◇◇ 庭の月 ◇◇
あれは良く晴れた日の夕暮れ時のことでございました。
夕焼けの鮮やかな朱色から、何とはなしに物悲しい藍色へと世界が変わろうかと言う、まさに人ならざるモノの気配が蠢き出す、そんな黄昏時の事でございます。
わたくしは独りで庭に佇み、その月を眺めておりました。
実を申しますと、薄白くぼんやりと青空に滲んだような残月をも眺めていたのでございます。
それというのも、わたくしには出来得る仕事もなく、ただ日がな一日こうして何事もない庭を眺めているのが唯一の生きる証。つまりは世間様ではいっこうにお役に立てない、欠陥のある娘なのだそうでございます。

物心つきましてから今日まで、わたくしはこの小さな庭のみを世界の全てと信じ、縁側に敷かれた座布団に腰を下ろし、軒下に足をぶらつかせ、時には少しばかりの花を千切り、風に聞こえる微かな音に耳を澄ましておりました。
ところがその日に限って、どうしたことか月より目を離すことができず、とうとう夕闇においては眩しい程輝く月の光を長く、ながく浴びておりました。
冷たく冴えた輝きとは裏腹に、その光は柔らかく暖かな温もりでわたくしの躰を満たして行くのでございます。
それはとても心地よく、抱かれたことも記憶にない母という物を感じてさえおりました。母の胸に優しく抱き留められたような、心安らかで、この上なく満たされた、そんな心持ちでいたのでございます。
恍惚と天を仰ぐわたくしを見つけましたのは、わたくしに触れる唯一の人間、住男でございました。
住男は産まれた時から肩から背に、大きな瘤のような物を背負い、そのせいか首が酷く前に突き出した大きな男でございます。
わたくしの食事の世話したり、部屋の埃を払ったりしてくれる婆は、住男にもわたくしにも触れることはいたしません。
住男は耳が聞こえず、声も出ませんから、わたくしの問いに答えてくれるのは、この婆一人だけなのでございますが、婆はわたくしを見ようともせず、仕事を手早く済ませては、廊下の向こうへ行ってしまうのでございます。
廊下の先には扉があり、頑丈な錠前が行く手を阻んでいるのでございます。
わたくしや住男ではとても開けることなど出来やしません。
住男は月に躰を預けるわたくしを、縁側で倒れている物と思い、直ぐに床へと運び、そおっと優しく寝かしつけてくれたのでございます。
床の中にあっても、月の輝く姿は変わらず視界に留まりますので別段不満もなく、ただただ月を愛でておりました。
これ程美しく、魅力的な物を何故わたくしは今まで知らずに過ごしてこれたのでございましょうか。
どうすれば見落とすことが出来たのでしょう。不思議でなりませんでした。
これが、わたくしと月の、最初の出会いだったと申せましょう。
以来、わたくしは筆談で住男に庭の趣向を変えるよう申し付け、ようやくこの美しい庭を手に入れたのでございます。
それからという物、わたくしの生活は一変いたしました。
昼に眠り、夜に目を覚まし、天の月を眺め、住男に造らせた池を覗くわたくしの隣には、それはそれは美しい、一人の殿方が寄り添っているのでございます。
わたくしの庭には、もはや婆も近付きません。
私たちは共にこの庭で寄り添うことが適うのでございます。
ああ、この幸せがあなた様にご理解頂けますかどうか……。

終わり

*** ひかるあしあと ***
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