あなたと出逢うため 
プロローグ


 冷たく輝き、射るような光りを放つケザの月。夜の闇を照らす凛とした静寂。
 月の光に影を落とすように聳える螺旋の塔。
 まるで大地から捩じれた牙が生えているようだと噂される程の、そのあまりの気味悪さから、東の片牙と呼ばれるその場所は、もう随分と永い時を、近付く者も無くただ静かに佇んでいるだけのようだった。
 だが、その東の片牙を含む広大な大地にただひとり暮らす男がいる。
 塔も、彼の住む屋敷も、その広大な森の広がる大地さえも、何人もの旅人や、何百という兵士の血によって彩られた場所であると人は噂する。
 呪われた魔の聖域。何時の頃からか東の広大な大地はそう呼ばれていた。
 そこに何時から塔があるのか、その男がどこから来たのか、知る者も知る術もない。


 塔の最上階に、黒く濡れた壁に包まれた部屋がある。月明りだけが一筋、真っ直ぐに突き刺さるようにその部屋を照らし、その少女の姿を見つめていた。
 少女の艶やかな黒髪は血と涙に汚れ、血の気を失った頬を、その柔らかな、もはや何も見ていない闇色の瞳を隠している。
 手首は壁に打ち付けられた械にしっかりと繋がれ、両腕を大きく広げたまま体の自由を奪われ壁に張り付けられていた。
 力無く項垂れた少女をケザの月が冷ややかに抱き包み、まるで静寂の息吹だけが聞こえる部屋は、しっとりと闇色の翼を広げているように見えた。
 少女の、泥と血と、涙に汚れた服に、翼を大きく広げ、幾重にも広がるひだのような尾を翻し力強く羽ばたく怪鳥サアの刺しゅうがある。
 突如何者かに攻め込まれ落城した、山間にひっそり栄えていた小さな国ライダ、ケセナ王家の紋章怪鳥サア。
 その刺しゅうは、彼女がライダの人間であり、ケセナの血を引く者であることを無言のうちに物語っている。
 少女の名を問えば、その名を知らぬ者はないほど、その名は広く聞こえ、人々に親しまれる存在だったとも言えた。その美しい容貌もさることながら、彼女はこのヌリエーグロス界切っての歌姫であり、その歌声は人々の心を潤わせ楽しませた。
 さらに獣や鳥と心を通わせ、時に遠視や映像を伴うテレパシーなどを引き起こす不思議な力に恵まれていたために神官でも珍しい、ごく希で貴重な神乙女の位を受けていた。
 その美しい歌姫も、国とともに散ったものと、誰もが沈痛な面持ちでその国の壊滅の声を聞いた。
 ただひとり、ラリアディスを除いて……。


 メイジスラジアの国は、セムカパーズ大陸のほぼ全土を治める強大な権力と富みに恵まれた豊かな帝国として、小さな内乱はあるものの基盤の生活は至って平和に、大きく栄えていた。その中心地である帝都メイジスラザッカの南に、巨大に聳える闇色の建物がある。
 その巨大な城こそ、メイジスラジア城の姿だ。
 そもそもメイジスラジアとは闇と美の女神の名であり、帝都の名は『綺羅なる闇』という意味があるという。
 一歩女神の姿を浮き彫りにした門を潜れば、そこは黒大理石の敷き床が永遠続いている。 両脇の森はまるで光りの届かない地底のように視界を妨げ、その奥にあるものを人目から隠すように生い茂った森を両壁に持つ黒い道を進むと、やはり総黒大理石造りのよく磨き上げられた黒い鏡のような城がその全貌を表す。
 どこかで水の流れる音が微かに響く。中庭の観賞用水路を流れる、きらめく水音。
 光を受け跳ね上がる小さな水しぶきは黒大理石の上に星をちりばめた、そんな幻想的な静かな場所。
 水庭を色とりどりの鳥達が舞い遊ぶ。
 黒い瞳にその光景が映り、時はゆっくり経過して行く。
 迫り出したバルコニーで彼の黒髪は風に遊ばれ、瞳は水の流れを映す。唇は堅く閉ざされたまま沈黙を守っている。
「──ラリアディス」
 後ろで彼を呼ぶ声にもまったく答える素振りすら見せない。
 部屋の中からの呼び声。三度目の声にも彼は答えない。
 声の主は椅子に深く腰掛け足を組み、コルト酒を片手に深い緋色の瞳で黙って彼の従兄弟でもある黒髪の青年を見つめていた。
 時折銀の髪をうるさそうに掻き上げ透けるほど白い肌に銀の衣が絹擦れの音を立て崩れるように滑り落ちる。
 沈黙が続く。
 不意にデューリシオスが立ち上がった。その気配に、ラリアディスがようやく振り返る。
 その姿を目にしたデューリシオスが微かに笑った。
「良いのだな?」
 彼は静かに問うた。するとラリアディスの首が僅かに動く。
「そう、か……」
 デューリシオスは彼の手にコルト酒の入ったグラスを渡し、もう一度座り直すと自分のグラスにも酒を注ぐ。
「デューリシオス……」
 彼の兄であり右腕であり、よき理解者の緋い瞳を見つめ、渡されたコルト酒で喉を潤す。 再び開かれた瞳は、何かを訴えようと輝きを曇らせた。
 コルト酒はコルティーノという白い実のなる樹木の葉を煮詰め発酵させた酸味と甘みの程よく混ざった一般的な飲み物でアルコール度は皆無に等しい。
「今更、何を言うつもりだ? ラリアディス」
 デューリシオスは空になったグラスをテーブルに置き、彼の闇の女神に愛され祝福されたる黒い瞳を覗き返した。
 彼は、従兄弟の答えを待たずに続けた。
「私は幻影ぞ? 一歩戦場へと踏み出せばお前は暗黒の魔人と呼ばれ、私は銀の幻影と呼ばれる。私は魔人の影。何時いかなる時もお前の側に付き従うが運命。主人の意思に従うが影の役。我が意思はお前の決めたことならばどこへでも付き従うがこと。それがたとえ、神に刃を向けることだとしても……」
 彼は言うだけ言うと部屋を出ようと立ち上がった。
「しかしお前は幻影。ただの影ではない」
 ラリアディスは彼の背に向かって呟いた。
「そう、私は幻影。幻の影。だからこそ、我らはひとつ……」
 振り向きもせず彼は部屋を後にした。
 残ったラリアディスの瞳に、一瞬暗黒の魔人と呼ばれるに相応しい燃え立つような静かな闇のきらめきが宿り、何かを迎え撃つような微かな笑みを浮かべた。


- 1page -

←PREV | INDEX | NEXT→