■緩やかな時の終焉
永遠の幕開け ■
「──が、本日陛下の予定となっております」
 毎朝の習慣で、その日の日程を告げられた若き少年王は、嫌な顔ひとつ見せることなく、その全てを受け入れたように微笑んでいる。その実何一つとして興味のない、それゆえに純粋で呆れ返るほどに柔らかい笑顔で頷いてみせる。
「陛下、竜姫を迎えに行くまでまだ間がありましょう。少々お話がございますが、お時間の程僅かばかり頂いても宜しいでしょうか?」
「セティー、ライかライウェンで良いよ。貴方に陛下だなんて呼ばれる程、僕は王に成りきれていないもの」
 子供の笑顔を浮かべて彼は言う。
 だが、知らない筈はない。意識していない訳がない。一度国民の前に踊り出たその神々しいまでの威厳を。
確かにこのあまりに美しいだけの笑顔で手を振るだけならば、他にも変わりは居るかもしれない。
しかし、それ以前にこの子には足りない物がある。それが生まれながらにして偉大な王と成り得るはずの器に蓋をし、誤解を招いている。
……どうすれば、生きてくれるだろう。
 綺麗で美しい、それだけの笑顔で自分を見つめている少年王を見つめながら、側近である男は常にそのことを考えていた。
このままでは本当にただ美しいだけの人形。生きている振りをし続ける死人。
何時からだろう。彼がこんな……。彼の母、竜王妃が亡くなってからか?
──否、彼の関心は、もとよりこの地に有り得ないのかもしれない。その身がどれ程この国に大きな影響を与えているのか、恐らく本人は知らない。知っていたとしても、関係などないと思っているはず。それ以前の問題。
 傷付くことも、その身を滅ぼすことも厭わない。無謀なまでに執着を忘れている。守るためではなく、ただ犠牲になるつもりもなく、そのくせ見返りを求めるでもなく、その身を盾にしてしまう、危険な性質。いつも、いかなる時も……。
 それゆえに恐ろしい。いつか来る破滅の時が。
「どうしたの? 何か付いている? 話しって?」
 突然の疑問符に、微かに上目遣いに見上げる、琥珀を思わせる金の瞳に見入られていたことを知る。
「──タルティーヌ様に、竜姫の叔父であるロリガン殿より縁談が申し込まれるとの情報がございまして、その旨お耳に、と思ったのですが」
 彼は自分の心配などけして見せる素振りもなく、ただ事実だけを事務的な口調で切り出した。
「妹が……? とは言っても同じ年だものね。少し早いけど、彼女が選ぶことだから。アタラクシアの叔父上なのでしょう? ならばそれ程心配はいらないんじゃない? 父上は、もうご存じなの? この話し」
 意外に、そう、もっと驚くかと少し期待していた。あれほど可愛がり愛した妹が、他の男へ、しかも目の届く場所から僅かに遠のくというのに、やはりどうでもいいことのうちのひとつに過ぎなかったのか。
「モレク前竜王はすでに承知しておいでです。頼りにもなるし、幸せにもしてくれるだろうとのご意見です」
 男はまったく表情を変えることなく、聞かれた対象についてのみを答える。
「そう。なら問題はないね。あの子は良い子だから、幸せになって欲しいから」
 笑みの中に微かに浮かんだ一瞬の沈黙に、男は内心で溜息をつく。
やはり彼は妹を愛している。だからこそ遠ざけるのか。自ら手を下さず、そうとは知られず、なんとこの子らしい。
「そう言えば、今日はジャスティスがいないね。 何時もセティーの側にいるのに」
 彼の心の内を知ってか知らずか、少年王は静かに話題を逸らし、それを彼も承知した。
「私の、ではなく陛下の。私達は貴方の、ライウェン竜王陛下の側近。ジャスティがことでしたら心配にも及びません。これから貴方がお持ちになるべく花を取りに出向いただけ、そろそろ……、ああ、噂をすれば」
 微かに近付くのこの規則的で破壊的な足音。大股に無遠慮なまでに大胆な歩き方。我が弟には一番相応しい。
「入るぞ」
 ノックのひとつもすれば良いものを、たかが一輪の花を抱えているだけで、花など関係なく、不機嫌に響く声。
「支度は整っている、その必要はない」
 扉を開きライウェンを外界に誘い出す。とは言ってもここは彼の部屋の延長線上に伸びたやはり静寂の支配する彼等のテリトリー。
「ほら、持っていけ。今朝の薔薇は特に綺麗に咲いた。アタラクシアにやる」
 ジャスティスの育てた薔薇は見事だった。たった一輪の薔薇に、その輝く美しさに目を奪われる。確かに今朝の薔薇は、それまでの薔薇とはまるで違うように瑞々しく潤っている。例えて言えば、鮮やかに吹き出す鮮血のそれ。美し過ぎるゆえに心騒ぐ不吉な色。
「ジャスティスから? きっと喜ぶよ。ありがとう」
 丁寧にその白魚のごとき指先を、優美な仕種を妨げることのないように、けして傷など付けぬように施された配慮は、アタラクシアの指を気遣ってか、それともライのそれなのか、棘の払われた薔薇でさえ、やはりライウェンよりも刺々しい。
「俺からやるならもっと豪勢に、抱えきれん程の薔薇を自分で届けるさ。これはライからアタにやるんだ。そのためにわざわざ手折って来たんだからな」
 無邪気に薔薇を手にして微笑む彼に、ジャスティスの冷たい視線がぶつかる。
「どちらでも、きっと彼女は喜んでくれるよ? でもジャスティスが言うなら、有り難くそうさせてもらう」
 大事そうに手を添えて、彼はゆっくりと、その微かに煌めきを放つマントを翻し、髪を自然に泳がせ歩き始める。月光の、まるで幻想の翼を紡ぐ生糸のような髪を。


 この日もいつもと変わりなく、日課としての謁見が滞りなく進む。
悩みを抱え、苦しみを抱え、時には生まれた子供に祝福を願いに、名を授けて貰うために、開かれた王宮の親しみある竜王が微笑むこの場所へ、それでも決められただけの人数が、扉の向こうよりこちらを今か今かとソワソワ臨む姿さえ、この国が平和であることを知らしめている。
 彼は司祭であり懺悔を聞く者であり、神の代弁者であり神そのもの。竜王に課せられた使命のひとつ。政に携わるばかりでなく、国民の声を聞く。小さな小競り合いのひとつも、竜王にもたらされれば大切な公務。人界への許可を求める者もしばしば。
「行っておいでなさい。そして見定めるが良いでしょう。彼、もしくは彼女が貴方を覚えていて必要としていたなら、そのまま残ることも咎めません。ただし、それは貴方にとってとても短い期間。人となってしまった者と、竜族との時は、大きく異なっているのです。
 しかるべき時が来れば、この国は何時でも貴方を迎え入れる用意はありますよ。貴方は、私と、この国の宝なのですからね」
 時折、やや頻繁に国民に向かって投げる言葉、この国の民は宝。しかし、宝と呼ばれるは竜王。竜王国のシンボルであり、美しい存在価値こそ、この国が誇れる最高の宝物。しかしその輝ける宝にとって、国の民こそが宝と言う。王としては素晴らしき言葉。
 だが、それは本心からか……? 何者をも寄せ付けまいとする仮面を被り、優しく振る舞うその偽りの愛の表現。
 そう、竜姫たるアタラクシアにさえ、他より特別な愛情を持っているのか。きっとタルティーヌと秤にかければ平等に揺らぐ程度。その彼が呼ぶ宝とは、どれ程宝としての価値を持つのだろう。
竜王と竜姫を挟んで並ぶ側近は、民とそれを聞く王の邪魔にならぬように、静かに佇みながらその日の予定がこなされるのを見守っていた。
許可を得、暖かな言葉に見送られ出て行く男と入れ違いに、次の謁見者が訪れる。
その日最後の謁見者。
 竜王の前に進み出た男の、小刻みに震えた体。ブツブツと何ごとかを呟き続ける不自然な様子。顔や体のすべてを一枚の布で覆い尽くした男の、ただならぬ雰囲気に、ジャスティスと目配せしあい、体制は整っていることを再度確認済み。
「どうしました? 言えぬことなら無理をする必要はありません。語るも語らぬも、貴方の自由です。ここでは何も貴方を束縛し、押さえ付ける事柄はないのです」
 俯いたまま震える男に、正面から降り注ぐ月の微笑。
 その瞬間だった。狂気に惑わされ、覆い隠されていたは顔や体ばかりでなく、殺意そのもの。男は突如脱兎のごとく、不意をついて跳躍し、銀の刃先を振り翳しライウェン目掛けて降り下ろす。
「ダナァーッ!!」
 この手に握られた剣に背中を裂かれ、男が叫んだのはライウェンの母親、故竜王妃の名。
 それでも狂気に取り付かれた男は少年王の胸に刃を突き立て、倒れ込む自分の体を重しがわりに深く突き刺し「ダナ」と叫ぶ。
「ライウェンッ!!」
 必死にその男を引き離し、後ろに投げ捨てると、同時にライの血に濡れた刃も体から刀身を現し床に乾いた音を立てて転げ落ちる。
「ジャスティ!」
 その一瞬、その男はもはや虫の息、逃げることも適わぬと知っていた。たとえ逃げたとしてもこの身に変えても八つ裂きにしてくれよう。
 ジャスティスとライの傷口を塞ぎ、なんとかその命を繋ぎ止めようと試みる最中、思い出したように響き渡る竜姫の悲鳴。
どこまでも響き渡る悲痛な叫びに振り向き、その終焉を聞いた瞬間の静けさに、ジャスティスの声が谺した。
「早まるなっ!!」
 しかし、時はすでにすべてを終わらせてしまっていた。


 私の腕の中で、竜王は息絶え、彼のその血にまみれた刃で、自らの命を貫いた金の乙女の、薔薇のごとき散る血潮。
 すでに命事切れたいまいましい男の死骸を見れば、ダナを、竜王妃を殺した男。
 死罪よりも重い終身刑に孤独な時を余儀無くされた男がなぜ今この時に……。
 しかし今は、恐れていた最後が、なぜこれ程まで早く訪れたのか。防げぬ筈のなかったあの瞬間を、ライウェンは自ら受け入れていたなどと、どうしてこの目が信じられよう。
 今や三人の血によって出来た血だまりに、ジャスティスと共に立ち尽くすのみ……。
「ジャスティス、ライを探しに降りる」
 屍さえも美しいこの竜王を、なにゆえこのまま見捨てられよう。
「俺も行く。兄さんの側は離れないよ」
 意思の強い瞳。せめてこの何分の一かでも、ライに生きる意思があれば……。
「好きにしろ」
 この命と引き替えに、銀の竜王の微笑む姿を見つめていた──……。
 

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