◇◇ 禍 ノ 時
 -Maga no toki- ◇◇
 僕が生まれ落ちる大地には、泉が湧き、風が渡り、遠く広がる空が続いているだろう。その息吹の一つ一つが僕を祝福する。光に溢れた世界。素晴らしき輝きに満ちたその全てが、この僕に与えられるのだ。
 たとえ君……いや、貴女がそれを拒んでも、事実は何一つ変わらない。
それは、そう──僕が、永遠に僕と言う存在であり続ける事と同じ。同時に、貴女が何時までも貴女であり、貴女以外の何者にも変われないと言う当たり前な事。それと同質の理。
 こんな簡単な理屈は他にないと言うのに、どうして貴女は僕を否定するのだろう。僕を否定するということが、貴女自身の肯定に成り得るかのように。
 この極単純な現実から君は何故……貴女は何故、目を背けるのか。
君、貴女が僕を拒む理由、そんな物が存在しないと言う真実に目覚めてくれる事だけが僕の願い。貴女さえ望むなら、何時だってこの僕の胸の内を見せてあげるのに。
僕を拒み否定する、そのことが貴女自身、自分自身の喪失になるという真実に、まだ気が付かない……何故だろう。貴女は貴女の本当の気持ちから逃げている。いや、運命からか……。運命? それも違う。そんな言葉では僕の存在は語れない。僕、そう、この僕と言う物を、理解していない。僕の存在価値、それは間違う事無く貴女と言う存在。そのために僕は生まれ、貴女が生まれた瞬間から僕は傍にいる。
あの暗闇の中で眠っていた貴女が、産声と共にこの世界を覆い尽くした時、僕は僕である事を知った。それと同様に、貴女の行動は常に僕を否定する。この無駄な反発と言う行為がまるで存在意義の現れであるかのように。
僕を認めない事が、不安定で、いつ失われるかも分からない世界の中にあって唯一頼れる意識の一端。微妙に保たれた危ういバランスの、軸。僕を排除しようと試みる葛藤が、存在を認識するための大切な儀式の一つ。だとしたら、貴女は僕をこれ以上ない位に認めている事になる。
 貴女が意識しないよう努めるごとに、僕らの絆はいっそう深く、より確実な物へと変わって行く。それ程僕の存在が浸透し、一体となる。
 僕は、何時までだって僕のまま、この僕として君の……貴女の傍に居てあげる。貴女が自分と言う存在を、確かな物に感じていられるように……。



   1 誘惑

 ぼんやりと空を眺めて閲覧用デスクに頬杖ついて座り込んでいた。
 資料室には他に誰のけはいも無く、今の所独占状態。お陰で必要な資料を取り出す事途中で放棄し、窓際の一等席で座り込んだら動けなくなってしまった。
 サボりだなーと感じながらも、もう少し、この静けさに沈んでいたかった。そんな時、人のけはいがして、意識が浮上してきた。
 資料書類の束を抱え、片付けに来たらしい同じ課の女子社員、それも一番仲の良いカナンだと知ると、私はそのまま空を見つづけることにした。
「どうしたの、のぞみ。帰ってこないと思ったら、こんな所で浮かない顔して」
そんなぼんやりと外を見つめる私を覗き込むように声をかける。声をかけてくれると知っていて、私はぼんやりした意識のままで座り続け、彼女の問いを聞く事で、覚醒しようと決めていた。
「何でもない、って事もないか……」
 私は大きなため息を吐いて、フッと笑って見せる。
「なぁに? またどうしようもない事考えていた? 最近、ぼんやりしている事が多いじゃない」
 カナンの目が優しく笑う。覚醒とともに、徐々にはっきりしてくる思考の断片。輪郭を持ち始めて襲い掛かる心の隅の闇。次第にはっきりと、私は怖さを認識し始める。
 この微笑が消えてしまうかもしれない。
そんな恐怖が、私を占める。
「うん。ただね、なんか考えちゃうなって。無駄なのに、怖いなって。この澱んだ空気が私達の肺を満たして、やがては内蔵を汚染して行くんだなぁって。この手も、この足も、体の総てが腐って溶け落ちて、異形のモノと成り果てて、自分が人間であったことさえ分からないまま、駆除されて死んで行く。それが何時襲ってくるのかって考えると、どうにもやりきれないな、と思ってさ」
 軽い吐息を合図に頬杖を解く。虚脱感だけが、デスクの上に広がっているようだ。
「そう、だよね。朝さ、近所のおじいさんが居なかったの。今朝早くに駆除されたんだって。昨日の朝は、行ってらっしゃいって、言ってくれていたのにね」
 ニュースにもならない、意外性も、珍しくもない現象。人間が、人間以外の何かに変わってしまう病気。感染率は、ほぼ百パーセント。現代人の体には、この病気のウィルスが必ず潜伏しているのだという。ただ、その潜伏期間が人によって異なるために、発病までの時間は誰にも計れない。ただし、発病後の進行はすさまじく、早送りの画面を見つめるように、四肢が爛れ腐り滴り落ちる。そしてその恐怖に耐えかね、精神か破壊される。行き着く先は、異形のモノ。もちろん、発病率は今の所かなり低い。低いと言っても、日常に不安を蔓延させるに値する程度には、増えつづけている。
発病すれば、駆除される他に道はない。駆除されなければ、人ならざるモノのまま、生き続けるしかない。
姿形ばかりか、人としての理性はもちろん、それまで培ってきた知性も教養も、感情のカケラさえも残さず失われてしまう。彼らに残されるのは、本能としての欲。食欲と性欲、そして睡眠欲の三つを、ただ悪戯に繰り返す。
私たちがもっとも恐れ、目を背けたかった現象が、食欲と性欲が一つに集約されてしまったかのような彼らの行動だった。
誰でも、いや生きてさえいれば何でも良いのだ。彼らの標的は身近なナマ物に向けられる。繁殖を伴わない性欲は、自分の身近な、より大切な人を食らい尽くす。生きたまま、残酷に弄ぶようにして食い尽くされる。
 自分にも彼らと同じ、食うか食われるかの運命が待ち受けていると知った時、人は命を狩って貰うことを選んだ。
醜く腐った姿を晒し、身近にある他の命に手を掛ける、そんな浅ましい生ならばいらない。たとえ、自分自身が行動の是非を理解しないとしても、その姿の醜悪さが分からないとしても、身内の、知り合いのそんな姿は見たくない。だから、殺して。
 異形のモノを殺して欲しい。過半数以上の声に、国は特別策を導入した。公然と殺人を行う機関の発足。しかし、抹殺、殺人と言う言葉には、さすがに同じ人間同士、抵抗があった。まして、処刑と言うにはあまりに残酷すぎる。だから、それらの発病者を異形のモノと呼び、駆除するという決断に達した。
 言葉だけが、理性を保つための拠り所。日常的に行われるようになった殺人業務。こんな世の中で、浮かれた気分になれるのは、取り繕った社交の場のみ。
本当は、誰もが憂鬱で仕方がない。それでも社会生活は行われている。発病せずに寿命を迎えたい、それだけを願い、上辺だけでも取り繕って綱渡りのような現実に生きている。
「嫌な時代だよね。何もかも、腐っていくの待つだけなんてさ」
 私は少しだけ、口の端を持ち上げて笑って見せた。
「不条理、だよね。なんかさ、こうして毎日仕事していて良いのかなって思う。他に何かしなくちゃいけないのじゃないかって」
 返ってきたのは、やはり焦りを隠せない本音の部分。
「でも、結局昨日と同じ、毎日毎日会社に来て、仕事してるんだ、あたしたちは」
 本音ではどんなに焦っても、怖がっていても、この日常を壊す勇気はない。何をしたいのか、何をすれば良いのか、何一つ具体的な事は分からないのだから。
 カナンの言葉を聞きながら、私は諦めている自分と、逃げ出したい自分、そして結局は甘んじているだけの小さな自分を抱きしめたい思いに捕らわれる。
 自分が異形のモノとなる事よりも、カナンが、このフロアの誰かが発病する事を恐れている。多分、みんな同じ。ワタシダケ ダイジョウブそんな妄想が唯一の、そして絶対とも言える魔法の呪文。
 ワタシ ハ ダイジョウブ。これだけで、皆理性を保っている。日常を淡々とこなしている。その姿は滑稽なのに、誰一人笑うものはない。この根拠のない呪文に、誰も疑問をぶつけない。
 私も、カナンも、きっと同じ事を考えている。ワタシ ハ ダイジョウブ。
 だから、人は今も、この先も人間の営みを繰り返している。そう、いつか、必ず、そう遠くない未来にワクチンが完成する事を疑っていない。
 かつての歴史がそうだったように、ワタシ ハ ダイジョウブなのだ。
「うん。いつ発病するか分からない奇病相手に、ビクビクしてちゃ生きていけないのよ、このご時世。欲しいモノは沢山あるし、遊びたいしさ。なんだかんだ言ったって、とりあえず生きているわけだし」
 唐突に、私は気合を込めて強く頷き、背筋を伸ばし、カナンを仰ぎ見て最高の笑顔を向けた。けれど、それは悲しいパフォーマンスに過ぎない。私は無理にでも元気な姿をアピールしてみせているだけ。
「まーね。でもさ、昔だって癌とか、エイズとかって病気があったんでしょ。今はそれが異形のモノ化してしまうって事な訳よね」
 私の笑顔を受けて、彼女もおどけて見せる。かつて人間が体験した、未知の病を克服してきたように、私たちも大丈夫、とその笑顔が語っている。
 うん、と軽く頷きながら、私は考える。いったい誰に、何をアピールしているのだろう、と。何故、私は無理をしているのだろうか、と。
「そうよ。暗くなっていたって始まらないのよ」
 カナンの肩に諦めが漂って見える。きっと、私の肩にも。そうか、と私は一つの答えを見つけた気がした。この諦めを諦めとして認めたくない、そんな足掻きが、この無理な姿勢の源なのだ、と。
 私は、私のために、このパフォーマンスを演じていたのだ。悲しい一人芝居の観客は、私自身……。
「……仕事、すっか。昨日の伝票、まだ課長のハンコ貰ってないんだよねぇ。」
 あまりに寂しい答えから逃げ出すように、現実を直視する事を選んだ。資料の整理を途中で放棄していた机の上から、さらに別の束を引っぱってくる。
「なんだ、結局のぞみの浮かない顔していた本当の原因って、妙本課長だったんじゃないの?」
 その一言で、日常が戻る。たわいのない会話。病気の事など最初から知らないかのような、軽さが好き。
カナンが、いつも私を日常に連れ戻してくれる。沈みそうな私を助けてくれるのは、いつもカナン。
「へへ。ご明察。苦手なんだなぁ、あの妙本のオヤジだけは……。虫がスカンと言うか、ムカツクと言うか、真面目に虫酸が走るって感じ」
 肩をすくめて舌を出す私の仕草に、カナンの顔がぐっと近づいた。
「やだなぁ、妙本課長って、のぞみと二つしか変わらないのよ? って、事は私と同じ年齢なのよね。で、総合しますと、のぞみちゃんはあたしをオバサンとして見ている、とそう言うことね? 分かったわ。のぞみの本心読めたわね」
「やっ、何よそれっ。違う違うっ、断然ちがーうっっ。妙本課長が別格なのっ。あたしはあと二年で自分がオバサンだなんて認めてないもんっっ」
 慌てて手を振る私に、カナンの目が笑った。何かを企んでいるときの目。
「うふ」
「何よ、そのミョーな目つき」
「のぞみ、今社内を流れている噂、知らないの?」
 小声で辺りを伺うように耳元で囁く。
「何よ、噂って。知らないわよ。興味ないもん」
 怪訝そうに身を引く私を必要に追いかけ、とうとう手にしていた書類の束を私の座るデスクの上にバサバサと放るように置いた。空いた手をデスクの上に乗せ、更に身を寄せて顔をグイと寄せる。
「本当に、興味ない? 渦中の人が自分でも?」
「え……、何? それ、どう言うこと?」
 さすがに、渦中の人などと言われては気になってしまい、つられて小声で聞いてしまった。他に誰が居るわけでもないと言うのに。
「ほら、興味あるじゃない。うそつきねぇー」
 私の態度をからかうように、小声のまま攻めるように笑う。
「やめてよ、なんなのよ、その噂って」
「そう尖らないでよ。簡単な噂よ、物凄く簡単で単純な……」
「何よ、簡単なって。全く、焦らさないで欲しいんだけど」
 私は彼女の意味深長な態度に、そろそろ限界を感じていた。自分と、あの大キライな男との噂など、考えただけでもぞっとすると言うのに。
「妙本課長がのぞみと……、なんだって」
「……って、何? 私となんだって言うの?」
 肝心の所を伏せて言うカナンに、食ってかかるような目を向ける。
「皆まで申すな、合い分かったってモンでしょう、ここまで言えば普通。全くしょうがないわねぇ」
 と、カナンは面倒くさそうに近くの椅子を引き寄せ、座り込んだ。どうやら腰を据えて話す気になったようだ。
「良い? だから、のぞみと妙本が真剣なお付き合いをしていると、そう言う事。二人とも独身だし、若いし、おまけに美男と……ちょっとだけ美女だ。なるほど社内でも納得しているって感じも無くはない。ただし、相手が妙本課長なだけに、ちょっと風当たりも無い事も無い。ま、ライバル多しって感じなわけね。一応、女子社員の中には快く思っていない連中もいる訳だけど、アタシは別よ? 机の陰から応援しているから」
 彼女はガシっと人の両手を掴んで、真っ直ぐに頷き、勝手に完結させるべく、にっこりと微笑んでくれた。
「ちょ、ちょっと、待って、欲しいんですけど……?」
内心の動揺を隠すつもりは無い。けれど、この怒りにも似た感情を抑えるために、それだけをやっとのことで搾り出した。
まぁ、彼女の話の中、妙本を躊躇なく美男と称したのに、私に躊躇するどころか取って付けたような美女の扱いも気になるけれど、それよりもその噂その物が気に障る。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。深呼吸を繰り返し、今度は私の方からカナンの顔にグッっと顔を近づけた。
「キサマ……草葉の陰で泣きたいか? さっき、虫酸が走ると言ったばかりだろう。何を戯けたことを。そこへ直れ、成敗してくれる」
 とんでもない事を勝手に言われて回るんじゃたまらない。
「あら、のぞみちゃんったら、カ・ゲ・キ。そんなのぞみも凛々しくて好き」
 カナンはそんな憮然とする私に、抱きついて来た。
「……あんたねー。その噂って、本当なの? でっち上げてんじゃないの?」
「そんなことしないよ。ちゃんと聞いたんだモン」
 いやに可愛らしく、首に捕まったまま耳元で囁く。
「誰から」
 そんなカナンを引き離そうとしながら、迷惑な噂の出所を聞き出そうとした。
「僕から。僕からのぞみさんへ伝わるように、噂を流してみたんですけどね。のぞみさんは相変わらずマイウェイな方なので、直接聞こえるように、わざと彼女にそんな話題を振ってみたんです」
「わっっ。た、たた、妙本課長!」
 不意に現れたけはいと声に、慌てて立ち上がってしまった。つられてカナンも体制を崩しながら立ったのは言いが、ヨロヨロと辛うじて転ばずにしがみ付いていると言った感じだ。
「はい。なんでしょう? のぞみさん?」
 そんな私たちのじゃれ合いをのんきに見つめながら、彼はのんびりとした笑顔を向ける。
「ち、違います、呼んだ訳じゃないですっ。驚いただけですっっ」
「照れなくても良いのに。それに、此処には他の社員の方もいませんから、妙本課長、では少し他人行儀すぎますね。名前で読んで下さい、名前で。満幸さんなんて呼ばれたいですね。僕と君の仲なんですから」
 カナンを首に絡ませたまま、私はその言葉に卒倒しそうになった。後ろ手のデスクと、カナンが居なかったら、恐らく綺麗に倒れていた事だろう。
 私のよろめきを受けたカナンが不意に笑った気がした。
「妙本課長、なんか嫌がっていますよ? なんか、上手く行ってないみたいですねぇ。この分なら勝ち目がありそうなので、この際です。宣戦布告しましょうか。のぞみは私のモノです。誘惑しないで下さいね」
 半分意識がぶっ飛びかけている私を抱き留めたまま、カナンが猫のような目で妙本課長を挑発している。
 なんなんだ、アンタ達……。なんで私で遊ぶんだ。と、言いたかったが、二人の間合いに入れそびれてしまった。
「相原さん、相原さんは僕たちの間に障壁となって立ちふさがろうと、そうおっしゃるのですか?」
 嘘っぽい仮面のような笑顔を浮かべてカナンを見据える目には、何かこう、恐ろしくも強大な自信の光が満ちあふれている。
「そーですねぇ。そうなりますかねー? 埒あかないじゃないですかぁ? それに、アタシ本気だしぃ」
「本気って、カナン? どう言う……意味、で?」
 カナンの発言に、私の方が驚いて、腰が引けてしまった。
「逃がさないわよ。本気ってのは、この場でキスしちゃいたいって事かな」
 気が付けばがっちり肩と腰を固定され、さっきまで支えだった筈のデスクが今度は拘束の壁になっていた。
「や、じょ、冗談。やめようよ、ね? 一応会社だし、ほら仕事しよう、仕事」
「大丈夫よ。今更なに言ってんのよ。だってほら、課長が承認済みだもの。この際だからはっきり言ってあげたら? 妙本課長の何がキライなのか。どうしてそんなに嫌いなのかって事。そうすればきっと課長も納得するわよ?」
「え……」
 確かに、カナンの言う通りかもしれない。はっきりとキライな理由を言えば、この状況を何とかできるかもしれない。
 私はカナンが助け舟を出してくれたのだと思って、そうよね……、と小さく呟いてみた。
「そうですねー、僕もこの際だから何処が嫌いなのかはっきり聞きたいです。そうすればより一層のぞみさんの理想のパートナーになるべく努力も出来る、と言うものです」
 と、妙本課長はいたって余裕の表情だ。
「努力だって、やーねー、これだから嫌われているって分かってない人は」
「そうですか?」
「そうですよ? だって、好きでも嫌いでもないって程度のスタートラインなら努力も実るかもしれませんけどぉ、明らかにキライ、マイナス面からのスタートじゃねぇ、ナニやってんのよキモチワルイって思うでしょ、フツ―」
「そうですかねー?」
「そうですってばーって、何時まで漫才させとく気? いい加減、のぞみの思ってる事言ってよ」
 二人で私を挟んで行われる会話の内容はさて置き、とても和やかな雰囲気に少しばかり呆然としていた。だから、このカナンの突っ込みは当然と言えば当然の事だろう。
「あ、うん。えっと、あの……なんか、その……、カナンと妙本課長って、仲良いですよね」
 しどろもどろになりながら、カナンに返事を返し、おずおずと話し始める。妙本課長も、黙って、優しく話を聞く、いつもの上司としての顔で私を見下ろしていた。
「私、とてもカナンみたいに自然に話すことなんて出来ないし、凄く、今だって本当は緊張してるし、でも、何で緊張してるのかも分からなくて、だけど多分これって課長が傍にいるからだし……」
 って、ナニを言いたいのか分からない! キライな理由よ、キライな理由。落ち着け、落ち着けアタシ!
 深呼吸を二度して、手のひらをグッと強く握り締め、私はもう一度口を開きかけた。だから、キライな所って言うのが……。
 キライなトコロ? 改めて思いつかない。どうしよう……。
「──イライラするなぁ」
 焦り始めた私の様子に、耳元で囁くカナンの声が、低く甘く響いた気がした。
「え?」
 その聞きなれない声に、振り返ろうと体を捩じらせたつもりだった。
「あら?」
 そう、私の体はまったく動かない。いや、何かにがっちりと押さえ込まれているかのように、動けないのだ。
「まさか、カナン?」 
 辛うじて動く目で、直ぐ傍にいる彼女を確認しようと極限まで視界を移動させる。
 しかし、彼女の姿は見えなかった。
 さっきまでの日常が霧の彼方に見えなくなっていく。そんな感覚に私は恐怖を覚える。
 これは、夢? 何度も何度も言い聞かす。これは夢。現実のはずがない。だって、私はさっきまで極度の緊張状態だったから。だから、きっと、気を失ってしまった。
 これは、だから、夢なのよ。だってだって、異形のモノはきっとこんなふうにしゃべらないはずだわ!
「ナニ考えてるの? のぞみぃ? あなた達見てると埒があかないねぇ。何時もいつもさぁ? のぞみはのぞみになった今も、妙本満幸になったアンタのこと、苦手みたい。だからさ、そろそろ良いかなぁーなんて。ねー? のぞみ、あたしと新時代創ろう? 新しいアダムとイヴになっちゃわない?」
 なめらかで柔らかい頬が、唇を掠めるように触れる至近距離で、カナンの声が脳髄に甘く響きわたる気がした。
 からかうのもいい加減にして、と、理性では叫んでいた。なのに、言葉は愚か、カナンの抱きついている手を振り解くことも出来なくなっている。これが夢なのか現実なのか、それ以前に、もっと漠然として、危うい私がいた。
 彼女が囁く言葉の内容も、いや、その言語すら定かではなくなってくる。果たして同じ言語なのか、絶対的な確信が揺らぎだした中で、不安さえも消えてしまいそうな気がした。
 不安定なのに、とても心地よい。まるで霧の中に浮かんでいるようだった。
「あっ……」
 カナンのしなやかな手が、制服のベストの襟元から胸へと落ちてきた。まるで蛇のようなうねりで、ブラウスの上から優しく強く膨らみを刺激してくる。
 耳元で、カナンの低くて艶やかな笑い声が響く。
 頭の片隅、心の片隅で、ほんの少し、それを受け入れてはいけないと警鐘を鳴らし続ける自分がいる。
 ──こんなの、イ・ヤ。
涙が毀れた。
タ・ス・ケ・テ──。
快楽に溺れそうな唇が漏らしたのは、救いの言葉。カナンの腕から逃れようと、唯一助けを求めた先は……、意識さえ朦朧とした私を見つめ、手を差しのべて待つだけの男、妙本のその人だった。
 その時、私は彼しか見えていなかった。
 彼に、彼の指先に触れたかった。



   2 呪縛

 おそらく、のぞみには今の現状が見えてはいないのだろう。
のぞみだけが、かたくなに人間であり続ける事に固執している。言い換えれば、人間外のナニモノかを否定している。それは、無意識のうちに、自分自身を守る最大の防御壁として、身につけた盾。
 今も、のぞみには見慣れたオフィスと、親友のカナン、そして人間の男としての僕を見ている。
自分を誘惑しているモノが、友人のカナンだと彼女は疑っていない。確かに、カナンはカナン以外のモノではなく、僕も、僕以外のモノではない。のぞみがのぞみであるように、皆、それぞれの自己を表している。
この状況の中で、のぞみが自分を正当化する為に、自分自身を人間として保つためにその意識の半分を閉じようとしている。
 カナンの言葉によって、自由を強制的に拘束されている事実にさえ気づいていない。
 カナンは次第に大胆に、すり寄せた頬をかき抱くように頭部を押さえつけ、もう片方の手で、無防備な胸元を侵略する。
その目は、獲物を捕らえ悦には入っているメスの隠微な光を放ち、勝ち誇ったように僕をまっすぐに捕らえている。
「それで落としたつもり? 相変わらず詰めが甘いね、君は。君が征服するのは、何時だって表面だけ。肉体をどんなに手に入れても、所詮篭の中の鳥。いつかは逃げてしまうモノだよ。だから、君は何時までたっても、彼女を手に入れることが出来ない」
 この状況でも、僕のこの揺るぎない自信は崩れることはない。なぜなら、彼女の目の奥に、真実が見えるから。
「確かに、君から直接彼女を奪うことは、いくら僕でも出来ないけれど、彼女から僕を求めさえすれば済む話だ。御覧、彼女の心は、僕のモノだよ」
 僕は、微かに表情を歪め吐息を漏らす彼女に向かって、手を差しのべる。これだけで充分。僕はいつでも、僕のままで君の側に居てあげる。
 ピクリ、と彼女の指先が動く。
 微かに、じわじわと指から動きを取り戻しつつある彼女の変化に、カナンの目から勝ち誇ったような色が失せ、変わって焦りが浮かぶ。
「ちっ、呪縛が解けるだと? まぁ良い。心なんて要らないね。欲しいのはこの身体。次の世界を創るのは、どちらにしても我らだ。今回も我の勝ちだっ」
「──っひあぁぁっ!」
 すっかり人間である姿を捨てたカナンの猛禽類のようなカギヅメも露わに、のぞみを羽交締めるように、その両の乳房を掴み上げ、勝利を宣言する。
 苦痛に歪むのぞみの目尻から涙か零れ、悲鳴が上がる。僕を求め、のばされた指先が触れようかというその刹那、純白に輝く羽根を広げたカナンが高らかな勝者の笑い声を響かせ澱んだ混沌の空間へ飛び上がる。
 その姿はまるで、混沌に吸い込まれるがごとく、失せてしまった。
「のぞみ……」
 カナンはと言うより、僕にしろ、のぞみにしろ、自我の集合体であり、あらゆるモノの象徴として実体を持つ我らは固有の名称を持たぬがゆえに、その時々で与えられた名称を個体と結びつける。
 カナンは、カナンであることを放棄した。
実体が晒され呼び名を捨てたアレを見ても、のぞみはのぞみであることをやめなかった。ならば、僕も僕のままで、この名を捨てる訳にはいかない。
カナンは、禍(マガ)としての姿で、どうのぞみを扱うのだろうか……。
 まぁ、良い。そんなことはどうでも良い。
今しなければいけないことは……と、考えるだけでも憂鬱な事だが、妙本満幸のままで、マガの地へ赴くこと。
「人間とは、かくも不便な生き物だ……」
 ため息混じりに、あたかも帰宅の途につくサラリーマンの如き一歩を踏み出した。
 上も下も何も分からないような、雑多なマーブル模様の空間を、呑気に歩いて行く先に目指す地が現れるはずであった。
この空間とはそう言う曖昧な理念に支えられている。つまり、形があり、意味がある総ての原型。言い換えれば有を生み出す以前の無と言うことか。
しかし、ここにのぞみと言う個体が、人間としての価値観を持って存在する以上、無は無ではなくなっている。
「おやおや、悪趣味な事で……」
 突如目前にそびえ立つ建物は、のぞみが固執する本社ビル。
 正面の自動ドアも、滑らかにスライドして迎え入れる体制だ。しかし、普段と違って、入って真正面に座る受付嬢の姿はなかった。
「無人の会社、と言うのは休日出勤や夜勤の時でも滅多になかったな」
 受付のプレートを指で弾き、まっすぐにエレベーターに向かう。毎朝の行動と何ら変わりはない。
 銀色に光るエレベーターのドアが開き、木目の内装が施された室内で、迷わずにいつもの階を押す。カクンと小さな衝撃のあとに、エレベーターは上昇を始めた。
 いつものオフィスに、のぞみは囚われている。
 異形のモノと化してしまったカナンに、彼女はきっと本当の事を聞かされているだろう。たとえ、拒否し続けたとしても、その自由を奪われ耳を塞ぐことさえも許されずに。  



   3 解放

「今頃のご登場とは、ずいぶん呑気なモノだね。悪いけど、コトは全て終わったよ。どこかの漫画の悪役よろしくヒーローの登場をわざわざ待っていられるほどお人好しには出来ていないんでね」
 余裕の表情に不敵の笑みを浮かべたマガが、翼をいっぱいに広げ、整然と並んだデスクのひとつに座って彼の来るのを待ちわびていた。
「無理矢理、力ずく……毎度同じパターンで、彼女の心は手に入りましたか?」
 ポケットに両手を突っ込んだまま、落ち着いた様子で彼はほほえんで見せた。
「気に入らない態度だね、相変わらず。どうしてここまで来ておまえは取り乱さない。もうすぐ世界が産声を上げるよ? 新しい世界だ。我とおまえがご執心の女との間に出来た、
可愛い子供が生まれるんだよ」
 楽しげに喉を鳴らし笑ったマガの翼が、まるで緞帳があがるように、閉じられる。
 塞がれていた視界が鮮明になるとき、のぞみが咆哮に似た叫びを上げた。
生け贄のごとく四肢を拘束され、天井を仰ぎ見るのぞみの姿は、デスクに仰向けに縛り付けられ正気を失いかけている。
その腹を見れば、背中を仰け反らせるのとは別に、何かが蠢き徐々に膨らみを増しているのがわかる。
「それでも、のぞみは人間で保っていられるとは、皮肉だなマガよ」
「ナニ?」
「分からないのか? あの蠢いているモノの正体、アレは悪夢だ。人間であるのぞみが見ている夢のひとつだよ」
 あきれ顔でマガの脇を抜け、のぞみの側へ向かう。その肩を猛禽類の爪が捕らえた。
明るいグレーの背広が黒ずんで赤く滲む。
「何故だ?」
 多少、苦痛に眉を寄せ、肩に食い込む爪に手をかける。その爪を払いのけようとする行動に、あっさりとマガが肩を離した。
その瞬間、傷口から鮮血が吹き出し、辺りに赤いシミを創った。しかし、吹き出す血の勢いはすぐに威力をなくし、ただ、ドクドクと背広の色を染め変えていく。
「何故、そうまでして人間に拘る」
 怪訝そうに聞くマガを見る顔から、血の気が失せていた。
「彼女が、人間であることを、望んでいる、から」
 呼吸が荒く、浅くなっている。
「解らぬわっ、何故そうまでして人で有り続けるっ! おまえは、おまえは人ならざるモノ。我と同質のモノだっっ」
「吼えるな……、傷に、触……る。残念だが、彼女が、それを望まない……。だから、今は、人で有り、続け……る」
 這うようにして、彼はのぞみの元まで辿り着き、その生気さえ失いかけた目に、血に染まった手を翳し最後の言葉を告げる。
「目覚めよ──…」と。


「……あんたねー。その噂って、本当なの? でっち上げてんじゃないの?」
「そんなことしないよ。ちゃんと聞いたんだモン」
 いやに可愛らしく、首に捕まったまま耳元で囁く。
「誰から」
 そんなカナンを引き離そうとしながら、迷惑な噂の出所を聞き出そうとした。
「僕から。僕からのぞみさんへ伝わるように、噂を流してみたんですけどね。のぞみさんは相変わらずマイウェイな方なので、直接聞こえるように、わざと彼女にそんな話題を振ってみたんです」
「わっっ。た、たた、妙本課長!」
 不意に現れたけはいと声に、慌てて立ち上がってしまった。つられてカナンも体制を崩しながら立ったのは言いが、ヨロヨロと辛うじて転ばずにしがみ付いていると言った感じだ。
「はい。なんでしょう? のぞみさん?」
 そんな私たちのじゃれ合いをのんきに見つめながら、彼はのんびりとした笑顔を向ける。
「ち、違います、呼んだ訳じゃないですっ。驚いただけですっっ」
「照れなくても良いのに。それに、此処には他の社員の方もいませんから、妙本課長、では少し他人行儀すぎますね。名前で読んで下さい、名前で。満幸さんなんて呼ばれたいですね。僕と君の仲なんですから」
 カナンを首に絡ませたまま、私はその言葉に卒倒しそうになった。後ろ手のデスクと、カナンが居なかったら、恐らく綺麗に倒れていた事だろう。
 私のよろめきを受けたカナンが、にやにやと笑いながら、それでも悪戯っぽく私を後ろから軽く抱きしめる。
「妙本課長、なんか嫌がっていますよ? なんか、上手く行ってないみたいですねぇ。この分なら勝ち目がありそうなので、この際です。宣戦布告しましょうか。のぞみは私のモノです。誘惑しないで下さいね」
 半分意識がぶっ飛びかけている私を抱き留めたまま、カナンが猫のような目で妙本課長を挑発している。
 なんなんだ、アンタ達……。なんで私で遊ぶんだ。と、言いたかったが、二人の間合いに入れそびれてしまった。
「相原さん、相原さんは僕たちの間に障壁となって立ちふさがろうと、そうおっしゃるのですか?」
 嘘っぽい仮面のような笑顔を浮かべてカナンを見据える目には、何かこう、恐ろしくも強大な自信の光が満ちあふれている。
「だぁーてねぇー、あたし一人置いてきぼりですかぁ? 寂しいじゃないですかぁ」
「なっ、なんなのよっカナンっっいい加減にしてよっ」
「そうですよ相原さん。僕たちの間に嫉妬しても無駄です、良いお友達になりましょう。結婚式では是非スピーチもお願いしますから」
 ようやくカナンを振り解いたのぞみは、妙本の言葉を受け、盛大に肩を落とした。
「勘弁して下さいよぉ」
 ヨロヨロと椅子に沈み込んで項垂れる姿に、カナンの明るい声が響く。
「妙本課長、今日はこれくらいにして上げません? そろそろ仕事に戻らないと、ね」
「そうですか? 残念ですねぇ」
「あら、課長、なんです? これ、血ですか?」
 妙本の腕を引っぱったカナンが、袖口のワイシャツの汚れに気が付いた。
「えっ……」
 しかし、その言葉に真っ先に反応したのは、のぞみだった。のぞみは跳ね上がるようにして立ち上がり、妙本の腕を掴んで引き寄せ、その血のシミを探し出す。
「イヤ、これは万年筆のインクが……」
 と、ほほえむ妙本の至近距離さに、慌てて手を離し、首を激しく横に振って見せた。
「ちっ違うの、別に心配した訳じゃなくてね、だから、そ、そう、手首でも切って出血多量じゃないのかなぁーなんて、き、期待したの。そう、期待しただけよ」
 早口に捲し立てる良い訳にも、妙本は笑顔のまま、まっすぐのぞみを見つめている。じりじりと後ずさるのぞみの真っ赤になった様子を見かねて、再びカナンが助け船を出す。
「課長、間抜けな事して誤解を生まないよう、気を付けて下さいよ。それより先日の企画、そろそろ具体案を出していただかないとっ」
 カナンの一睨みに妙本も観念したように、苦笑を浮かべ、ぽりぽりと頭を掻いて見せた。
「あうぅ。そうでした。では、愛しののぞみさん、また後ほど」
 カナンに引っぱられて行く妙本が、にこやかに手を振って遠ざかっていった。
「はぁ……。疲れた……。なんか、尋常じゃない疲れ方だわ……。しかも、あたしなんか変……よね」
 残されたのぞみは椅子に腰掛け、自分の行動に首を傾げながら、胸の鼓動を沈めようと深呼吸をしてみたり、冷めきっていたお茶の残りを飲んでみたりと必死だった。


「ナニが起きた?」
「分かりませんか? あなたがマガに戻る前の状態に戻ったまでのこと。全ては彼女の見ていた悪夢として、処理された、と言うことです」
「だから、何故」
 カナンとしてマガが妙本に食い下がる。
「ですから、言ったでしょう? 皮肉なモノだと。あなたが以前無理矢理創った此の世界は崩壊へ向かってバグが生じています。バグとは何か……簡単です。異形のモノ化現象ですよね。つまり、あなたの姿を見ても、彼女はあなたを異形のモノとして認識する事で、本来の姿を取り戻さなかった訳で、彼女が本来のモノにならなければ、新しい世界は築かれるコトはあり得ないんです。人間にはそんな力、有りませんからね」
「そこまで分かっていて、何故おまえまでもが人で有り続ける必要があったんだ?」
「僕は僕として、彼女の側に居てあげる。それだけの事です。彼女が見る僕が僕の本来の姿ですから、この場合、僕まで異形のモノ化する事は出来ないでしょう?」
 何を寝ぼけたことを、と言わんばかりの顔で見つめる妙本に、カナンはもう一つだけ教えろと迫った。
「何故、心に執着する。奪えば良いだろう。次の世界を作り出すためにっ」
「野蛮ですね……禍の君は。と、言うのは冗談で、忘れていませんか? 僕と彼女の関係。表裏一体にして唯一の対のモノ」
「絶望と、希望……? その割には、おまえはらしくないな。絶望を名乗るには前向きすぎる」
「当たり前でしょ。僕は希望と言う魔物を封じる、唯一の鍵ですよ? 人は希望を持つことで、永遠に手に入らないモノまで望んでしまう。しかし、絶望を知ったその時、ようやく手の届く希望に気が付くモノです。絶望とはいつでも前に向かうために用意された鍵なんですから」
「ふーん、そんなモンかねぇ。まぁ、良い。嫌がろうと拒絶されようと、身体だけが目当てなんでね、せいぜい気を付けろや。それが禍の仕事だからな」
「心得ておきましょう。」


 次の創世記にその物語を記すは……絶望の名か、禍の名か。
 永遠に繰り返される幾通りの世界よ、希望に満ちあふれる光となれ。 




END

*** ひかるあしあと ***
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