◇◇ 囁いてよ
〜愛の言葉〜 ◇◇
その場所が何処にあったのか、僕は知らないままでいた。
あえて、此処が何処であるのかを問いただす必要が、なかったから……。
多分、僕は知りたくなかったんだ。知ってしまったら、どうなるのかが分かっていたから。きっと、総てが色あせ、君が遠く霞んでしまう。そのことが怖かった。
だから……、お願いだから僕に構わないで。
僕を、好きでいてくれるなら、このままそっとしておいて……。
 大丈夫。
 僕はずっと、君が好きだよ。
 君が好きだから、このままで居たいんだ。
 君が好きだから、このままで居られるんだ。
 君が好きだから、僕は何処へだって飛んでいける。
 今だって、君が僕を呼んだから、此処へ直ぐに来られたんだよ?
 大好きな君と、僕を好きでいてくれる君が、僕の源。
 もし、もしも君が、僕を嫌いになったら、呪文を唱えて。扉を開けて。
 呪文は、その時が来れば分かるから。心配いらないよ。
 大丈夫。僕は君が大好き。
 だから、僕をそっとしておいて……。


  1 祈り

 ─―神さま……。

 少女は心の中でゆっくりと呟いた。
 まるで、愛おしさで抱きすくめる子猫の感触を楽しむ子供のように、恍惚とした表情を浮かべている。  

─―今日も、彼が私のもとへ来てくれるお手伝いをして下さい。彼が、迷わず私のもとへやってこれるように、どうかあなたのお力で、光の道を開いて下さい。神さま、どうか彼を私から奪わないで。

 少女は祭壇の前に跪き、両手を胸の前でしっかりと絡ませながら、ステンドグラスに刻まれた全能の神を仰ぎ見た。
 その姿は雄々しく、しかし優雅で美麗。深い慈悲と優しさが溢れている。採光を従え悠然と下界を見下ろすその姿に、少女はため息を吐く。
 その光景を、背後の方で見つめる影が、すっと動いた。
 シスターと、身なりの良い紳士が少女の祈る姿を見守っている。
「アンジェラは感心な子ですわ。毎日欠かさず礼拝に訪れては、ああやって熱心に祈りを捧げています。ですからどうでしょう……」
「この修道院に、ですか?」
「ええ、良い縁談があるまで、当院でお預かりしたいのです。丁度、あの子の母、アンジェリカのように……」
紳士は、軽い笑みを漏らす。
「確かに、妻は素晴らしい女性でした。そうですね、此処へ来ることで、あの子は母親を感じているのかもしれません」
 少女、アンジェラは今年十一歳になったばかり。金の巻き毛や、美しいスミレ色の瞳、それにバラ色の頬や花びらの唇、白いふくふくした滑らかな肌。それらの外見的造形美から放たれる外的要因ばかりが少女の美しさではなかった。少女自身、その名の示すとおり天使の清らかさに満ち満ちている。
「パパ……」
 祈りを終えたアンジェラは、父親の姿を見つけ、ちょっと不思議そうな表情を浮かべた。
 未だかつて、母と礼拝堂を訪れたことはあっても、父が同席したことなど一度としてなかった。その父が、にっこりと微笑んで、シスターと並んで立っている。
「おいで、アンジェラ」
 父親が手を差しのばすと、途端にいつもの笑顔に戻り、ふかふかの絨毯の上を走り抜け、その足にまとわりつくように両手を廻した。
 父親は娘を抱き上げると、小さなちょこんとした鼻にキスを送る。
「アンジェラ、アンジェラは修道院で生活できるかな」
「ママみたいに?」
「ああ、そうだよ。ママみたいに、だ」
 アンジェラは少し考えてから、元気にうんっと言って首を大きく上下させた。
「よぉーし偉い子だ」
「では、宜しいのですね」
 シスターがゆっくりと微笑み、胸に小さな十字を切ると、さっと手を組んで軽く会釈をするように膝を曲げた。
 祈りの簡単なポーズを解き、彼女はアンジェラを抱いた紳士を修道院へ案内して歩き始めた。


   2 温もり

「ねぇアンジェラ、もう一年になるんだったわね」
 同室のリズリアが夜も更けた頃に、そっとアンジェラに語りかけた。
「何が、一年なの?」
 まだ眠れずにいたアンジェラは、早速上半身を起こし、友人の方へ向き直った。
「何がって、此処へ来てからよ。あんまりお父様とか面会に来ないのね」
「ええ。そうね……。パパは忙しいし、此処は昔ママがパパと出逢うまでいた場所だからきっと安心しているんだと思うわ」
 リズリアは質問しておいて、感心のなさそうな返事を軽く投げて寄越した。
「それはそうと、アンジェラ、あなた、お父様が結婚相手を見つけるまで、ずっと此処に居るんですってね」
「……」
 興味深げに身を乗り出すリズリアに、アンジェラは視線を落としてしまう。
「リズは、もう今年で十四歳になるんでしょう? 婚約者はいるの?」
 今度はアンジェラの方から、逆に質問を投げかける。そうすることで、何かイヤなことから逃れようとでもするように、彼女は妙に明るい笑顔を作る。
「婚約者は居るわ。産まれる前から決まってる。でも、合ったことないし、歳もあたしよりずっと上なんですって。此処にいれば、あたしが変な気を起こさないって思ってるんでしょうね。正式な結婚はあと二年したらだって。何でも良いわ、この狭くて息苦しい修道院から解放されるなら、七十のおじいちゃんでも歓迎だわ」
 リズリアは肩を竦めてため息を吐いた。確かに、彼女はずいぶん此処を出たがっている。
「私は嫌。この修道院を離れるなんて、考えられない」
 アンジェラはぽつりと、小さな声でしかし、はっきりと呟いた。
「結婚が怖いとか?」
 リズリアの問いかけに、少女は曖昧に微笑んで見せた。
「ごめんなさい。もう寝るわ……」
 それ以上何かを聞かれる前に、アンジェラはベッドへ再び潜り込み、リズリアに背を向けてしまった。
「まだまだお子ちゃまねぇ、アンジェラも……。まぁ、良いわ。おやすみぃ」
 仕方なくリスリアもランプの灯りを最小限に絞ってベッドへ潜り込んだ。
 間もなくすると、リズリアの静かな寝息が聞こえはじめる。
 アンジェラはそっとその寝息を確認し、更に息を殺してベッドから抜け出ると、そっと裸足のまま廊下へと向かう。
 廊下は、月明かりに照らされ、視界に困ることもなく、少女は真っ直ぐに礼拝堂へ向かった。深夜であろうと、礼拝堂だけは鍵が開いている。
 脇の小さなドアから、大きな礼拝堂へ入ると、月明かりに浮かぶ神の姿に、横から見られるような格好になる。慌てて少女は祭壇の方へ向き直り、中央に敷かれた赤い絨毯の真ん中へ移動する。
 そこに、人影があった。
 人影は、一番前の椅子に座り、ステンドグラスを仰ぎ見ている。
「あなた、なの?」
 アンジェラは、その背中に向かって小さく声をかけた。
 すると、その人影はゆらりと立ち上がり、月光の中に溶けるようにして消えてしまった。
「あっ……」
 その瞬間に小さく悲痛な声を上げるアンジェラの肩を、そっと抱き寄せる感触が広がる。
「あなた、なのね?」
 その馴染んだ感触に、少女は安堵のため息を漏らしながら、嬉しそうに漏らす確認の言葉は、断定をも意味していた。
 毎日、必ずこの修道院のどこかで、少女はこの実体のない腕に抱きすくめられ、幸福感に浸っていた。
 家にいるときは、こんなに何度も彼と会うことは出来なかった。けれど、この修道院の中では、望むだけで彼を感じ、呼ばれるように導かれることも少なくなかった。
 この姿の見えない腕に抱かれているだけで、少女は安心できた。幸福を味わうことが出来るのだから、それ以上を求めようとは思わなかった。
 確かなことは、姿のない彼がアンジェラを愛し、姿の見えない彼を、アンジェラが愛していると言うことだけだった。
 それだけで、他にどんな理由もいらなかった。
 この温もりだけで、言葉よりもはっきりと、目に見える物よりも明確に、彼の愛を知ることが出来る。
 少女は目を閉じ、その腕に抱かれたまま、恍惚の表情を浮かべ、神に感謝を捧げる。

 ―─彼と出会わせて下さり、ありがとうございます。

 アンジェラの祈りの声は、そのまま抱きしめる彼の中へも入って行く。
 そして、彼はよりいっそう強く、アンジェラを抱きしめる。


   3 呪文

 彼は、その部屋の外へは出たことがなかった。但し、肉体は、と付け足すべきだろうか。
 そもそも、何故自分がこの部屋に居るのか、何処から来たのか、自分は何なのかさえ分からない。もう、随分と長い時間をこの部屋で、厳密に言えば同じ壁を見つめて過ごしてきたような気もするし、逆のような気さえする。
 ほんのつかの間、この場所に留まっているだけに過ぎないのだ、と思う事が彼を苦しめた。
 ならば何故動けないのか。
 仮に動けたとして、果たして何処へ行けばよいのか、此処には答えを見いだせる何物も存在しない。
 ただ、あるのは無限に繰り返される薄い闇の流れ。
 そんな彼にも、たった一つの楽しみがあった。彼が唯一、自由になれるその瞬間。
 人形のような恋人の、言葉ではない想いが届く時、彼は何処へでも彼女を抱きしめるためだけに飛んで行けた。
 この喜びが続く限り、この部屋に居ても良いと思っている。
 この部屋から出るとき、総てが終わることを、彼は知っていた。
 誰も、この部屋に近寄らないで。このままそっとしておいて、彼の望みは、たった一つ。
 この幸せを奪わないで……。
 唯一、この扉を開けて良いのも、彼女だと知っている。
 自分の時間を止めるにふさわしい相手を見つけたような気がしていた。
 心のどこか隅の方で、彼女が呪文を唱え、鍵を手にしてくれることを望んでいる。


「シスターロアンダ、この階段は、何処へ続くのですか?」
 アンジェラは隣を静かに歩いていたシスターを呼び止め、今まで気にも止めていなかった階段を指さした。
 この修道院に暮らし始めて、まだ一度も降りたことのない階段。
「この下は、倉庫です。あなた方院生には縁のない場所ですね。それがどうしましたか、アンジェラ」
「いいえ、まだ一度も降りたことがない階段だと思っただけです。ありがとうございました。シスターロアンダ」
 少女はにっこりと微笑み、何事も無かったように再び歩き始めた。
 今日は始めてミサのお手伝いを任され、少し嬉しいような、大人びた気持ちになっていた少女は、背筋を真っ直ぐに伸ばし、院長の部屋へ報告へ向かう途中だった。
 無事にミサの報告を終えたアンジェラを、院長が呼び止めた。
「ああ、アンジェラにはまだもう一つ、重要なお知らせがあります」
 院長は小さな丸いめがねを持ち上げながら、にっこりと優しく微笑んで見せた。
「はい、何でしょうか院長先生」
 アンジェラも真っ直ぐに立ち、はっきりとした返事を返した。
「先程、お父様から連絡がありました。ご婚約おめでとう、アンジェラ。正式なお式はまだ当分先のこととは思いますが、お相手の方は直ぐにもあなたを招きたいと仰っているそうです。詳しい日程やそのほかのことは今ご相談中とのことでしたので、後ほど詳しいお話があるとは思いますけど、準備だけは整えておかなくてはなりません。早速荷物の整理などにかかって下さい」
 院長の言っている言葉は、けして難しくも早口でもなかったけれど、あまりに唐突なことに変わりはなかった。
 暫く、アンジェラは同じ姿勢のまま動くことさえ出来ず、返事の一つも出来ない状態に陥ってしまう。
 しかし、そこは流石シスターと言うべきか、目の前の少女がきちんと覚醒するまで、にこにこと微笑んでその状態を受け止めている。
 やがて、ゆっくりとアンジェラが瞬きをすると、それを合図に、急なことでしたね、と院長の手が肩に触れた。
「あ、はい。分かりました」
 アンジェラは未だもって良く理解した様子ではないにしろ、フラフラと院長室を出るとそのまま礼拝堂へ向かったつもりだった。
 しかし、彼女の足は自然と階段を下っていた。その先にある物が倉庫だと言われていても尚、その歩みが止まることなどなかった。
 その先に、何があるのか、アンジェラは分かり始めていた。
「私、あなたか好きよ……」
 階段を下りると、ひんやりと湿った空気が肌にへばりつくような気がした。通路も、所々にたいまつを掲げる台があるばかりで、肝心の灯りはまったくなかった。
 ただ、石煉瓦を積み重ねた通路を行く足音が、冷たく響き、その合間に、少女の独り言がすすり泣きのように漏れ聞こえる。
「私、あなたが好き……」
 何度目かの呟きで、彼女は一つの扉の前に立ち止まった。
 扉は、酷く古びて見えたけれど、とても頑丈な鉄で出来ていた。すっと、手のひらを当てると、刺さるほど冷たかった。それでも彼女はその扉に頬を寄せ、寄り添うように全身を預けて行く。
「ねぇ、私、あなたが好き……」
 扉の向こうに彼の気配が感じられた。彼は、昼間には、ほとんど姿を見せることはなく、また誰か他の人間の気配のあるときは、どんなに呼んでもただ、流れる風の一筋が頬を撫で行く程度にしか、現れてくれなかった。
 扉の向こうに、彼の温もりを感じながら、少女は何度も、何度も呪文のように呟いた。
「あなたが好き。あなたが好き……」
 それに対する答えは、言葉ではなく、この扉越しに感じられる温もりだけ。それでもアンジェラは嬉しくて、涙を一滴床にこぼした。
 その瞬間、涙が堅い金属音を響かせ、足下に転がり落ちた。
 慌てて下を見ると、一本の金の鍵が落ちている。
 アンジェラがその鍵を拾おうと手を伸ばしたとき、彼の声が響いた。
「拾わないで……アンジェラ」
 始めて聞いた声に、少女は一瞬動きを止め、その手を引っ込めた。
「あなた、なの? 今の声は、あなたなんでしょう?」
 アンジェラは鉄の扉に向かって語りかけた。
「ああ、僕だ。僕だよ、アンジェラ……」
 悲しそうな、少し寂しげに響く声。
「あなたの声、始めて聞いたわ」
「僕も、僕に声があったことを、ようやく思い出したみたいだ。僕は、総てを思い出したんだよ、アンジェラ……。だから、僕に構わないで」
 その言葉の意味が分からず、アンジェラは首を微かに振ってみせる。
「それって、どういう意味なの? 構うなって、私を嫌いだってこと?」
 少女は半分悲鳴に近いふるえる声で叫び、扉を拳で叩いた。
「……昔、ずっとずっと、昔のことだ。僕は、君に恋をした。君も、僕を好きになってくれた。僕達は、とても幸せで、ただ抱き合っていれば、それだけで何も欲しくないくらい、嬉しかったんだ……。だけど、君の父上は、僕を認めてはくれなかった。神父様に頼んで、僕を悪魔だと決めつけたんだ。僕は、地下牢に幽閉され、何日も君を想っていた。
ある日、僕の頭の上で、何か楽しげな賑やかな音楽や、笑い声が響いた。それは、君の結婚式の宴の様子だって、神父様が教えてくれたけれど、僕は結局この部屋から出ることは許されなかった。あれから、どれだけの時間が過ぎたのか、はっきりとは分からない。だけど、これだけは分かるよ。君は、あの時の君みたいに、僕以外の誰かと結婚して、幸せにならなくちゃいけないんだよ」
 静かに、ゆっくりと響く物語に、アンジェラはポタポタと涙を流し、その場に座り込んでしまった。
「ダグラスの馬鹿。あなた、大馬鹿だわっ」
「アンジェラ……?」
 彼は、久しく呼ばれたことのない名を呼ばれ、動揺したらしい。声がうわずり、少し疑いの様子が含まれている。
「あなた、私があの後、幸せになったとでも思っているの? 好きでもない男の子供を産まされて、一生貞淑な妻を演じて……。ずっとずっとあなたが好きだったわ。お父様から、あなたを街から追放したと聞かされて、生きていれば、あなたといつかもう一度会えるかもしれない、それだけを楽しみにして生きていたのよ。でも、病気には勝てなかった。死の間際に、あなたが街から出ていないことを知ったのよ。誰かが私の枕元で、ダグラスも教会の地下で死にかけているって、そう言ったのよっ! 私、これであなたとまた一緒になれるんだと思ったわ……。父を恨んだわ……。でも、本当はあなたに、謝りたかった。
あなただって、幸せに生きることが出来た筈なのに、父のせいで、総てを奪われたんですもの。父の代わりに、謝りたかったの……。ごめんなさい、ダグラス。私、もう一度あなたとやり直したいの」
 泣きじゃくりながら、アンジェラは扉に縋って一気にまくし立てる。
「……ありがとう。アンジェラ」
 一時の静寂の後、ダグラスの声が静かに響き、彼が微笑んでいる気配がした。
「ダグラス……?」
「嬉しいよ。君が、僕と同じ気持ちで居てくれたこと。だけど、お願いだ。醜く変わり果てた僕を見ないで欲しい。僕は、もう……昔の僕じゃないから」
 アンジェラが鍵を握っていることを知っているかのように、彼の声は優しく、そして何処までも悲しく響く。
「どんな姿だって、構わないわ。私、あなたを愛してるもの」
「ダメだっ! アンジェラっ! 開けないでっ僕に構わないでッ!」
 しかし、彼女はダグラスの必死の叫びには最早動じることはなかった。
 金の鍵は錠前にぴったりと填り、一回転するとカチリと音を響かせた。
「アンジェラアァァァッッッ――……‥」
 重たい扉に渾身の力を込める。
 悲鳴のような軋みと共に、ダグラスの痛恨の叫びが聞こえる。
 わずかに開いた扉の隙間から、風が勢い良く流れでる。
 声が、間延びし、回転数が落ちるような歪な音へ変わるとき、扉は開かれた。
 風に運ばれ、何かが音もなく崩れていったような気がした。
「……ダグラス?」
 アンジェラの呼びかけに答える温もりは、永遠に喪われてしまった……。 



END

*** ひかるあしあと ***
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