青い夜に出歩くな。
命あるもの皆、青い霧に近づくなかれ。
今年もまた、青い夜がやってくる。一年に一度、この空が深いふかい藍に染まる。
静寂の聖夜に、町が、国のすべてが揺らめく海中のような闇の中で、人々は祈りを捧げる。再び、この島が海の底へ沈まぬように。
二度と、同じ悲しみが訪れぬように……。
祈りは静かに、青い闇が過ぎ去るまで、黙々と続く。
町が、祈りの旋律で溢れる時、海を見下ろす高いたかい塔の鐘がなり響く。鐘の音が、祈りの声を、人々の想いを乗せて、青い闇を振るわせる。
再び、彼が目覚めぬように。
再び、彼を忘れぬように。
祈りを捧げる両親を照らし出す蝋燭の焔が揺らぎ、巨大な影が歪む。その影を不思議そうに見つめる少女は、大きなクマのヌイグルミを抱いて立っていた。
どうやらあまりの静けさに目を覚ましてしまったらしい。裸足のまま、冷たい床に立ち尽くし、何処となく不安そうにヌイグルミをきつく抱きしめている。
「ねえ、なんでお祈りしているの?」
少女はか細い声で両親の背中にそっと呼びかけた。
その声に、両親はゆっくりと振り返った。
「オフィーリア、起きてしまったのね? では、あなたも祈りなさい。この街の為に」
母は少女を招きながら優しく微笑んだ。
「この国の為に、祈るのだよ」
父は、少女を暖かな敷物の上に座らせ、その頭を優しく撫でながら、そう言った。
二人の間に少女は跪き、ヌイグルミを自分の前に座らせると、両親を真似て、手を胸の前に組んだ。
蝋燭に向かい、頭を垂れる両親の仕草を真似ながら、少女もまた静かに目を閉じて祈りの輪に加わる。
「この小さな命をお守りください」
父親が、ゆっくりと祈りの言葉を再開する。
「この平和な時をお守りください」
母親が、その後を続け、やがて二人の声が静かに部屋を満たして行く。
「あなたの孤独を、我らにお分け下さい。我らの愛を、あなたに捧げましょう。我らの想いが、あなたを安らぎで満たすでしょう。あなたの安らぎが、我らを癒しす源となるでしょう。我らの偽りなき声が、どうかあなたに届きますように──……」
祈りの声に、時折微かな別の音が聞こえる気がして、少女はそっと目を開けた。隣で両親が祈る姿を仰ぎ見ながら、そっとヌイグルミを抱き寄せる。
確かに、カリカリと何かを引っ掻く音が聞こえる。胸に抱き寄せたヌイグルミに更に力を込め、耳を澄まし音の方へそっと振り向いてみた。
カリ……カリカリ……。
少女は、ダニエルだわ! と咄嗟に立ち上がりドアに駆け寄った
カリカリとドアを引っ掻く音は、猫のダニエルが帰って来た証だった。オフィーリアは何の疑いも抱かずにドアノブに手をかけた。
「ダニエル、今開けてあげるわ」
少女の声に、祈りに集中していた両親が驚いて振り返ると、今にも扉を開こうとする娘の姿があった。
「ダメだ、オフィーリア! 開けてはダメだっ!」
父が立ち上がりながら叫んだ。
「ダメよ! ダメ!! オフィーリアっ!」
母が娘に手を伸ばし、縺れる足で必死に駆け寄ろうともがく瞬間にも、その手の動きは止まらない。
オフィーリアは二人の必死さを不思議に思いながら、ノブを引き下げ、微笑んで振り返る。
「ダニエルが帰ってきたのよ。ドアを開けてあげなきゃ」
ドアが僅かに開いた。その僅かな、ほんの数ミリの隙間から、青い闇がスルスルと煙のように入り込む。まるで無数の触手が獲物を捕獲するように、凄まじい素早さでオフィーリアを包みこんでいく。
成すすべも無く、両親の見ている前で、生き物のような濃い霧に抱かれ少女の腕からヌイグルミがポトリと落ちた。母親の声無き悲鳴が轟き、ヌイグルミを放した筈の少女の姿が消える。青い闇もまた、少女の姿同様消えていた。
母の悲鳴が轟き、ヌイグルミを拾い上げた父は叫んだ。
「何故だッ! 我らは祈っていた筈だっ、あの男がっ、あの男がこの地に蘇ることが無いよう、毎年必ず祈りを捧げていたのにっ」
ヌイグルミを抱きしめたまま、父はその場に崩れるように跪いた。
部屋の奥のから、猫の鳴き声が響き、カリカリと戸を引っ掻く音が聞こえた。
「ダニエル……、おまえを閉じ込めておくんじゃなかった」
母はヨロヨロと奥の戸棚へ歩み寄り、その扉を止めていた閂を外してやった。すると、一匹の灰色の猫が勢い良く飛び降り、両親を蒼い瞳に映し出す。
「あの霧は私ではない」
はっきりと、猫がそう言った。うな垂れる父に向かい、猫は蒼い瞳を向けて尻尾を緩く振りながら彼らの反応を待つ。
「ダッ、ダニエル?」
その声に、父が不審な目を向けた。
「私は猫に非ず。この街をかつて海に沈めたる者。そして、この国を守る者。祈りの声は聴いていた。この数百年にも及ぶ時の中、誓いを一度として違わなかったそなた等に、我の力で報いることが出来よう」
第二幕 霧の広場
街は静まり返っていた。風も凪いで、霧が立ち込める。青い、暗い海の底が広場をすっぽりと包んでいる。
広場の真中に、しなやかな猫の姿があった。青い霧の中で、灰色の猫は猫の姿を捨て、人の姿に変わっていく。
その姿は長い衣を纏い、青く流れる髪は獅子のごとく靡く。
「災いなす源よ、我の前に姿を示せ」
男の姿となった猫の声は、低く青い闇に響き渡る。
声に答えてか、ゆらり、ゆらりと霧が動く。ゆらり、ゆらり、霧が集まる。
「災いの源よ、おまえの欲する者は、もうこの地にはない」
男は、優しく霧の中心を見つめ、諭すように語りかけた。
霧は、どんどんと濃くなり、人の影のような形を成して行く。
「青い闇は契約の印。かつて私と交わされた契約は、今も生きている」
男は、人型になった影に向かい静かに語り、ゆっくりと目を閉じた。
「私を殺せるか? 契約に基づき、娘をさらった咎で、私を排除すると言うのか? お前に裁きが下せるとでも?」
霧は青く男と同じ姿に変わり、全身がせせら笑うように小刻みに波打った。
「裁きを下す? 私が誰に? その娘はかの魂の欠片に過ぎぬ。その欠片を奪ったところで、おまえは満たされなどしない。分かっている筈だ、何故、私の気を惹く?」
「何故? おまえこそ分かっているのではないのか? 私が今ここにいる理由を!」
霧が声を放つ度に青い姿がぶれるように動いた。
「再び抗ったところで、失ったものは戻りはしない。たった一つの物を得ようとして、結果は全てを失った。そう、一番欲しかった魂は嘆き悲しみ、そして我を見放した。これ以上の罰はあるまい。私のもとから、全てが去ったのだ。もう、二度と戻りはしない物を、今、畏怖と恐怖によって支配された感情が、契約として生き続けている。これがどれほど悲しく辛い事か、私は知らなかったのだ、おまえ同様に」
青い髪が風に煽られたかのように広がり、靡いた。その声は重く海底に広がる波紋となり、周囲の霧を四散さる。
霧が晴れた後に、幼い少女が冷たい石畳の上に横たわっていた。
「青き霧よ、おまえに問う。おまえは、裁きを受ける覚悟があるか。身は清く、心に色形無しと言えるか。言える者のみが、裁きの雷を受けられよう。我には、おまえの咎を責める資格はなく、おまえはこの闇の力を使う資格がない。なぜなら、我こそが、裁きを受けし身なればこそだ!」
男は少女の姿を確認すると、青い男に向かい、殊更強く言い放つ。
「これが、裁きか──。身を裂き、全てを失い、望む者さえないこの世が!」
静かに少女を胸に抱き、腕の中に眠るあどけない額に口付けし、優しく、暖かな笑みを向ける。
「望む姿は、此処に。我が欲したモノは、この安らぎ。来るが良い。所詮は、同じ私なのだ。求めたものを感じるが良い」
少女を胸に抱いたまま、男は青い霧に向かって手を差し伸べる。
「戻れと言うのか。この闇を住処としてきたこの影に。罪は消えていないのだぞ? この国を沈めた罪は、未来永劫消えぬのだ」
「承知。罪は消えぬ。消えぬからこそ、この国の守護を務める。恐怖と畏怖によって、我が身は呪縛される。契約と言う名の戒めが、私には必要なのだ。欠片が揃い、かの魂の癒されんことを願う」
「欠片は、その腕の中の欠片は、癒され戻るのか……」
「その日が来れば分かろう。その時は、共に裁きの雷を受けようではないか」
微かに笑ったような気配の後に、小さな蒼い石が男の足元まで転がり止まった。
終章 エピローグ
少女は暖炉の前で跪き、猫に絵本を読んで聞かせていた。
「海の底に棲む神様が、高いたかい塔の上に住んでいるお姫様に結婚を申し込みました。お姫様も、ずっとこの神様を見ていましたから、とても喜びました。王様は、一度はお姫様を差し上げようと約束しましたが、海の底へ行くのはやっぱり駄目だと思いました。そして、海の神様との約束を破って、隣の国の、王子様のお嫁さんにすることにしました。それを知った神様は怒って、津波を起したのです。街は海に沈み、お姫様の大切なものを全て流してしまいました……」
灰色の猫のダニエルは、オフィーリアの膝の上に乗り、柔らかな頬を一舐めし、その膝に丸くなってゴロゴロと喉を鳴らした。
くすぐったそうに身じろいで、オフィーリアはダニエルの滑らかな背中を撫で、再び遠い昔のお話を綴る絵本に目を落とす。
「私、このお話がとっても好き。お姫様と海の神様は、きっと結婚できるの。この絵本には書いてないけど、私はそう思うわ。ね? ダニエルもそう思うでしょ?」
青い闇がやってくる。人々の祈りが聞こえる。もう二度と、彼が目覚めぬように。
再び街が沈まぬように。悲しみが繰り返さぬよう……に……。
END