■第九章■
01 意馬心猿
 イェラミールはまるで驚いた様子もなく、彼が人に化身するのを見つめていた。
 もうこれで何度目の目撃だろうか、少年はぼんやりと自分をさらった竜、今は暗青色の髪を靡かせた端正な顔立ちの青年の姿に落ち着いた相手を見つめる。
 しかし、少年の新緑の瞳は、何も語らず、何も見ていないような霞みがかった半分濁った、生気のない色を浮かべていた。
「兄さん……、疲れただろ? ここらで少し休んで行こう。もうすぐだよ、誰も近付けない僕らだけの聖地は」
 ジャスティスは幸せの極地を歩いているような気分だった。他の誰にも束縛されない、自分だけのセティーを手にいれた。
 少年は簡単に暗示に掛かった。今あるのは、ジャスティスの邪な歪んだ愛情だけだった。
「まだ、だ。兄さんが元の兄さんに戻るまでには、もう少し時間がいる」
 彼は、彼以外に向けられることのない視線を感じ、微笑む。
 今、イェラミールの視界には、ジャスティスしか存在しない。その彼の精神世界においても、この青年が全て。
 ジャスティスがほんの少しでも少年の側を離れる素振りでも見せようものなら、たちまちその表情に不安が沸き立ち、その手を、その頬を優しく撫でてやれば愛らしい笑みに溢れる。
 そんな少年の反応がたまらなく嬉しかった。
 誰も邪魔できない絆を手に入れたように、彼の心は嬉しさに満たされる。相手が子供であることなどすっかり忘れているのではないかと思えるくらいに。
 暫くその子供をじっと見つめていた彼は、人の姿で暮らしていた時の経験があったため、難無く子供を連れた旅人と成り済まし、途中途中の村や町で買い揃えた荷物のことを思い出した。
「兄さん、おなかすいただろ? 今用意して上げるよ」
 そう言うと、近くに落ちている小枝を集め、器用に石で釜戸を拵え、火を起こした。
 そこに枝に刺した肉をあぶるように焼き始め、じわじわと焼けて来るのを確認しながら、パンをナイフで切り分ける。
 この二千もの年月を、なにもしないで過ごしたとは思えないほど手慣れた動作で、あるのは自然とその実りぐらいしかないこの山の奥で、彼はさっさと食事の支度を整えていく。
 これもすべてセティーの、自分だけのものになったセティーのためだと思えばこそだった。
 手早く用意を終えた彼は、少年を手招きし、向かい側に座らせると、用意したての食事を食べるように勧めた。
 彼の掛けた暗示の効力はなかなか絶大な物で、彼が命じない限り少年は空腹を感じないまま餓死もできただろう。
 そうして日々必要な栄養を人間で、しかも育ち盛りの少年は、欲するのではなく与えられる。不意に、竜姫の時もそうであったことを思い出す。
 人間に転生したアタラクシアに、どうやって自分を友として、思い込ませるか、自然な形で取り入るか、その方法と同じことを繰り返そうとしている。
 アタラクシアの時も、この方法で成功している。
 強く掛けた暗示を徐々に解いて確実な記憶、確実な思いに変えてしまう。彼には造作もないことだった。
 だから、この少年に対しても、けして失敗は有り得ない。必ず自分だけを必要とする人間に育つはずだ。ライウェンばかりを気に掛け、その瞳にライウェンばかりを映していた男。ライウェンの目が自分に向いたなら、あるいはもしかして。そう思ってアタラクシアを利用することを思い付いた。
 ライウェンより先に、リンダとして生まれたアタラクシアを見つけた時、竜姫を手に入れてしまえば竜王は必ず、セティーソワルより、ジャスティスにその目を向けるはずだった。ライウェンの目が、竜姫から逸らされれば、必ず以前のような関係は崩れたはずだ。
 それなのに、それまで影から見ていただけのセティーは、あと一歩のところで竜姫を奪った。暫くぶりに弟に会いにきたと平然と語った彼に、彼女はあっけなく信頼を置き、その計画の全てを狂わせた。
 ライウェンばかりを、ライウェンの大切にするものばかりを守っていた兄を、その全てを奪ってやるつもりだったのに、最期まで彼等を、彼等の大切なものを守って死んだ。
 そんなこと、認めたくなどない。どれ程認めない、認めてなるものかと、必死に思い続けただろう。
 兄を亡くした瞬間に、狂えてしまえばよかったと、どれほど望んだだろう。
 しかし、今となっては自分になんと都合の良いことか。
 イェラミールを見つけた瞬間、彼は正気に返った反面、それまで押さえていた憶いが爆発し、理性を失わせた。
 結局、狂っているままなのかもしれない。それでも良かった。何の不都合があると言うのだ。やっと巡ってきたこの機会を、みすみす逃して良いはずはない。
 彼は勝手に込み上げてくる笑いを堪えながら、味などどうせわからないで食事を続ける少年を見つめた。
 やがて少年の、ゆっくりした食事が終わったのを合図に、砂をかけて火を消し、彼等はまた空高く舞い上がる。
 ここから少し行った場所に、彼の目指す山がある。その山は断崖絶壁に四方を囲まれ、さらに途中に幾つもの亀裂が走り溶岩が煮え滾る。さらに山頂は標高が高いため、万年雪が積もり、人間を寄せ付けない絶好の場所でもある。
 当時、人間を装って彼等が暮らしていたのはその山の麓近く、人里から離れた小屋だった。そこなら滅多に人も訪れる心配もなく、適度に町も近かったため、彼等には快適な住まいと言えた。
 そして今度は、その山頂付近に彼は降りようと試みていた。
 人が住めなくもない環境があることを知っていた。
 ここへ来るまで、なんとかと言う山の山頂で、迂闊にも彼は竜の姿を目撃されてしまったのだ。それが人間の子供を連れているとなればさらに騒ぎが大きくなることは知っていた。だから急ぎ、多少の無理を承知で言わば懐かしい山へとやってこなければならなかった。彼は目の端に、当時暮らしていた家の残骸と思しき物が微かに残っているのを見ながら、山頂目掛け翔んだ。
 人間が住むには少しばかり劣悪な気温。それでも彼はひとつの洞窟を見つけて少年を中に誘った。
 中は幾らか暖かく、外には雪に埋もれた火口湖が広がっている。見晴らしは、一面の銀世界に加えうっすらとした雲が行き交う、それこそ夢のような世界だ。
 とりあえず少年が凍えないだけの火を用意する必要があった。
「兄さん、寒いだろうけど、少し待っていて。いますぐ暖かくしてあげる」
 そう言うとジャスティスはひとり竜に変身すると、少し山を下り溶岩石を拾った。
 竜の皮膚は、どんな極寒の地にあっても凍死することなく、またどんな猛火の中にいようとも焼けることはない。
 竜の皮膚を裂くことができるものは、やはり竜の牙と爪でしかないだろう。
 そんな彼の手に、巨大な溶岩石は、表面こそ黒く固まってはいたがまだ中の方が赤々と輝き、その高温なことを知らしめていた。
 彼はその燃える石を雪の中に落とした、途端に辺りの雪が音を立てて白い湯気となって消えた。辺りを湿気が襲う。何千、何万の時を雪という結晶で過ごしていたそれは、一瞬にして大気中の水分として四散して行く。
 モウモウと立ち込めていた湯気が、辺りを熱気に変え、息の詰まる湿気と暑さに、少年が倒れているのを見つけた。
「兄さんっ!!」
 おそらくここでは酸素が稀薄すぎ、気圧の変化に、高山病にかかってしまったとしか思えない。
 慌てて少年を抱き抱え、一気に山を降りることにした。
 当初の目的地としていた場所には、人間のしかも子供が住むには無理があり過ぎる。
 人間の不便さを呪いつつ、彼は山の中腹から子供を背負ったただの人間になりすまし、麓近くに崩れていたかつての住いを尋ねることにした。
 家は、跡形位は残していたが、この長い年月にすっかり風化し、崩れていた。
 それも彼には大して気にする理由にはならない。一旦少年を休ませる場所があればそれで充分事足りる。
 彼は残骸の中から使えそうな鍋や釜を見つけ、その中に近くを流れる小川の水を汲んで満たした。たゆたっていた水は、次第に静寂を取り戻し、この水面は鏡のように静止した。
 そこへジャスティスが手を翳すと、ひとつ二つ、波紋が内側から広がり、何かが視えた。
 彼はその幻に満足気に微笑むと、早速休むこともためらいうように、ぐったりとした少年を腕に抱えたまま、歩き始めた。
 ここから先、彼は人として歩くことを決めた。
 それは今、彼の腕に眠る少年のためを考えての結論だった。


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