◇◇ 黒の三日月 銀の雫 ◇◇
     夢は泡沫  束の間の安らぎ
1 闇の訪れに

 やがて闇が訪れ、全てを覆い尽くすだろう。その日が来たら再び迎えに来よう。私は誓い約束する。誓いは守るために、約束は果たされるために存在する。
 あなたは何も恐れる事はない。何故なら、必ず私はあなたと共にある。闇の支配する中で、この約束は唯一の絶対だから。あなたは私に選ばれた幸運に喜び、その栄誉に酔いしれる資格がある。その証拠に、あなたの魂に刻印を施した。
 我が手により記された印が、その肉体に現れる時、カーニバルが始まる。我が支配する闇の、カーニバル。
 約束の時を知らせる鐘の如く高らかに、その胸は高鳴り、祝砲が歓喜と共に夜空を埋める。
 二度と訪れぬ光の世を偲ぶ鎮魂の歌が降り注ぎ、我らを祝福し、素晴らしい世界が始まるその時を、共に祝い、迎えよう。


 薄暗い路地に、野良犬が集まり始めていた。人通りの無い路地は街灯の明かりも少なく、どこかくすんでいる。野良犬達が道標のように辿って行く物は、アスファルトに残された黒いシミのようだ。
 黒い斑点のような物を辿ると、そこには男が一人、辺りの闇に輪郭を滲ませ歩いていた。
 シミは、男が無造作にぶら下げた荷物から、今もポタリ、ポタリと滴りながら重く広がり、その数を増やしている。時折、どす黒い固まりがアスファルトに弾けて潰れる。
どうやら男の放つ異臭が、野良犬を集めているようで、野良犬はその数を増しながら、ヒタヒタと付いて歩き、アスファルトに出来る汚れを舐め摂って行く。
 街の何処にこれ程の数の野良犬がいたのか、その数は数十頭にも膨れ上がっていたが、誰もその異様な光景を見たものは無かった。
 それ程の獣がいるにも関わらず、路地は静寂に包まれ、生き物の気配すら感じられなかった。
 それらの動きが一斉にピタリと止まった。不気味な集団が集まった場所は、街外れ。閉鎖された工場跡の閉ざされたゲートの前。
 金網が、男と野良犬達の行く手を遮っている。立入禁止のステッカーと、鎖が絡み付き、侵入を拒んでいた。
 ゆっくりと男が動く。しかし、その次の行動は明らかに素早く、彼の足は金網にめり込み、そのバリケードを容易くぶち破っていた。
 男は終始無表情のまま、一撃で頑丈そうに見えていたバリケードを突破し、歩き始めていた。
 金網や鎖が弾ける甲高い、悲鳴のような音が一瞬闇に響いたのも束の間、再びの静寂の中で、再びの行列が始まる。
 工場跡地とは名ばかりで、建物は現存していた。中の機材は粗方運び出され、がらんとしたフロアが、寂れた倉庫のような印象を与える。
 フロアの中心まで来て立ち止まった男を、野良犬が取り囲む。一定の距離を保ち群れる姿は、主人の次なる命令を待つ、忠実な姿その物。その期待に応えるかのように、男が手にしていたモノを放り投げた。
 犬が一斉に動き、一瞬の喧噪がフロア全体に響いた。
「あらあら、野蛮ねぇ」
 その騒ぎを、フロアを取り囲むように続くギャラリーから見ていた猫が笑った。
 気が付けば、男もギャラリーからその様子をじっと眺めている。男の直ぐ脇に、その猫がいた。手すりに上り、尻尾をゆらゆらと妖しげに動かしている。他にも、犬の数と匹敵する程の猫が、ギャラリーに集まっていた。
 犬の中の一匹が、猫の声に一瞬チラリと視線を向けた。しかし、視線はすぐに戻され、鋭い牙と頑丈な顎で、獲物を砕く。
 鈍い音を立てて、内容物をまき散らしたモノは、明らかに人間の首。飛び散った肉塊と脳味噌の一滴に至るまで、野良犬の舌が綺麗に舐め摂った。
 物の数分で、頭部は跡形もなくなり、僅かに髪の毛だけが残っていた。
「うふふ、相変わらずねぇ」
 猫はしなやかに微笑み、獣化を解いた。
 美しい伸びやかな四肢と、艶やかな銀の髪。滑らかな姿態を晒し、手すりに腰掛ける姿は、同様に獣化を解いた他の猫の中でも群を抜いて艶めかしい。長い尻尾と頭上にぴんと立った耳が、猫の面影を残している。
 他の猫も彼女同様、妖しく美しい笑みを浮かべ、思い思いのポーズを取り、階下の犬達を見下ろしていた。
 猫の見下ろす階下には、既に数十人の黒いマントを靡かせた男達が整然と並び、猫に囲まれる男に跪いている。
 その先頭いる男だけが、恭しく頭を垂れまっすぐに立っていた。並み居る黒ずくめの中でも、群を抜いた凛々しさを持つ成年は、ゆっくりと顔を上げ、静かな微笑みを浮かべ、再び恭しく腰を折った。
「無事のご帰還、心よりお喜び申し上げます」
 頭上に立つ男をまっすぐに見上げ、放つ声は澄んで美しく響く。
「王国の再建は、滞り無く。七日後の深夜、満月が最も頭上にさしかかったのを合図に、闇の侵攻が始まり、その日うちに世界のほぼ半分を、日の出の時間と共に、もう半分を覆い尽くしましょう」
 猫と違い、彼らには犬であった形跡が何処にも現れていなかった。犬であった男は静かに、しかし嬉々として闇の訪れる日を報告する。
「では、ランセム将軍、私に力を貸していただけるかしら。国王の印を持つ小娘には光の封印がかけられていて、私には手出しできないわ」
 媚びた仕草にもランセムと呼ばれた男は冷たい一瞥をくれただけだった。
「王のご命令とあらば」
 ランセムは国王をまっすぐに見つめ、出動の命を待つ。
 黒ずくめの、国王と呼ばれる男の腕が伸び、まっすぐにランセムを指し示し、素早く横に振りきられた。
「は、直ちに」
 それが命令の合図。ランセムは深く一礼し、マントを大きくはためかせると、一陣の旋風を残し消えた。
 その刹那、そこに居た総ての人影が忽然と消え失せた。
 ただ、一匹の猫だけが、手すりに残り、闇に向かって「ウナァーォゥー」と一声叫び、柔らかな身のこなしで一階のフロアに音もなく着地した。
 彼女の為に残された、一滴の脳味噌の欠片を一口に飲み込むと、赤い舌が鼻を舐め上げる。彼女はそれが誰の物か、即座に理解し姿を変える。
 耳も尻尾もない、平凡な少女が工場の跡地から街へ向かって歩き出した。

     2 夜毎夢見る銀の月

 今宵もまた、静かに闇夜を照らす輝きに、少女は再度ため息を吐く。同じ夢を見ていると分かっていても、この銀の光が心地よく、大きな胸に抱かれているような安らぎで満たされる。
 少女は、この銀の月の夢が大好きだった。
「姫よ、銀の輝きは体に毒。どうぞ中へお戻り下さい」
 落ち着いた声に振り向くと、一人の剣士が微笑んでいた。
「あなたは?」
この夢で、初めて出会った男に、彼女は恐れもなく微笑みかける。
「ランセム。姫をお守りするようにとの、王の命を受けた者でございます」
「姫って、わたしのこと?」
自分で見ている夢でありながら、彼女はまったく立場を理解していない事に気づいた。
「もちろんでございます。ここには、私の他に、あなたしか居られない」
 ランセムは優しい微笑みと共に手を差し出した。
「でも、この光は暖かいわ。とても心地よいの」
 少女は躊躇し、光の中に留まろうか、差し出された手をとるべきかを悩んだ。男はそんな少女の迷いを、けして責めることなく、落ち着いた優しい微笑みを浮かべたまま手を伸ばし待ち続ける。
「……分かったわ。今、そちらへ行くわね」
 少女は素直にランセムの手を取り、銀の光の届かぬ城の中へ入っていった。
「よくぞご無事で。姫よ、王も間もなく戻られましょう。姫に逢うことをとても楽しみにしていらっしゃいます。どうぞ身支度をなさり、王のご到着をお待ち下さい」
 ランセムは長い廊下を少女の手を引いたまま、奥へ奥へと進んだ。月の光の届かない奥へ奥へと、少女を導く。
「王様ってどんな方なのかしら」
 なんの疑問も持たずに、少女は尋ねた。
「姫を后としてお迎えらになられるお方です。それは凛々しく、また大変慈悲深い、懐の深い方でございます。姫の幸せは約束された物でございしましょう」
「私を后に? では、私の旦那様になる方なのね?」
「その通りでございます」
 ランセムの確信に満ちた答えに、少女はぼんやりと素敵な人なのだろうと思った。
 まさか自分がお后候補だなどとは考えてもいなかったが、まんざらでもない気がする。それどころか、ランセムの話を聞くうちに、早くどんな人なのか逢ってみたいと思うようになっていた。
「いつ逢えるのかしら」
「時期に。準備が整い次第、お迎えに参ります。それまでは私がお守り申し上げますのでご安心下さい」
 生真面目なランセムの言葉に、彼女はくすっと声を立てて笑った。
「ランセムさんなら、きっとどんな凄い事からでも守ってくれそうね。でも、この場所は大丈夫よ。何も危ない事なんてないんだから」
 少女の、明るく屈託のない笑顔に、ランセムも少し表情を和らげる。
「しかし、姫は大事な方。いつ何時、もしもの事があるといけません。ですが、どのような事態が起きようともご安心下さい。さぁ、中へ」
 月の輝きの届かない薄暗い部屋へ、ランセムは少女を招く。少女はなんの疑いも持たず、彼の促す部屋へと入っていった。
 不意に、少女の心臓が大きく一度だけ脈を打ち、彼女はフッと意識を失いランセムの腕に倒れ、沈んでいった。
 朝の目覚めの瞬間。
 夢から覚める合図に、少女は名残を惜しむ。
 
   3  それはいつもの午後
 
 それはいつもの午後の習慣。彼女たちは昼休みの後半を、温室で過ごす。季節を問わず美しい蘭が咲く。この温室は理事長の趣味で学園の裏庭に造られた庭園のようなもの。
「夕べ、素敵な夢を見たわ」
「いつもの銀に輝く月の夢?」
「そうよ。でも、いつもとはちょっと違うの」
 二人は指定席となったベンチに並び、いつものようにたわいもないお喋りを始める。
「なによ、素敵な王子様でも現れた?」
「ちょっと近いかな。なんだか、続きが楽しみ」
「続きなんて見られる物? 夢でしょう?」
「見られるって信じてるもん。あ、それよりさぁ、見てここ」
 と、少女は制服のボタンを二つ程外し、胸の谷間を見せた。
「なに、痣?」
「うーん、わかんない。今朝着替える時に気がついたの。なんか、だんだん濃くなってくみたいだし」
 赤みを帯びて浮かび上がったそれは、卵程の大きさがあり、何か不気味に燃える炎のような印象があった。
「考え過ぎじゃない? 何かにかぶれたとか、虫に刺されたとか、きっとそんなとこよ。ね、それより、今度の土曜日、満月なの知ってる?」
「そうなの?」
 彼女は制服を正しながら、視線だけをチラッと向けた。
「うん。満月の夜の恋占いって知ってる?」
「恋占い? 何よそれ、子供っぽくない?」
 と言いながらも、目は好奇心で一杯になっていた。
「子供っぽいとか言って、聞きたくてしょうがないって目、してるわよ? 素直じゃないなー」
「ばれちゃった? じゃあ早く教えてよ」
「いいわよ。そんなに聞きたいなら教えてあげちゃう。良い? 満月を映した水鏡を午前0時に覗き込むと、満月の向こうに未来の恋人が見えるって。ね、聞いたことあるでしょ?」
「えー? 知らなぁーい。」
「ねえ、試してみない?」
「今度の満月の日?」
「そう。ちょうど土曜日だし、うち両親その日帰ってこないんだ。泊まりにお出でよ」
「うん。行く」
「決まりっ」
 二人の会話がようやく一段落ついたのと同時に、午後の授業の開始十分前を告げる予鈴が鳴り響いた。
「今日ってレポートの提出日じゃなかったけ?」
「うそー。ヤバイって、それ」
「あ、やってないんだハヅキ」
「そう言うルイナはどうよ」
「私はやってあるよ。昨日寝る前にちゃーんとやったもん。だから素敵な夢も見られるってもんよ」
「げっ、それって抜け駆け、って言わない?」
「言わないよーだっ」
 二人はじゃれあいながら元気に蘭の温室を飛び出し、教室に戻って行く。その姿を一匹の犬と、数匹の猫が静かに見つめていた。

   4 明けない夜の始まり

 明けない夜の始まりは、次の満月の夜。そこで少女は、永遠の伴侶と出会う。そのために、少女は夢を見る。
 夜毎に期待が膨らみ、夜毎に愛しさが募る。
 胸に浮かぶ痣もまた、その色を黒く、形を変えてゆく。
「ねぇ、見て」
 再び、少女は蘭の咲き誇る温室で、その胸元を開いて見せた。
「あぁ、あの痣?」
 隣から覗くように確認すると、ハヅキは、笑った。
「なんだ、この前より小さくなってるし、赤みもなくなってる。痣って、段々黒くなって消えるんでしょ? 良かったじゃない」
 友人の明るい意見を聞いて、ルイナはホッと胸をなでおろす。
「良かった。そうなの? なんか、段々黒くなって、形も何だか変でしょ? ちょっと心配になっちゃって」
「やだ、そんなことで心配してたの? そーねぇ、三日月みたいでかっこいいじゃない」
 ハヅキは、指にブラウスを少し引っ掛け、ルイナの胸元をもう一度見つめ言った。
「どうせなら、バラとかのほうがもっと凄味があって良かったかもね?」
 などと冗談を言いながら、ハヅキはルイナのブラウスを放し、にっこりと笑って見せた。
「もー、ヤダよー。そんな凄味いらないって」
 ルイナもその冗談に笑って答え、ブラウスのボタンを留めた。
「いよいよ明日だね。水鏡。私の恋人ってどんなかなぁ。ねぇ、ルイナは、誰が見えると思う?」
「えー? わかんないよ。ハヅキは、どうなのよ」
「あたし? あたしは……先輩かな。あっ、でも、三組の尾高君でも良いな。あーでも、五組の氷野君、いや、お隣のお兄さんってのも……あーでも後輩のミノル君ってのも捨て難いしぃ。どーしよー迷っちゃうー」
 指折り数えて唸っているハヅキを、ルイナは苦笑を浮かべ見守ることにした。しかし、その様子を見ながらも、彼女の心は決まっていた。昨夜見た夢に、初めて現れた、若く凛々しいその姿。ランセムよりも、なお逞しく雄大な胸に抱かれた温もりが、目覚めてからも離れなかった。
 夢の中で愛していると言ってくれた王様。私を抱き寄せて、包んでくれた腕。
 あの人に、逢いたい。
 ルイナは、切ないため息を漏らす。
「あら、お嬢さん、そのため息は、恋ですね?」
 ぬっ、と現れたハヅキのにんまりした顔に、ルイナは思わず仰け反った。
「ハヅキっ、脅かさないでよっ!」
「驚いたのは、あんたの勝手。あたしはさっきから呼んでましたよーだ」
 正面にすっくと立ったハヅキは、腰に手をあて仁王立ちにルイナを見下ろし、徐々に上半身を折りながら、ルイナの顔面に迫ってきた。
「で、相手はだぁーれ?」
「なっ、何? 何の話し?」
 迫り来るハヅキの顔から逃げるように、背中をベンチの背もたれに押し付け、ずるずるとベンチから落ちてゆく。
「誰のことを考えていたのかなー? 惚けても無駄」
「だっ、だから、この前も話したでしょ、夢、夢のことを考えてたのっ!」
 半分以上落っこちかけながら、ルイナは必死に本当のことを言った。
「なーんだ」
 その答えを聞くと、ハヅキは途端に興味を失ったのか、肩を落として隣に座りなおした。
「な、なんなのよ、一体」
 ルイナもベンチに座りなおし、大きく深呼吸をする。
 遠くでベルの音が響く。始業の五分前を継げる音だ。
「昼休みってあっという間よね」
 ハヅキは敏感にその音を聞きつけ、立ち上がると、そう言いながらルイナに手を差し出す。ルイナも、その手をつかみ、一気に立ち上がった。
 二人はそのまま手をつないで温室から走るように去っていく。
 一匹の猫がその後を追うように、音も無く走る。
 立ち去る瞬間、ハヅキの視線が離れた場所で二人を見ていた犬へと向けられ、にやりと笑ったかに見えた。

   5 永遠の終わりと共に

 永遠の終わりと共に訪れる、新しい始まり。何かが終われば、常に新しい何かが始まる。世界の理は真理へと繋がっている。
 これもまた一つの環の一端に過ぎない、と彼は笑う。
 この世界を再び支配したとしても、それは束の間の夢。ならば、その束の間の夢を、夢らしく、楽しく暮らせば良い。
 彼は繰り返す波のような攻防を楽しんでいる。
 いや、きっと銀の月、彼もまたこの戦いを楽しんでいるのだろう。
 勝者に与えられる束の間の夢を見たくて、彼らは駒を動かすように兵を進め、先に眠れる姫にその印を刻む。
 刻印は、次の夢の支配者を告げ、姫は勝者に与えられる賞品。
 選ばれた娘は、勝者と共に夢に生きる権利を授かり、そして、永遠の城に囚われる。もう一度、烙印を胸に受けるまで。
「たまには刺激が欲しい、そう言ったのはお前だ、銀の月」
 勝者は勝ち誇り、見事に落とした獲物を高々と抱えあげる。
 勝者の腕に抱かれ、安らかな寝息を立てる少女は、永遠の城から解放されたかつての勝者の寵妃。
 銀の月が愛して止まない、永遠の恋人。
 水鏡に浮かぶのは、勝者である者の姿。敗者となったものは、勝者の夢を見せ付けられ、独り孤独の塔に幽閉される。
 再び塔の鍵が開くまで、束の間の夢は続く。
 まるで永遠のように長い月日が過ぎるのを、敗者は孤独に暮さねばならない。


「さぁ、いよいよ十二時よ?」
「一緒に見るのね?」
「そうよ、良い? 目を閉じて。十、九、八……」
 二人はそれぞれ満月の映りこんだ洗面器を前に跪いていた。
 何かそわそわした、落ち着かない気分で、ハヅキのカウントダウンを聞く。
「五、四、三……」
 ルイナの脳裏に、銀の月が映る。
「二、一……」
 抱きとめられる優しい温もりが全身を走る。
「ゼロっ! さぁ、目を開けて」
 ハヅキの言葉に弾かれたようにルイナは目を開く。
 しかし、ルイナは水鏡を覗けなかった。
「駄目っ! 出来ないっ!」
 洗面器をひっくり返し、全ての水を撒き散らしたルイナは、まるで糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「あらあら、流石に寵愛を受けているってだけじゃなかったみたいね。どうするのランセム? この子、銀の月を思い出しちゃったわよ」
 ハヅキはこの場に倒れる少女を軽く一瞥しただけで、助け起こす事もせず、闇に向かって呼び掛けた。
「目覚めた頃には全てが始まっている。どうすることもない」
 闇から徐に現れた男は、余裕で少女を抱き起こす。
「目が覚めれば、夢の続きだ。婚礼の支度はすでに整った。あとは、このお姫さまの支度だけだ」
「まったく、自ら進んで支度をして貰おうと思ってたのに、これじゃあたし達が頑張らないといけないってわけね」
 ハヅキは、いやハヅキの皮を被った猫がその本性を現し、しなやかに伸びをする。
「これがすめば、また暫くは我らの世だ。存分に羽根を伸ばせば良い」
「それもそうね。とりあえず、今のうちにお礼だけは言ってくわね。この子を月の光から遠ざけてくれて、ありがとね、ランセム将軍」
「珍しいこともあるものだ。お前が礼を言うなど」
「だって、気分がいいんだもの。あなただって、いつに無く饒舌じゃない。人のこと言えないんじゃないかしら?」
「ふふっ。そうだな。では、後の仕度を頼んだぞ」
「任せて。王が喜んで、しかもあの銀の月が悔しがるほど綺麗に仕立ててあげるわよ」
「頼もしいことだ」
 少女を支度部屋まで運び込んだあと、ランセムは再び闇に消えていった。

   6 花嫁の純白のドレスと黒い三日月

 花嫁の純白のドレスと、胸元にくっきりと浮かんだ黒い三日月。勝者の烙印が少女の胸を飾っていた。
 深紅の絨毯を踏みしめ、祭壇へと向かう足取りは重い。
 夢を見ている。昨日まであれほど愛しいと思っていたはずの王との結婚式が行われる。
「本当に、良いのかしら」
 彼女を王の元までエスコートする為、長い絨毯を一緒に歩くランセムに少女は不安を隠さずに聞いた。
「花嫁には不安がつき物です。しかし、御覧なさい。あなたを守り、あなたと生きることを誓った王のあの立派なお姿を。あなたには幸せになる権利も資格もあるのですよ。安心して、進むのです」
 一歩、また一歩と、歩みを進めるたびに、少女は泣きたい気持ちになる。
「ねぇ、ランセム。私、あの銀の月が見たいわ」
「いけません。あの光は体に障ります。それよりももっと素晴らしい安らぎが待っているのですよ。もう、忘れておしまいない。」
 ランセムの言葉は自信に満ちて、聞いていると安心する気もしたけれど、やはり今は銀の月が恋しい。
 ランセムの腕を振り解いて、駆け出してしまいたい。しかし、それは一時の気の迷いで、逃げ出してしまいたいほど不安になるのは、幸せを目前にして不安になるだけだから、とランセムに何度も諭され、そんな気もしていた。
 そして、とうとう、ランセムの腕が放され、介添えの手に依って、逞しい腕に絡めとられると、何故かよりいっそう銀の月に逢いたくて心が苦しくなる。
 誓いの言葉を述べる王の声が、まるで遠くから聞こえる気がした。
 花嫁は、その胸の印が「契約」の証。すでに誓いは立てられたと、祭壇に立った神父が裁きを下す裁判官のように告げている。
「誓いのキスを」
 神父の言葉を合図に、ベールが捲られ、少女は王の后となった。
 閉じられた目に、涙が浮かび、口付けとともに、少女は悲しい気持ちでいっぱいになる。涙が頬を伝い、一滴が絨毯へと零れ落ちる。
 銀の雫は、塔の中でその一部始終を見つめていた男の元へ降り注ぐ。小さなちいさな真珠の輝きで、彼の足元へパラパラと広がった。

   7 泡沫の夢

 泡沫の夢を楽しむために、王が選んだ娘は、気の遠くなるほど昔、いつからかさえ、もう定かではないこの戦いに、必ず銀の月が選ぶ娘。
 娘はただ独り、永遠の城に住んでいた。必ず迎えに来る銀の月を待ちながら、その日を楽しみに暮らしていた。
 孤独の塔の鍵が開き、戦いが始まると、彼女はいつも、独りで城に囚われる。再び印を刻み込まれるまで、少女はただ待ち続け、迎えが来ることを信じている。
 
  
「ねぇ、ランセム? うちの王様、ひねくれ者よね? あんたも、相当かわいそうだけど」
 猫の姿に戻った女は、塀の上から尻尾を垂らし、静かに少女を見つめているランセムに話し掛けた。
「その根拠は?」
 短く問い返すランセムの表情は、穏やかなものだった。
「だって、王が一番愛しているのは銀の月。気づいているのかいないのか、私だってこんなにしつこくなれないわ。そんな王を愛しているのが、あんた。報われないことが分かってて、なんでそんなに忠実なんだろーね」
 猫が首を竦めて見せた。
「猫には理解できないだろうが、私はこれで報われている」
「犬の気持ちなんか、理解できるわけ無いじゃない」
 そう言うと、猫は塀から音も無く飛び降りると、素早く茂みに隠れて見えなくなってしまった。
「ランセム? 誰かいるの?」
少女がランセムの方へ歩き始めると、それよりも早く、少女の傍へより、ランセムは首を振り微笑んで答える。
「いいえ、誰もおりませんよ。さぁ、そろそろお部屋に戻りましょう。あなたがいないのでは、王は誰と踊れば良いのですか?」
 城の中から、楽しい音楽と賑やかな嬌声が響く。
「ええ、そう、ね」
 少女はランセムの腕をとり、再び中庭の空を見上げる。そこには黒い月がぽっかりと穴の空いたように浮かんでいるだけで、銀の月が昇ることはなかった。
 少女は、空を見上げるたびに切なくて涙を零す。
 零れた涙は、真珠の輝きを放ち、塔に降り注ぐ。
 次の戦いが始まるまで、真珠の雨は降り続く。





     
      報われる恋など
   
          あるのだろうか







      夜毎の夢に胸締め付けられて、

               それでも再びあなたに逢いたい。


  番外編 銀の月






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