あなたと出逢うため
黒い瞳は何を見た東の片牙にも朝は訪れる。その輝きを受け、浮かび上がる色は、太陽神アシフェルの色。鮮やかな緋色に塔を染め上げられた塔は、不吉な血に濡れた牙を彷彿とさせる。 塔の鍵が解き放たれる。 魔法の効力が試される瞬間の為に。 緋色のマントを翻し、男がひとり螺旋の階段をゆっくりと登り始めた。男の見事な金髪は、まるで太陽その物の様に、深く澄んだ緑の瞳は、森の奥深く、動物達の乾きを潤すために絶えず湧き続ける泉の様に、口元は艶やかな薔薇の如く。その美しすぎる人離れした容貌は、光の神にも負けないだろうほど凛々しく、艶やかに見えた。が、それもそのはず、彼こそ、光の神アシフェルであり、魔王子その人であった。 そして、彼の目指す最上階の扉はただ一つ。 ルヴェリーゼの繋がれた、あの部屋が存在するだけの小さな空間に彼は立った。 ゲザの光が手を貸した、彼の魔法が、この中で救いを求めているはずだった。彼の手がノブに掛かり、ゆっくりと質素な木製の扉は音も無く開き、真正面の壁に十字に繋がれた少女の姿を見せ付ける。 「ルヴェリーゼ。愛しい娘……」 一晩ですっかりやつれてしまった彼女の頬に、彼の柔らかな唇が触れた。 再び乾いた頬に涙が一筋流れた。彼はそれを指で受け、拭い去る。 「もう何も怖いことはない。私のもとに舞い降りておいで……」 囁きながら、彼は壁に塗り込まれた械を外し、少女を解放した。途端に少女の衰弱した体が、彼の腕の中へ倒れ込む。 軽い体を抱き上げ、彼は彼の魔法の成果を確信するとともに、今は見えない月の姿を仰ぎ見た。 すでに抵抗する気力も体力をも失った少女を抱き抱え、彼は微かな笑みを漏らした。何者かに向けた不敵な笑みを。 腕の中に舞い込んだ娘に、彼は満足そうな笑みを向ける。 少女を抱いたまま螺旋の階段を降り外へ出ると、そのすぐ脇に、緋色の、まるで巨大な神殿の様な建物が目に入る。 アシフェルの住む宮殿。 生きていないような、まるで感情というものを持ち合わせていない様子の次女達の手によって、ルヴェリーゼは光の中に咲く闇夜花の様にしっとりと美しく飾り立てられた。その姿は女神の石像よりも遥かに神々しく美しい。 その姿にアシフェルは満足気に頷き感嘆の吐息を漏らす。 「美しい娘……。やっとお前を手にいれた。随分と長い月日を私はお前なしで過ごしてしまった」 彼は彼女の細くしなやかな手にそっと接吻し、壊れ物を扱うように抱き寄せた。 狂う程に愛しい少女を手にいれた。待ち望んでいた瞬間を今体験している。長い気の遠くなる程の月日を彼は待っていた。この瞬間だけを。 しかし、彼女は、ルヴェリーゼは黙っていた。 言葉を忘れたかの様に、涙も枯れ果てた今、彼女は彼の人形で、父の首が天高く舞ったあの日を、夢物語の様に忘れたのか、忘れようとしているのかボゥッとしたままどこか遠くを見つめている。 焦点の定まらない瞳で正面のアシフェルを映し、その奥で何か別のものを見ていた。彼女の求める手は、彼ではない。 彼女の求める手が誰のものなのか、ルヴェリーゼ本人にも分からなかった。 しかし、アシフェルの手を拒む事が出来ない事も事実だ。 彼女のか弱く繊細な神経は、彼女から記憶を消し去ってしまった。 辛く過酷な父の突然の死、そして灰となったライダの町並み。苦しみに悶え死んで行った民の姿……。全てが彼女の記憶から抹消されていた。涙とともに流れてしまったのか、月が手を貸した魔法の為か……。 彼女は何も知らない人形。 彼の呼ぶルヴェリーゼと言う名が、自分の事であるかどうかも定かではなく、同時にどうでも良いことのようにも感じていた。 「私が誰かわかるか? 愛しいルヴェリーゼ」 彼は子供に聞くように優しく彼女に語り掛け、首を横に振る少女に対し嫌な顔ひとつ見せずに微笑んだまま言葉を繋ぐ。 「私の名はアシフェル。君を愛して止まない男だ。君は、私の妻になる。だから私にはどんな我がままを言ってもいい。私は全てを適えよう。星の輝きも、薔薇の吐息も、君が望めば望んだだけ、君の物にしてあげよう。私はお前が居れば何も要らない。太陽の光などどうでもいい。その光を望む人間など関係ない。お前が居れば、私はそれで満足だ。そして何時でも機嫌が良いだろう。罪も罰も、見逃せる程に。もう二度と行かせはしない──」 彼の瞳は時を遥かに遡り かつてのルヴェリーゼの姿を見出だしていた。 少女の澄んだ歌声は、フォバレスの大地に風とともに響き渡り、人も神も耳を傾け心を和ませていた。澄んだ声はアシフェルの双子の妹、メイジスラジアの物だった。 彼女の歌は、天上界に住む神々の耳にも届き時にはティリロモスで歌い、時には人と神の住む大地フォバレスの兄のもとで歌っていた。 もともとアシフェルもメイジスラジアも神々の大地ティリロモスに住んでいたのを、ごく少数のより人間を愛する他の神々とともにフォバレスの大地、人と神との共存する世界を造り上げそれ以来こうして彼等はティリロモスとフォバレスを行き来しながら暮らしていた。 「アシフェル兄様、今宵、皆が私の為に祭りを開いて下さいますのよ。行っても宜しいでしょう?」 闇その物のように美しい娘は光のような青年の首に腕を絡ませ小首を傾げ柔らかく微笑みかける。 「止めたところで、聞く耳などないくせに」 「フフッ、さすがは兄様ね。私のことよく分かっていらっしゃいますわ」 いかにも楽しそうな嬉しさに満ちた微笑みを見せた妹の手を取った彼の表情には、仕方のない……、と嘆く微苦笑が浮かぶ。 「だがね、覚えておいで。私も君も、所詮人とは違うのだということを。 誰よりも君を愛している私と言う存在を」 「私もアシフェル兄様だけを愛していてよ」 囁くように互いを見つめ、軽く口づけを交わす。 「行ってまいりますわ」 「では私は寂しく君の帰りを待つとするか」 彼の言葉も最後まで聞かず、彼女は長い長い黒髪を靡かせ、軽い足取りで走り去る。 それきり娘は帰らない。ただ空しく月日だけが無意味に過ぎ行く中で、彼はその言葉を聞き涙に濡れた妹を見送ってしまった。 「もう私は帰れない」と、彼女はフラリと現れ、涙に濡れて呟き、そして去ってしまった。 その言葉に、その涙に、愛する妹の案じていたその身に起きた異変を、悩み続け、彼の憤りはとうとう、そうとうとう人間にその矛先を定めてしまった。 人間が宴を開くと言ったあの日から娘の消息は途絶え、身をやつし焦がして待ち侘びたこの身の前に、その呟きを言わしめ、その頬を涙に濡らしたはすべて人間の仕業。この身から愛する者を奪い、挙げ句に涙させるとは。 彼の不安は、寂しさは、愛しさや憎しみのすべてが彼を覆い尽くす頃、とうとうフォバレスの大地は灼熱の熱地獄と化した。 もはや人間の住めぬ大地と化したフォバレスに、僅かに命を繋ぎ止める人間を、救ったのもまた神であった。 闇と美の女神メイジスラジア、彼女はいちはやく大地の異変を知り、その命のすべてを費やしてヌリエーグロスと言う新たな世界を創造し、二つの大陸と海を作り、それぞれの大地に生き残った人間を下ろし終え、その生涯を閉じた。そのひとつがセムカパーズ。そしてその大地に、彼女自信の血を分けた子供を下ろした。それが現在のメイジスラジア帝国の始まりであり、ひいてはヌリエーグロスの始まりであった。 過去と呼ぶにはあまりにも遠い彼方の記憶を眺めていたアシフェルは、再びあのようなことがあってはならぬと唇を噛み締める。 だがもう、その時は終わる。いつか蘇るだろう妹の魂を彼は見つけた。彼のためにある彼だけの純粋な女神の魂。掛け替えのないと痛いほどに知った宝。もう二度と手放したりなどしない。 かつてはメイジスラジアの名で呼んだルヴェリーゼの肩を抱き寄せ、彼はそっと微笑む。すめと、彼女もまた柔らかく微笑み返す。 「愛している……」 と、呟く彼の前に、ひとつの水晶の鏡が置かれる。その中に写る少女の、まどろみに漂う緩やかな微笑みを見つめ、彼は不敵に微笑み、その瞳に明らかな勝利の輝きを宿す。 |