歩道橋を登り切ると、茜の空が広がっていた。
派手なはずの色彩が、こんなにも落ち着いて見えるのは、遠くから迫る、あの一筋の藍色のせいだろうか。もうすぐ、夕闇が支配する予兆のような、あの深く済んだ色。
あの時も、丁度こんな時刻だった。
うつむき加減に微笑んだ、彼女の背景。オレンジやピンクの空に、藍色が迫って来た柔らかくて、優しい空の芸術。
「今日は久しぶりに、綺麗な夕焼け空だね」
僕が言うと、彼女はゆっくりと振り向いて、微笑んだ。
あの、微笑みが最後の光景。
夕日に照らされるすべてが、まるで命の輝きを秘めて輝いているようだった。
なのに、彼女は……。
もう、秋も本番だな。
頬を撫でる風の冷たさに、薄手のジャケットの襟を立て、再び雑踏の中へ降りて行く。
「聖士」
突然、誰かに名前を呼ばれた気がして、駅へ向かう足早な人たちの中で独り、その歩みを止めた。
振り向いても、誰もいない。気のせいか、と思ったところへ、再び声が届く。
「前だよ、前」
慌てて向き直ると、忘れもしない顔があった。
「……勇士」
「なんだよ、ずいぶん嫌そうな顔して。相変わらず、冷たいな、兄貴のくせに」
鏡を見ているように、僕達はそっくりだった。勇士とは、約一年の歳の差があったが、学年は同じ。誰もが双子だと思って疑わなかった。そう、確かに、僕達は双子のように、いつも同じ柄の服を着て、同じ色の靴を履いていた。何から何まで、僕達は同じだった。
母親が、違う物を与えても喧嘩の素、と言って、いつも揃いの物を僕達に与えた。
僕は、従順だった。と、言うよりも、好みが曖昧で、母が与えてくれる物に、不満はほとんどなく、与えられる物をごく当然な物として感じていた。しかし、弟は……。
勇士は僕とはまるで正反対の性質を持って産まれていた。僕は、ずいぶん早くからその事に気付いていたけれど、どうすることも考えなかった。
あの夜が来るまで、僕は彼を少しわがままなだけの、可愛い弟だと思っていた。
「……元気、そうだな」
僕は絞り出すように、やっとそれだけを言う。
「まぁ、何とかね。聖士、イヤ、兄さんも元気そうで安心したよ。どう、最近親父の具合、少しはまともになったかい?」
言葉とは裏腹に、薄く笑った口元が、何かを含んでいる。
「……! お前っ、まさか!」
「どうしたの兄さん、そんな急に怖い顔して。ほら、みんな不思議そうに見てるよ? 忘れたの? 俺達、そっくりなんだぜ。こうしているだけでも、目を惹くんだよ……ア、ニ、キ」
突然間合いを払い、抱きついて耳元で囁かれ、僕は拳をきつく握るほか、為す術を知らなかった。
「来いよ、近くに車がある。招待するよ、兄さん。最近、やっと手に入れた物があるんでね、それを是非見せたいんだ」
強引に腕を惹かれ、半ば無理矢理に助手席へねじ込まれる。
「勇士……親父に、何した」
もうどれだけ走っただろうか、辺りはすっかり夜になり、街頭の灯りも、どこか頼りなく間隔もだいぶ広がっている。
どこか、人里離れた場所へ向かっていることは確かだった。
「何も。ただ、面会に行ってやったら、俺を兄貴と勘違いしてるようだったから、もう一人息子がいたことを思い出させてやっただけさ」
「……」
「どうしたの、顔色悪いぜ」
チラッと僕を見て笑うその目は、あの時と少しも変わっていなかった。
本当は、詳しいことは知らない。ただ、僕の知らない間に、いろいろな物が崩壊していた。
「兄貴も、俺が何かしたんだってことは、解ってるんだろ? 良いよ、家に付いたら、教えてやるよ、兄貴が知らなかった本当のことをさ」
勇士のひび割れた笑い声が轟く。
いつしか外は、真っ暗な山の中を走っていた。
時計は、既に真夜中をさしている。
途中、真っ暗な山道で車を止め、勇士は後ろの座席からクーラーボックスを引きずり出し、蓋を開けて中味を見せた。
「喉渇いただろ、好きなの飲めよ」
中には数種類の缶ジュースとビールが入っていた。
僕は程良く冷えた缶コーヒーをとり、いただくよ、と小さく言った。
「俺はビール、と言いたいが兄貴を乗せて飲酒運転なんかしねーよ」
変わりに炭酸飲料を手にすると、軽快な音を立てて中の炭酸が泡となって手に吹きこぼれた。
「ちっ、これだから山道は。勿体ねぇなぁ」
彼はズズズと音を立てながら、炭酸飲料を啜り、今度は一気に景気良く喉を上下させて飲み干した。
「っくかーっ 喉痛てーっ。さて、兄貴、もうちょっとかかるからな、その辺でションベンでもしておけ」
そう言って彼は車を少し離れて背中を向け、もぞもぞと動いている。
その姿を横目に、のろのろと車を降り、緊張した体を伸ばす。夜風は冷たく、体の節々が軋んだようにぎこちない。
勇士とは別の草むらへ立つと、長い間の呪縛から解き放たれたような開放感が広がった。 再び走り出した車内は、しばらく無言だった。
時間は真夜中の二時を過ぎ、段々と眠気におそわれる。
「……こうして兄弟二人で並んだのは、何年ぶりだろうなぁ、兄貴」
「う……ん……」
勇士の言葉に、何かを応えようとしたが、意識はそこでぷつりととぎれてしまった。
ただ、ただ、泥沼の眠りに落ちていく。
酷く体が痛かった。夕べ、長時間同じ姿勢でいたためだろうか……。そんなことをぼんやりと考えながら意識が戻ってくる。ところが、目を開けても、そこは暗黒。一瞬の間をおいて、拘束されている自分を知り、完全に目が覚めた。
「あうっ!」
手は椅子の背もたれの後ろ。足は頑丈にロープで幾重にも結ばれ、ご丁寧に猿ぐつわまでされて言葉まで、拘束されている。
聴覚のみが許されたこの状況に、まず何が起きたのかとありったけの抵抗を加えてみるが、聴覚以外意図的に奪われた自由を取り戻すことは出来なかった。
「兄貴、暴れないでくれよ」
「……っ!」
直ぐ近くに勇士が立っている。その気配だけは明確に感じ取れた。
「言ったろ。本当のことを教えてやるって。ただ、それにはちょっと、刺激が強すぎると思ってね」
声の様子だけで、その歪んだ笑みが見えるようだった。
「俺さぁ、何でも兄貴と同じなのが気にくわなかったんだよねぇ。ただでさえ同じ顔してさぁ、お人好しの兄貴と一緒ってのが嫌で嫌で堪らなかったわけ」
声が正面から脇へ移動していく。
「で、思ったわけ。俺の世界を作ろうなぁんてさ。まずはお袋から奴隷にしてやろうと思ったんだよね。兄貴が真面目に学校行ってる間に、お袋を従順な奴隷に躾けてやったんだ。最初は手こずったけど、これが面白くてねぇ。親父にも、お袋がどんな女かを見せてやったよ。あんときゃほんと、笑えたねぇ」
勇士の息が耳元にかかり、腕の重みで肩が沈む。
「で、親父もヤバイと思ったんだろうな。こんな山ん中に俺を追いやった。二度と家には入れないってスゲェ剣幕でさぁ。俺も腹が立ってさぁ、あんまり悔しいから、親父が見てる前で、階段踏み外せって命令してやったよ。電話でね、お袋に」
「……ッ!」
親父の目の前で、お袋は死んだ。前触れもなく、階段を一段飛び越え、体は奇妙に折れて腕や足が、あらぬ方を向き、ピクピクと痙攣し、絶命した。
それから、親父の様子がおかしくなった。家に帰ると、見知らぬ少女と一緒にいたり、また二、三日家を空けることが続き、完全に正気を失ってしまった。
「兄貴も見たことあるだろう? 親父の相手をしてた女たちは、俺の奴隷……イヤ、人形だな。沢山の人形を持ってるんだぜ」
自慢げに囁く声と、徐に股間をまさぐる手が同時だった。
「???……!」
「どうだい、兄貴。気持ちいいだろう?」
下非た笑い。股間を誘惑する感触。そして、暗闇……。親父も……もしや……、しかし考えが言葉にならない。
淫らな動きが、なま暖かい粘膜へ変わり、全身が疼きはじめる。
視界が奪われている今、その感触に感覚が肥大していく。何か柔らかく、弾力のある不気味な生命体に犯されている。
「俺の人形、見せてやろうか」
耳元で勇士の声が囁き、既に限界を迎えている様子を知って、更に耳をくすぐる息を吹きかける。
視界が突然開かれる。
そこには無表情な女性が五人、思い思いのポーズでこちらを見つめていた。ぎょっとしたのもつかの間、先程から自分を犯しているのは、その中でも一際幼い少女だった。
「自慢の人形達でね。此処まで仕上げるまでに、どれだけ掛かったか」
勇士は自慢げに言いながら、女達が囲む中へ入っていった。
それでも少女は動きを止めず、限界は直ぐそこまで来ている。
「出せば? 楽になれよ」
「んううっ!」
何とか必死に首を振り、抵抗を試みる。
しかし、最早気力や意志の力ではどうにもならない叫びが迸った。
変わりに脱力感が一気に全身を駆けめぐり、情けなさに涙が滲む。
部屋中に、勇士の勝ち誇った笑い声がこだまする。
「行け」
笑いながら、別の女に声をかける。すると少女と入れ替わるように、別の女がかがみ込み、再び同じ地獄が繰り返された。
「うぅっんううっっ!」
どんなに止めてくれと懇願しても、言葉は猿ぐつわに邪魔され、意味をなさない雄叫びに変わる。
「いいざまだぜ聖士。そろそろ、一番お気に入りの人形を見せてやろうか」
と、彼は部屋の入り口へ向かうと、また別の女を連れて入ってきた。
「いい人形だろ? 今一番可愛がってるんだぜ。出来も良いしな」
「うぅぅううっ?!」
杏子っっ!
そこで現れたのは、紛れもない、突然姿を消した彼女だった。
目を見開き、呻きを悲鳴のように発する姿をみて、勇士は腹を抱えて笑い出す。
「どうした聖士、あんまりいい女なんで、興奮したか?」
勇士は彼女を視界の正面に立たせ、ニッと笑った。
しかし、杏子は恐ろしく無表情に、遠くを見つめている。
その杏子の後ろに立った勇士の手が、掴みかかるように彼女のブラウスの上から乱暴に握り込む。
「うおうぅぉっ!」
止めろっと叫ぶ。
杏子は表情を変えない。
相変わらず、下半身は熱く肥大し、弄ばれている。
たっぷり胸を揉み込んだ勇士は、ジッとこちらを見つめ、不適な笑みを張り付けたままゆっくりと右手を杏子の下半身へ向けてすべらせる。
「うぉおおぅぅっ!」
勇士の右手が、器用にスカートをたくし上げ、蛇のように白い太股を撫で上げ、下腹部を何度か捏ねる。徐に、手が小さな布の下へ消え、その部分が妖しく蠢きはじめた。
「ぅっ……」
杏子が微かに喉をならし、頬がうっすらと上気する。それでも、綺麗な輪郭で形成される表情はほとんど変わらない。
それを見ている別の女達も、一切表情に変化がなかった。
勇士の左手が、乱暴にブラウスを破り、上半身が露わになると、視線を外すことなくその白く形の良い乳房に下を這わせ、歯を立てる。
「ク……」
再び、小さく杏子の喉がなった。
同時に、再び虚無感に襲われ、虚脱してしまった。しかし、目は、杏子から離せない。
白い乳房に、細い赤い筋が流れる。
血が滲むほど歯を立てて、勇士はその血を舐めとるように舌をくねらせる。
「素晴らしいだろう? 一番優秀な人形なんだ。せめて一度は見て貰いたくてねぇ。他のはどれも欠陥だらけだ」
勇士は突然杏子を突き放し、手短な女の手を引っ張り、同じように下着の中へ手を突っ込む。
と、暫くするとその女の目に、明らかに恍惚とした表情が浮かんでいる。それを確認した勇士が、動きを止め、女を蹴飛ばし、床に叩きつけた。
「どいつもこいつも、人形のくせに感じやがって」
吐き捨てるように言いながら、また別の女を乱暴に床にねじ伏せ、その服を剥ぎ取りスカートを大きく捲り、下着を乱暴に降ろす。
俯せに押さえ込まれた女の臀部が、高々とこちらを向いている。
その白く丸い臀部を、勇士は堅い靴底で思いっきり踏みにじった。
「あぅぅ……」
女の小さな苦痛の声が聞こえる。その声を聞き、更にぐりぐりと踏みつける。完全に床に伸びた女のそこには、靴の後がくっきりと残り、血が滲み、赤く晴れ上がっている。
「人形はなにされても表情を変えないんだよ。足をもがれようと、手をへし折られようと──首だけになっても、かわらねぇんだよっ」
怒鳴りながら、尚も奉仕を続け、かがみ込んでいた女の腹部を蹴り上げ、吹っ飛ばした。その時、彼女は短く息を詰まらせ、眉をほんの少し寄せ苦悶の表情を見せた。
その瞬間に、余計腹を立てた勇士は、唯一何の仕打ちも受けていなかった最後の女へ魔の手を伸ばし、忌々しげに、股間を握り上げる。
「お前が一番、躾が必要らしい……」
そう言って、彼女を壁際に引きずって行くと、後ろ手に手錠をはめ、下着を降ろし何かを塗り込んだように見えた。
何事も無かったように、勇士は杏子の側へ歩み寄り、椅子を引き寄せると、正面に彼女を座らせる。
その時、部屋の隅に放置された女の悲鳴のような喘ぎが響く。勇士はイライラしたように、女を殴りつけ蹴飛ばし、黙らせると再び戻ってきた。
「どうだい、優秀だろ? ほぼ完璧に近いんだ。この人形」
杏子の耳元で優しく囁きながら、僕を見つめる目には、狂気が垣間見えた。
杏子は、僕の見ている前で無表情なまま、何度も何度も狂ったように犯され続けていた。合間合間に漏れ聞こえる喘ぎは、別の女が苦しげに堪えきれずに発している物で、杏子の物ではなかった。証拠に、彼女は終始無表情で、特折喉を小さくならす程度。そんな杏子を抱く姿は、まるで死体を犯しているように見える。
その光景に、僕はぼんやりと最後に見た夕焼けを思いだす。
一人で見た、夕焼けの時。
杏子が微笑んでいた、夕焼けの時。
視界が、赤く、朱く滲む……。
世界が、黄昏を迎えている。
夕闇が訪れる、最後の瞬間。
……杏子。
無表情な君が、夕焼け色に染まる。
……きょ、う……こ……
もうすぐ、暗闇がやってくる。
藍色の一筋が、空を漆黒に変えて……い……く……。
……キョ……ウ……
「兄貴の物は、俺が全部頂くよ。嬉しいだろう? なぁ、兄貴」
椅子ごと床に転がり、一文字に切り裂かれた胸から零れる大量の血は、彼を包む夕焼けの空のように広がっていた。
それを見下ろす彼女の瞳は、何も感じていないかのように、静かに遠い夕焼けを眺めている。
乾いた金属音が響きナイフがこぼれ落ちる。
夥しく床に広がりつづける血の池と、こぼれたナイフ、そして、彼女の濡れた手の色が、今、彼らを一つに結ぶ赤い糸のように夕日にぬらぬらと照り映えていた。
END