■第八章■
01 神色自若
 ライウェンの中に、あるシーンが浮かび上がる。
 それは彼が生まれ育った町の、穏やかな景色。まだ、ぼんやりと、しかし初めて自分の中のライウェンに、気がつき始めた頃。
 今ほど純粋な銀の髪を持ち合わせていない純朴な少年。普通の家庭に育った彼は、なに不自由なく明るく優しい母と頼れる逞しい父との間で、日々の生活を営んでいた。昼間は外へ稼ぎに出て、夜はお針子や仕立て繕いの仕事に精を出す母親に代わり、幼い兄弟達の面倒を見る。
 それが彼の、当たり前の日常だった。
 そしてその日も、彼はいつものように町一番の金持ちの屋敷へ、馬の世話をするためにやってきていた。
 その馬小屋には、美事な赤毛の馬が二頭、立派なたてがみを振り乱し、外へ出せとばかりに嘶いている。この馬達こそ、彼が世話をするよう言い付かっている馬に他ならなかった。
 彼は手慣れた仕種で、二頭をおとなしくさせ、その体を藁葺きで丹念に擦り始める。
「今日はお館さまの遠乗りの日だからな、おもいっきり走ってくるんだぞ」
 馬に話しかけながら、その体を擦り、飼い葉桶一杯の干し草を運び、鼻先へあてがってやると、馬は一心不乱に頭を突っ込み食べ始めた。二頭の馬の状態が良好なのを知って、とりあえず彼は安堵の吐息をつく。
 そのうち馬を連れに誰かがやってくるまで、彼はだだ黙々とその日に課せられた日課をこなして行くだけだった。
 昨日もその前も、そして明日もその次の日も、きっと自分は毎日単調に、同じことを繰り返し生きていくのだと、漠然とだが理解していた。
 そういう運命なのだ、と疑いもしない日々。
 ただお館さまの遠乗りの日は、午前中で彼の仕事は終わる。その後の仕事は、すべて別の人間がすることになっている。だから、という訳でもないが、いつも以上に一生懸命馬小屋を綺麗に掃除し、その日のノルマをクリアしようと必死だった。
 馬を連れに来た者が、その時の状況を見て、その場でその日の仕事を上がらせてくれるのだ。
 彼はさっさと仕事を仕上げ、彼の一番好きな場所へ行きたかった。
 それは町を見下ろせる小高い丘の草原。その中にある一本の木の根本が、彼の指定席だ。そこから町を眺め、ぼんやりと過ごすのが大好きなのだ。
 そのために頑張ったお陰か、やっと馬を連れに来た人物が、その場で帰ることを許してくれた。
 喜び勇んだその足で、彼は例の木の根本へ走り、いつもの場所へいつものように足を抱えて座り込んだ。
 風が緩やかに通り過ぎて行く。この風がたまらなく気持ちいい。
 暖かな陽射し、心地好い木々のざわめき、彼はウトウトと眠りに誘われる。
 見る夢は決まって、豪華な宮殿に、愛らしい少女のような姫君が傍らで微笑み寄り添う姿。金の髪と金の瞳、その瞳は純真無垢な輝きを放ち自分を信頼し、頼り切った視線を向け微笑んでいる。
 彼女だけではない、あらゆる者達が尊敬と敬意の視線を向けられている自分。
 あまりに現実ばなれした夢。自分と、黄金の姫君の脇には、決まって同じ人物が立っていた。暗緑色の髪の青年と、暗青色の髪の青年。
 自分の知らない場所で知らない人間に囲まれている夢の、最後の場面は、決まって降り下ろされる銀色の閃光。
 そして……暗転。
「レーマン、大丈夫? ──レーマンってば」
 目を覚ました時、彼はガーネットの菫色の瞳に映る自分を見た。
 違う……。
 夢の中の彼は、月の滴を紡いで編んだような、綺麗な、きれいな銀色の美しい光りの糸のように、繊細で柔らかい髪を、いつも潤んだように微笑む、温和な金の光りを絶やすことのない、そう、あの黄金の姫君と同じ色の瞳……。
 しかし、彼自身は確かに銀の髪をしているにはしているが、純粋にあれほど美しいものではない。当然比べるにも値しない、その程度と称されるのが相応しい。
 決定的に違うのものは、その輝く美貌と、瞳の色。
 彼の瞳はグレー。あんなにしっとりと華やかな視線は生憎持ち合わせていなかった。もちろん、彼が知り得る中で、あれほど人を魅了してやまない人間など、見たことも想像したこともない。
 それ程に美しい夢の中の自分。そしてなにより傍らに微笑む、無邪気な愛らしい少女。
 彼女の名前すらわからないのに、彼女は所詮夢の中の少女だと言うのに、彼はその安らぎを知っているような気がした。
 以前、どこかで暮らした当たり前の日々を、知っていたはずの、当然の居心地の良さを、夢の中で彼は肌に感じる。
 しかし、全ては夢……。ただの真昼の幻。実現など望めない。わかっている。
 わかってはいるが……。
「随分うなされていたわ。どんな夢を見ていたって言うの? これでも私は古代魔法術の後継者なんだから、夢払いぐらいならできるわよ」
 ガーネットの菫色の瞳が心配そうに揺らめいた。
「夢払い……?」
 まだ幾らかぼんやりしたまま、彼女の手を借りて起き上がった。
「そうよ、悪い夢は体にも心にも良くないでしょ? だからそれを払うのよ」
 確かに体にも心にも、あの美しさを見続けるのは悪いような気がしたが、それでも彼は到底そんなことをしようなどとは思わなかった。払ってしまうには惜しい夢。金の瞳を見つめていたい。見知らぬ少女に抱く思いは、微かな恋い心だと言える。
「いいよ、別にそれ程悪い夢じゃない。ただ、あんまり綺麗な人だから、つい恐ろしくなる」
「綺麗すぎて恐ろしい? 変な夢ね」
 彼女は微笑み、彼の隣に腰を下ろした。
「ねぇレーマン、私もう十八よ? このままいたら、父に無理やり結婚させられそうなのよ。だからお願い、婚約だけでもいいわ。父に会って約束してくれないかしら」
 彼女は彼の隣で町を眺めながら夢見る瞳でそう言った。
 結婚……、婚約……。彼には考えたこともない言葉。
 事実彼は妻を持つには早すぎた。女性の場合ならともかく、彼はまだたったの十六だ。唐突に言われても、ピンとくるものがない。
 いや、あるにはあった。だがどうしてもその想像が夢の中の彼女へ向いてしまう事実は否めない。
 肌に残る少女の温もり。夢だけに止めておくにはあまりにも残酷な世界。
 彼は知っていた。自分が求めているのは少なくとも今、目の前にいるガーネットではないことを。
「レーマン?」
 黙ったまま遠くを見つめる彼の沈黙に、ガーネットが不安な瞳を向ける。
 彼はゆっくり立ち上がり、ガーネットを見下ろした。グレーの瞳がガーネットを映しだす。
「ガーネット、ごめん。僕は君と約束できないよ。どうしても確かめなきゃ、知りたいんだ。そのために、僕はやらなきゃならないことがある。だから君とはこれ以上いられない。ごめんね、ガーネット。僕のことは忘れて、幸せになってよ。さようなら」
 信じられない言葉を聞いたガーネットは瞳を大きく見開き、暫く首を横に微かに振るのが精一杯だった。
 そして彼は、そのまま彼女に背を向ける。
 なだらかな丘の向こうに消え掛かる姿に、ガーネットは自分を取り戻した。
「待って、レーマンッ!! 何を言っているの? 何を知りたいのよっ、ちゃんと説明してよ。 レーマン……、どうしてよ?」
 気持ちの良い風が吹き抜ける、穏やかな午後の丘。
「私は嫌よ、認めないから……」
 ガーネットの瞳から、大粒の涙が止めどなく溢れ、それを拭うこともせず、彼女は消えた少年の背中に呟いた。
 彼女に別れを宣言した彼は、その足で家に帰ると、大急ぎで旅支度を整え、外へ飛び出す。
「レーマン、どうしたそんなに急いで。それになんだ、どうしたんだ? その格好は」
 駆け出そうとした矢先、彼は父に呼び止められた。
「父さん……。父さん僕、突然だけど旅に出ます。父さん、男なら世界を知れって言っていたよね。だから僕、旅に出る」
 息子の気迫に、父は何も語らなかった。ただ、静かに頷いて、肩を叩いただけだった。
「父さん……」
 最後にもう一度、父の逞しい日に焼けた胸に抱き着いた。
「行ってきます」
 そう言うと、彼は強い意思の籠った瞳で父を見つめ、背を向けた。
「レーマン」
 その時、父が改めて名を呼んだ。彼は小さく振り向いた。
 そこには優しい父の笑顔に、寂しさと喜び、そして誇りが浮かんでいた。
「お前はレーマン・オピウムだ。それを忘れるな。後のことは心配いらない、俺がいるんだ。好きなことをしろ。……世界は、広い」
 それが最後の、父との会話だった。彼は一度大きく頷くと、そのまま走りだした。
 最後の、夢の中での最後のシーン、それを再現するために。最後の一幕、それは肩口に鋭い刃が振り落ちる。
 恐らく夢の中の自分はあのシーンで死んでいる。だとすれば、その傷を、その時の場面を再現すれば、あるいは記憶として蘇るものがあるかもしれない。
 彼はひたすら走った。人目を避けて、山の奥へ、奥へと……。


 馬車の揺れが治まり、ライウェンは再び目を開けた。あれほど美しいと思った瞳、信じられないほど繊細な髪の生糸のような輝き。
 彼は自分の髪の一房に触れてみた。確かな感触が指を伝わる。
 ここは竜王国、ライウェンの治める現実。レーマン・オピウムは過去の記憶。彼は今、竜王ライウェンその人なのだ。何も過去の自分に拘りのない、竜王国の治者。 


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