◇◇ 魚のパイとお月さま ◇◇
桂一郎は、深夜の町をのんびりと自宅に向かって歩いていた。
自転車を押し、坂を登りながらすっかり日の暮れた景色を楽しむように辺りを見回す。
いつもの通い慣れた町並みも、何故だか今日に限って全く違った雰囲気で、新鮮な気持ちがしていた。
坂の途中で、街頭の灯りが弱々しい事に気付く。
振り返ると、等間隔で設置されている街頭が、どれもこれもくすんでいて、とても明るいとは言えない。灯りが、見えないシェードで隠されているようだ。
そうか、と彼は勝手に納得した。今日の町並みは、いつもより暗くて静まり返っている。それだけで景色が違って見えているらしい。
この高揚感にも似た胸の高鳴りは、本能からくる闇への恐怖。絶叫マシーンに乗る気持ちと同じだろうか。恐怖感が高揚感へとすり替わる微妙なライン。
いつもと違った中で、落ち着きを無くした子供みたいだと思った。
坂の頂上は、少しの広場があって、海を臨む町並みが一望できる。小さな展望台にはベンチなども置かれている。
そこでいったん自転車を止めて、やはり明るくない街頭を見回した。
なんだろう、街頭の電球って、こんなに一斉に切れ掛かるもんかな。
ありえないと分かっていても、勝手な理由をつけなければ落ち着かない。そんな事を考える自分が妙におかしかった。
町の明かりはどうなのだろう、展望台へ登った。
「あ……」
桂一郎は、一つの灯りも確認できない町並みよりも、海の上にキラキラ光る何かを見つけ、小さな声を上げた。
「なんだろう……」
堤防の辺りか? 空も海も町も、深い深い深海の色に沈み、はっきりとは確定できないが、時々釣りに行く辺りだろうと思った。見当を付けると、何の迷いもなく自転車に跨った。
今登ってきた坂とは逆の、彼の家へと続く坂を、勢い良く滑るように下っていく。途中桂一郎の家が、目の端に通り過ぎた。
ほんの一漕ぎか二漕ぎで、自転車はますますスピードを増し、耳に風の音が鋭く響く。 坂を選び、器用に細い路地を縫うように走り抜ける。土地勘のない人間には迷路のような細かい路地も、子供のころから慣れ親しんだ彼には庭同然。スピードに乗り、潮風を受け最後の路地を抜けた。途端に視界がひらけ、小さな漁船が幾つか停泊する小さな湾に出た。
さらに光る何かを目指し、釣り場辺りへと自転車を走らせる。
潮風が、肌にべたつく気がしたけれど、彼はこの感触が大好きだった。
目指す場所が近付くにつれ、スピードを落とし、釣り場が見えるようになると、自転車を降り、歩くことにした。
堤防の陰に自転車を止め、十段にも満たない階段を登ると、海が眼下に広がっている。 しかし、そこで見た光景は、未だかつて見たことも聞いたこともない物で、にわかに信じられず、その動きを止めた。
見たこともない数の魚が、公園の鯉さながらの勢いで、キラキラ光る粉を食べている。粉は、海面近くに現れ水面に落ちて光を放つ。
空中から忽然と現れる奇怪な現象……。数日前に見た怪奇現象を専門に扱うテレビ番組のタイトルが、何気なく頭を過ぎった。
その時だった。
誰かに呼ばれた気がして、弾かれたように振り向いた。
しかし、そこには当然、誰もいない。ただ、漆黒の闇だけが永遠に続いている。
急に恐怖が募った。
闇の濃さに、忘れていた恐怖が甦る。
「珍しい、珍しい……。珍しい珍しい……」
闇の中で、はっきりと大勢の人の声を聞いた。
どこにそんな沢山の人がいるのだろうかと思うほど、声はざわざわがやがやと騒がしい。聞き取れる言葉は「珍しい」のただ一つ。
桂一郎は、自然と息を殺し、上体を屈めて辺りをうかがった。
「何処見てるんです?」
ペチペチッと平べったい物体が、足首にぶつかり、慌てて飛び退いた。
「なんだ、案外臆病な人ですね。こんな日にこんなところまで来るわりに、肝っ玉の小さいこと」
よく見れば、体長一メートルはあろうかと言う、黒っぽい魚が腹這いになっていた。
中華マン程の大きさのぎょろりとした目玉が、にったりと笑っているのが分かる。
足にぶつかった物が、彼の胸びれだと分かると、一瞬気が遠くなった。
「兄さん、そのまま倒れると、海に落ちるよ。危ないなぁ……」
魚の忠告に、気を取り直し、高さが膝まである魚をじっと見つめる。
「みんな、兄さんに興味津々だよ。人間なんて珍しいってね」
彼の鰭が海面を指した。
「わぁっっっ!!!!」
さっきまで夢中で粉を貪っていた魚が、総て、一匹残らずじっとこちらを見ていた。
何千匹もの魚が、綺麗に折り重なり、頭が水面に出ている姿は、なにやら物騒なミサイル弾頭を彷彿させた。
「大丈夫、彼らは食われる方で、兄さんを食ったりしやしませんて。そうだ、兄さん、あんた魚のパイは好きかね?」
「パ……パイ? 好きです、けど」
「それは良い。なら、ママさんのパイをご馳走になりにご一緒しましょうか。ちょうどこれから出かけるところでしたし。ところで、今日は誰がパイになるのかね?」
 魚は無理に体を捩り、左右の魚に声をかけた。
 すると、方々で返事を返す魚がある。
「ピエールにジャクリーン、キエタ、それに……あぁ、チサヤだな。だれかこの兄さんの為にパイにやりたい奴はいないか?」
 どれも同じ顔に見える魚の名を呼び、さらに声をかけると、今度は一斉にばしゃばしゃと水面を尾ひれで叩き始めた。
 その音量と飛沫のすさまじさに驚いていると、目の前の魚がペチペチと胸びれを叩き合わせ、大して迫力があるとも思えない音を響かせた。
 途端に辺りに静寂が戻る。
「気持ちは分かった。あとはパパさんに決めてもらう。では、兄さん、行こうか」
 と、彼はのっそりと動き出し、水面に顔から突っ込んだ。
「ほれ、兄さんはこれに乗れば宜しい」
 巨大な魚が巨大な口を開けて、これまた巨大な泡を水面に吐き出した。
「の、乗るっていっても……」
「ほれ、早くしなさい。パパさんがもうじき漁にやってくる。邪魔をするわけには行かないだろう」
 泡に乗るなんて常識では考えられない、と言ったところで、魚が陸に上がりしゃべる光景を目の当たりにして、今更何の常識か、とも思う。
 桂一郎は心の中で、ええーい、ままよっ、と叫び、一気に泡めがけ飛び降りた。
 ぽわーんっ、と一回大きく沈み、やがて空気の圧力でちょうど良く戻ってきた。お尻がはまる感じだ。
 例えるならば、空気が半分抜けたピーチボールに腰掛ける、そんな具合だった。
 エアークッションってのは、こんな具合だろうか……。
 意外な感触に彼は部屋に一つ、あっても良いかもしれないと思う。
 桂一郎を乗せた泡を頭で押して、巨大な魚はゆっくりと大きく体を揺らし、大海原めがけ泳ぎ始めた。
 真っ暗な海に、風はなく、無音の世界が続く。
 恐怖を感じる間もなく、その圧倒的な空間にただひたすら唖然となった。その広大なスペースが、まるで自分を嘲るようで、だんだんと気持ちが萎えてくる。
 恐ろしく、悲しいほどに無力な自分を痛感し、泣きたい気持ちなった。
 怖くはなかったけれど、真っ暗で何処までも続く海の真ん中は、孤独で悲しみに満ちている。
 どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
 前方に小さな島が見えた。
 島はぐんぐんと近付いて、とうとう泡ごと砂浜へ打ち上げられる。
 桂一郎が砂浜に一歩踏み出すと、今までちっとも割れる気配のなかった泡が、突然パチンと弾けた。
「お疲れさん。パイが焼けたらママさんが呼びに来るから、それまでは少しゆっくりしているといい」
 そう言って魚は再び海に戻っていってしまう。
「……しまった。おいてかれ、た?」
 この島が何処の海に浮かぶのか、桂一郎にはまるで見当が付かない。それどころか、何処の国が所有する島なのか、よく考えたらそのママさんとやらと言葉が通じるのか、色々不安になる。
 魚と言葉が通じるのだから、対外の事は大丈夫なような気もするけれど。それでもまだ少し理性が働いているようだ。
 とは言え、このまま暗い海を眺めて途方に暮れているばかりじゃ情けない。仕方なく丘の方へと移動してみる。


丘の上に来ると、一本の大きな木が茂っていた。その高い枝から、ブランコが大きく揺れている。
誰かがブランコに乗っている。
もっと側によってみると、小さな可愛い女の子が、独りでブランコを漕いでいた。
前に後ろに、女の子のリボンがずれたリズムで靡いている。
まだ四、五歳だろうか。女の子は突然現れた桂一郎を見て、人なつっこい笑顔を浮かべて見せた。
「こんにちは」
相手が小さな、しかも可愛い女の子だと思うと、突然優しい気持ちになるのは何故なのだろう。
丁寧に挨拶をしてから、こんばんわだったかもしれないと気付く。
「こんにぃーわ。お兄しゃんは、だぁれ? わたし、りりだよ」
女の子はブランコを止め、挨拶に答えてくれた。 
「りりちゃん? 僕は桂一郎。よろしくね」
「けちろう」
「いや、けちろう、じゃなくて桂一郎」
「わぁったっ! けちろう兄しゃんね」
りりは元気に手を挙げ、自信満々にけちろうと叫ぶ。
「倹約家じゃないんだから……」
ボソッと呟きつつも、相手はまだ言葉もはっきり発音できない、幼い子供じゃないか、と自分に言い聞かせる。
「けちろう、おしゃかなのパイ、しゅき?」
いきなりお兄ちゃんがすっ飛んで、呼び捨てにされてしまったショックもさることながら、りりの幼児語は非常に聞き取りにくく、苦笑が浮かぶ。
「おしゃかなのパイは、食べたことないんだ。リリちゃんは、好きかな?」
さっき、同じ質問をされたとき、パイは好きだが魚のパイは食べたことがない、とは言えなかった。
言語中枢が麻痺していた、とも言える。
「ふーん。おしゃかなのパイ、食べたことないんだー。しょーゆーしともいるんだぁ」
と、彼女は妙に大人びた態度でしきりに感心して見せた。
「そ、そういう人もいるんだよ」
桂一郎はどう対応して良いのか、困惑の色を浮かべたまま、りりの言葉に相づちを打ってみたりした。
「ママしゃんのパイは世界一でしゅから、けちろうもきっとやみちゅきになること請け合いでしゅね」
「や、ヤミツキになる程、おいしいんだね?」
りりはブランコを降りて、近くのベンチに桂一郎を招き、二人で並んで腰掛けた。
「おいしいんでしゅけど、しょればっかりってゆーのは、しゃしゅがに、飽きてしまいましゅよね。たまには、ムニエルとか、グラタンとか食べたいでしゅよねー」
「毎日って訳じゃないんだろう?」
だんだんりりのペースも掴めてきたのか、ひるむことなく会話が出来るようになりつつあることを感じながら、毎日同じ物を食わされたら、やっぱり嫌だなぁ、などと想像してみる。
「毎日、って事はありましぇんけど、パパしゃんがえしゃを撒いて、しゃかなをとっちゅかまえるんでしゅ。パパしゃんのお仕事はおしゃかなしゃんを立派なパイにしゅるためにおしょだてしゅることで、ママしゃんのお仕事は、パパしゃんのおしょだてしたおしゃかなしゃんを美味しいパイにしゅることでしゅ」
「なんかよく分からないけど、ママしゃんとパパしゃんは偉いんだねぇ」
つい、りりの口調が移ってしまったことに、内心あっ、と思いつつもそれはそれで、良いんじゃないだろうか、と思った。
取り敢えず違和感のない会話も、かみ合っているし、成立しているのだから、あれこれ難しいことを考えちゃダメなんだ、と呪文のように繰り返す声が頭の中で響いている。
桂一郎はこの理不尽の渦巻く世界に、何とか順応しようと。心の中では必死に画策していた。しかし、その焦りが外見に一切現れないことが、今は吉と出ている。あまり多くはない事例の一つだ。
「りりちゃん……。あら、お客様に遊んでいただいていたのね。ご飯の時間よ。パパとダニエルはもう席に着いて、待っていらっしゃるわ。桂一郎さんも、どうぞ」
そうこうしている間に、髪を後ろに一つに結いた、エプロン姿の綺麗な女性がベンチの後ろからやって来て声をかけた。その声があまりにも心地よく、突然の事にもまったく驚きを感じなかった。
「あ、えっと……」
「リリのママですわ。ママさんと呼んで下さいね。主人のことも、パパさんで結構ですよ」
口ごもっていると、流石年の功、見た目よりも落ち着いた態度で、先に自己紹介をしてくれた。
「はい。ありがとうございます。突然おじゃまして、本当に申し訳ないです。ご迷惑だったんじゃないですか?」
「とんでもありません。ダニエルが強引だったんじゃないかと、こちらこそ心配していたんですよ」
会話の流れで、あの巨大な水陸両用の魚がダニエルだと理解する。かといって、ええ、本当に強引で……、などとはけして口が裂けても言えない。
結局どちらも謙遜しあいながら歩き、リリの家に招かれた。
早速案内されたテーブルには、本当に魚の形のパイがどん、と乗っていた。
それぞれの前に尾頭付きのパイ。
それにしても、と桂一郎は食卓の暗い事に不思議を覚えた。外はすっかり夜で、星も月もない。おまけに窓は全開なのに、電気は消えたまま。食卓を二本の蝋燭がかろうじて灯している。
人それぞれ好みがあるし、突然おじゃました珍客であろう自分が、その家の習慣に口を挟める物ではないと、桂一郎は言葉を飲み込みリリの隣の席に座った。
「では、頂くとするか。兄さんのパイに選ばれたのは、ロイスだったかな」
ダニエルがホークとナイフを器用に鰭で持ち上げながら、正面の桂一郎をチラッと見た。「最後は我も我もで、本当に大変だったよ。みんな早くパイになりたくて、わざわざ網にかかってくる物だから、今日の漁は苦労したよ」
ダニエルの横でパパさんが優しく笑った。
とても漁をする雰囲気には見えない、優しそうな好青年といった感じだろうか。どちらかといえば、ガーデニングをしながら、小さなスコップを持って立っている方が似合っている気がする。
「予想はしてましたよ」
と、応じたダニエルのナイフがサクッと良い音をあげたと思った瞬間、黄色い小さな星がキラキラと弾けとんだ。
「えっ……?」
「このパイは星の元なんですよ。だから、魚達はこぞってパイになりたがるんです」
驚く桂一郎に、ママさんがそっと説明してくれた。
「おしゃかなしゃんはみんなおしょらから来てましゅから、早く帰りたいんでしょうよね」
りりの発言に、ママさんはその通りよ、と言ってにっこり微笑んだ。
食卓はサクサクと言う小気味良い音が音楽のように鳴り響き、星がキラキラと弾けて開け放たれた窓から次々に空へ消えていった。
皿の上に残ったパイのカスまでキラキラと光って、まるで飛んでいった星の粉のように見えた。
「その粉が、さっきパパさんが撒いていた餌になる」
一番最初に見た光景を思い出し、沢山の魚が食べていたのは、パイ生地だったのか、と改めて半身を失ったパイを見下ろす。
魚のパイと聞いて、最初はもっと生臭い物かとか、あまり美味しそうなイメージはなかったけれど、これがヤミツキになると言うりりの言葉通りの美味さだった。
ナイフを入れる度に星が目の前に弾け飛び、優しい暖かな光が絶えず部屋を照らしている。二本の蝋燭が、必要ないほど部屋は明るく、最初の暗い室内が嘘のようだった。しかし、全員が食事を終える頃、再び部屋に静寂が戻る。ただし、最初に感じた暗いと言うイメージより、落ち着いた雰囲気だった。
「さて、それではそろそろ、最後のデザート、月の実を頂きましょうか」
「そうですね。パイのお皿をお持ちになって庭に一緒に行って下さいますかしら」
ダニエルの言葉を受け、ママさんが先に立ってくれた。ママさんの真似をして、お皿を持って席を立った。りりは誰よりも先に庭に走って行っている。
良く耕された柔らかい土だけの花壇へ案内され、そこに皿に残っている魚の目玉を植えるように指示された。
「魚の目は、月の種ですのよ。ほら、リリのはもう芽が出てまいりましたわ」
見ればしゃがみ込んだりりの前で、教育テレビで見るような、種から発芽する植物の早廻しのように、見る見る小さな木に育っていく。
「ほら、君も早く」
パパさんに促され、ハッと我に返った。慌てて見よう見まねで白い目玉を土に植えた。
一呼吸もすると、芽が出て双葉が広がり、やがてぐんぐんと大きく育ち、綺麗な白いふわふわの花が満開に咲いた。
「月の実は、一つの木に二つ。一つは食べて結構ですけど、一つは採らないで下さいね」
ママさんの説明を聞いている間に、りりが早くも鞠のようにまんまるな、自分の顔より大きな実をもいで食べ始めている。
桂一郎の木にも実が二つ。どちらもまん丸で、満月のような実だった。そこで一つだけもいで、リリのように、かじり付くと、意外な程ふんわりしていて、とろけるような舌触り。それでいて果汁が口一杯に広がり、例えようもない美味さだった。りり同様、誰もが無口になるのが分かる。
庭先で全員が、自分の顔よりでかい白い果物をほうばっているってのは、ちょっと不気味な光景だな、と思いながらもまるまる一個、綺麗に平らげてしまった。
「さて、腹も一杯になったし、そろそろ行きますかな」
ダニエルが銀色の艶を放つ腹を鰭でさすりながら、器用に尾ひれで歩行している。
「ピエール、ジャクリーン、ロイスにキエタ。それにチサヤ、期は熟した。空へお戻り」
ダニエルが一つ一つの木を軽く揺すってやると、一つ残っていた白い実が、薄い金色に発光して空に舞い上がり始めた。
ゆっくり、ゆっくり昇って、途中五つの小さな満月が輪を描いてくるくる回り始める。
だんだんスピードが付いて、とうとう五つの月の実は、一つの満月になって、星の沢山瞬く夜空に落ち着いた。
「今日も晴れていて良かったわね」
「でも、リリたまにはグラタンとかがいいでしゅ」
「雨の日に、作ってあげるわ」
月を見上げる親子の会話を聞いていると、自分が何だかとても大事な事を忘れているような気がしてきた。
「そうだ、家に帰る途中だったんだ……」
呟くと、目の前にダニエルがいた。
「あ、れ? リリちゃんやママさん達は……?」
そこは堤防のある、最初の釣り場。
辺りを見渡しても、人影の一つもない。まだ挨拶もしていないのに……、後悔しながらダニエルを見ると、彼はいつの間にか普通の魚に戻って、海に吸い込まれるように消えてしまった……。
桂一郎は、仕方なく自転車を拾い、何度か暗い海を振り返る。堤防が邪魔して視界から海面のほとんどが消えたころ、ようやく押していた自転車に跨ると、一気にペダルを漕いだ。彼は一度も後ろ振り向かず、ただひたすら家路を急ぐ。

 
玄関の灯りは消えていたが、台所の蛍光灯だけは明るく、母親が用意してくれた夜食がテーブルの上で布巾を被っていた。
何となく、食べないと悪い気がして、総て平らげた。
次の日の朝、桂一郎は母親に魚のパイが食べたいと言ってみようと思う。

さすがに胃が苦しい。
夢じゃない証だと桂一郎は胃薬を取り出し、苦笑交じりにはちきれそうな腹をさすった。


END

*** ひかるあしあと ***
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