の中の、神々のように神々しく、誰もがその美しさに息を飲まずにはいられない神聖な宗教画のようで、神殿の静寂さえも適わない。止まった時が時間だけを眠らせたように動きだし、まるで悠久の園に遊ぶ光輝な精霊の、緩やかな朝の一時を物語る。あたかもティリロモスがそこに存在しているとでも言うように……。 「ルヴェ、リーゼ……?」 ラリアディスがその名を口にした時、彼女はアシフェルの腕の中で安らかな安堵の国へ誘われるまま何の警戒心もなく無防備な眠りに着いていた。 「我が名は光神アシフェル。そなたら人類の為に命を落とした闇と美の女神メイジスラジアの兄であり、人間の呼ぶ東の片牙に住む者。そして……ライダを滅ぼした者。皇子ラリアディスよ、お前は知っている筈だな。この私が何を手に入れたか……」 そこで一端言葉を区切ると彼は不敵に微笑み眠っている少女に軽く視線を落とした。 その頬をそっと指先で撫でながら、愛しい笑みを投げ掛ける。 「ラリアディス、本来ならそなたの命、我が妹メイジスラジアの残したそなたら一族、我が手で葬り去るが一番とも思うたが、今の我には無粋と言うもの。そなたさえおとなしくしていれば我も一切手は下さぬ。よいな、ルヴェリーゼは我が妃ぞ」 挑戦的な微笑みを残し陽炎は煙に巻かれるように姿を溶かし消え去った。 「ラリアディス……。お前は見た、と言っていたな。ルヴェリーゼ王女の最後の姿とライダの落城を。お前が見たのは自らを光神だなどと名乗る男……。今の男なのか?」 デューリシオスは何か汚らわしい物でも見たかのように顔をしかめ、ラリアディスに向き直った。が、それには答えず黙って頷き水庭を望むバルコニーへと出て行く。 その後をデューリシオスが追った。 朝の光に輝く水庭に小鳥達が戯れる。 不意にラリアディスが呟いた。 「──……ライダ最後の瞬間にいたのは……、確かにあの男だった」 ラリアディスは悔しそうに瞳を閉じた。 「私は何もできなかった。普段私を恐れ、近付くこともあまりなく、口さえまともに聞かなかった彼女が私に助けを求めたあの時、私はそこに居なかった。暗黒の魔人たるこの私が助けを求める少女ひとり守れなかった。彼女は私の名を呼び私にライダの姿を、彼女の視界に映る惨激を訴え手を差し延べたと言うのに私はその手を掴む術すら知らなかった。ライダに着いた時にはもう全てが終結した後だった。デューリシオス、お前も知っているあの悲惨な状態だ」 僅かな沈黙が間をとった。 「……これからどうする」 デューリシオスは分かりきった答えを聞くために彼を見た。 閉ざせれ俯いていた瞳に光が戻る。ゆっくりと体制を立て直し、彼は後ろを振り返り魔人となる。 「私は魔人だ。たとえ相手が神であろうと何であろうと、止められはせぬ。魔人はしょせん魔人なのだから……」 彼の瞳はデューリシオスを見ていなかった。しかしそんなことに気を止めることもなく、彼のその言葉に銀の幻影は満足気に微笑み頷いた。 「ならば影は付き従うのみ」 漆黒の髪と銀糸の髪が絡み合い拭き抜けていく風に流される。 暗黒の魔人が暗闇に馬を走らせる。 黒馬の背で黒い鎧に身を包み、闇色のマントが風を孕み、音を立てる。黒い仮面の下に覗く漆黒の瞳が緋色の塔を目指す。 その横を銀の鎧に銀のマント、そして輝く白い馬を操り銀の幻影が野を走る。 二頭の馬は息乱す様子もなく風を切り、真っ直ぐに突き進む。 目指すは呪われた聖地。アシフェルの大地。 そして、ルヴェリーゼ。 ケザの月がきらめく幻影の鎧に光をぶつけては跳ね返る。 暗闇に浮き上がる真黒き影。 「デューリシオス」 彼は風の中で隣を走る銀の鎧に呼び掛けた。 その声に緋い瞳はラリアディスを捕らえるためちらりと動き視線はまた前へと戻る。 「私は大切なことを言っていない。いつでも言えると思っていた。とても簡単な真実の言葉を。彼女がどう思おうが私は私の言葉を彼女に伝えるべきだったのだ」 ラリアディスはデューリシオスを見ずに告げた。 真っ直ぐ前だけを見つめルヴェリーゼを強く思っているのだろう。 独り言のようにも語りにも聞こえる彼の言葉をデューリシオスはただ黙って聞いていた。 彼等はいつの間にか聖地へと足を踏み込んでいた。 幾百、幾千の血で潤された大地に彼等は立っていた。しかしそこは、人の手の一切加わらない野生本来の美しさが保存された、生きる世界が広がるように見え、とても呪われた聖地だなどと想像出来ない程の輝きに満ち溢れている。 何故人が死に絶えるのか、何が人を拒むのか忘れてしまいそうな程素晴らしい風景。どう考えたとしても戦場としては使えない森だ。 ましてやかつての戦いの記録なぞどの大木にも記されていない。 どこからか鳥の甲高い鳴き声が響く。 木の葉やおい茂った草むらに気配を感じる。木々のざわめきが森全体の不法侵入者に対する威嚇の声を発しているように聞こえ、無意味に人を恐怖に追い込む。 だが、しかし平然と、臆することなく彼等は黙って歩き続けた。 まるで何かの意思にでも誘われているかのように、広大な大地を迷わず進むことができるのだ。確実に目指す場所へと近付いていることが肌に直接伝わりピリピリと緊張が走り抜ける。無意識のうちに感じていたのかもしれない。冷たく血に飢えた刃のように鋭い、だが血を見たくてウズウズした喜びの炎を宿した視線を。 アシフェルは彼等を彼の館へ招くために彼等の行動を見ていた。目を使わずともその姿は手にとるような物だった。彼には造作も無いこと。何故なら彼はいるだけで起こっている事柄全てを見ることができるのだから。 世界を見るように彼等を見ていた。彼の瞳は彼の求めるひとりの少女のみ映し出し他の物など映す気はまったくないようだ。彼の耳は世界の会話を聞くことができたが、今は澄んだ歌声のみが必要でその他の音は酷く耳障りなだけ。 彼女の歌が彼の宮殿に谺する。 その声は触れただけで砕け塵となってしまいそうな程薄く、七色に輝くガラス細工。野を駆ける青葉の香りをふんだんに吸い込んだ初夏の風。透明な清らかな水の湧き出す泉の底から浮き立つ泡。儚く、そして永遠の音色。 彼女の唄うその歌は、恋人を失い涙に暮れる姫君の歌。 溶ける 溶ける 凍る泉の中に 歌は静かに消えるように終りを迎える。 アシフェルに穏やかな満たされた笑みが広がり歌い終わったばかりの少女を抱き寄せその頬にそっとキスした。 彼は知っていた。この歌の真実を。彼は、真実のある歌以外は好まない。 ──黒い瞳の殺意。 それは誰も知らない、彼しか知らない本当の歌の名。彼は人間の愚かしさを知っていた。 だから同時にこの歌を好んだ。この歌に愚かさが潜んでいるなどと、彼以外の誰が知るというのだろう。この歌を作り歌った詩人もすでに絶え、詩人は詩人の優しさで詩に真実を隠してしまったことすら彼は知っている。詩人の愛した黒い瞳は詩人を見なかった。詩人の愛した小さな耳は、詩人の美しい歌声をも聞かなかった。 彼は全てを知っていた。詩人の、人知れず消えた愛の深ささえも。隠された真実に、愛する者を奪われた者の深い悲しみがやがて殺意へと形をかえるその時が来ることも。 愚かしさ故に共感を覚えひとり微笑む。悲しく寂しい鋭い旋律に合わせこの歌は恋人の死と娘の死と、娘が願う者の死、三つの死を漂わせる。ひとつは殺人、ひとつは自殺、そして誘惑によって与えられたる死への誘い。 もちろんルヴェリーゼの知らない事実であり知らなくても良い事実。 歌声は屋敷の中だけに止まらず森を彷徨う二人の耳にも届いた。しばし聞き入っていた彼等も歌の終わると同時に我に返り歩き出す。彼の瞳が見ていることを気付かずに。 「私だけの歌姫よ、その歌の物語を知っているか?」 彼は少女の額にキスの賞賛を与えからかうような口振りで悪戯な笑みを浮かべて聞いた。 少女は首を横に振る。歌の意味は知らない。 その真実は隠されたまま語り継がれず取り残された。 「黒い瞳を持つ娘の恋人は彼女の父に殺された。彼女はその瞳に男の死を焼き付け、その耳に男の悲鳴を残してしまった。それから娘は……」 言い掛けて、彼は笑った。少女の黒い瞳が不安に揺らいだのをほぐしてやるために。訪れた二人の客人を持て成すように。 |