■第七章■
 01 一家眷族
 マル・ベートを離れて約一ヶ月、彼等はオルレーヌとの再開を約束された別れを迎えようとしていた。
 場所は街道を外れた人里離れた山の中。
 月も眠ってしまったような真夜中の暗い夜空を、感慨深く見上げる彼女の髪は、暗緑色に変わっていた。
 彼等から与えられた血を飲むことによって、人間であった精神より、眠っていた竜族が呼び覚まされ、その体を支配した証し。
 逆転生を行った者は、以前の色に帰る。たとえ黒髪黒目であったとしても、以前は輝く金の髪に碧い瞳であったなら、人間から竜族に生まれ変わった瞬間に、それは金髪碧眼へと変色する。
 そしてオルレーヌも例外なくその変化を遂げ、今まさに竜の姿へと戻ろうとしつつあった。
「これを、父と母に、お願いできますか?」
 一通の手紙を差し出したバールベリトは、変化を終えたオルレーヌに、ジャスティスの面影を探した。むろん無理なことは承知していたが、それは無意識の成せる技でもあった。
「ええ、渡しておくわ。それじゃ、待っているからね。あの子達のこと、お願いするわ。──色々ありがとう」
 短い言葉の後、彼女は空を見上げ、巨大な姿に変身する。
 艶やかな碧い竜へと。そして彼女は旋風を巻き起こし、木々を巻き込み飛び上がる。
 その姿は伸び伸びと、どこまでも続く夜空一杯に大きく羽ばたき消えていった。
 暫く彼等はその場に立ち尽くしていた。その先にある故郷を見つめて。


 その日の午後からの謁見は全面中止となった。その理由として、城外の至るところに張り出された報告書によれば、前竜王モレクの兄、アラストールの帰還のため、ということらしい。
 その頃、城の中は静まり返り、人払いまでされ、厳重に外部の者を締め出していた。
 今この部屋に揃っているのは、血族のみということになる。ライウェンのプライベートルームは、今や和やかな雰囲気から一変して険しく重苦しい空気に包まれていた。
 ただオロオロとライウェンにすがりつくだけのアタラクシアと、たまたま嫁ぎ先から遊びに来ていたライウェンの双子の妹。二人の動揺を宥める部屋の主は今か今かとモレクの来るのを待っている。
 そしてその思い空気の出所は、もちろんアラストールであるオルレーヌ自身。
 真っ直ぐ王宮の庭に下り立った彼女は、すぐさまその足で止める兵士を振り払い、ライウェンとアタラクシアの下へやってきた。
 それがつい二、三時間前の話だった。
 とにかく彼等はモレクに会わせろと言ったきり、一言も発しない彼女に手を焼いて、早急にもモレクを呼びに行かせたのだが、本人から少し待てという指示が出されたため、こうしてその部屋でただ黙って過ごしているだけだった。
 アラストールと言えば少々変わった人物で、正当な王位継承者であったにも関わらず、自分と年の変わらない弟モレクにその継承権の全てを譲ってしまったという人だった。その理由が、自分よりモレクの方が人々を包み込む柔らかな雰囲気と美しさを兼ね備えているためだ、と言うのだから確かに変わり者と言えなくもない。
 そんな理由から兄の変わりに王の務めを果たすはめになったモレクも、その側近であった兄アラストールの死後、すでに立派に国を治めるライウェンとアタラクシアに全てを任せ、完全に表舞台から消え去り、日々悠々自適な隠居生活を送っていた。
「……あの、私、もう一度呼びに参りましょうか?」
 とうとうその雰囲気に絶えきれなくなったアタラクシアが、震える声でそう告げた直後、軽く扉の開く音が聞こえた。
「その必要はありませんよ、アタラクシア」
 優しい声音は、もちろんモレクのものであった。
 オルレーヌと大差のない髪の色と瞳を持った柔らかな微笑みを浮かべる美青年。
 彼はのんびりと時間を掛けてオルレーヌの前に歩いてきた。
「おかえりなさい、兄上。ご帰還なさる日を心よりお待ち申し上げておりました」
 ソファーに姿勢を正して座るオルレーヌは、目の前に跪くモレクを見ようともしない。
 そのオルレーヌの白い手を取って、彼はそっとキスを贈る。
「あなたのいない日々は、一日たりともありませんでした」
 さすがに父と叔父の関係を知っていただけにライウェンはそのやり取りにはなんとも思わなかったが、ことの真相を知る由もないアタラクシアとライウェンの妹タルティーヌは、きょとんとしたままその様子を眺めている。
 今の心境はまさに最初の衝撃と言ってもいい。二人の人妻は、ライウェンにくっついて彼等の以前の関係を知ろうと努力している真っ最中だった。
「あなたならきっと、私が迎えに行かずとも戻っていらっしゃると思っていました。特に今回のチャンスは必ず逃すまいと、そう思っておりましたよ」
 それでもそっぽを向いたまま、けしてモレクを見ようとしないオルレーヌに、彼はなお甘くからかうような口調で囁きかける。
「ありがとうございます。再び私の下へ戻ってきてくれたあなたに、感謝します。今日のこの日を記念して、私はあなたにこれを贈りたいのですが、受け取っていただけますか?」
 その言葉にようやくオルレーヌが顔を向けると、モレクは嬉しそうに傍らに置いていた小箱を手に蓋を取って、中身を取り出し彼女に見せた。
 掌に乗せたそれは、今彼が身につけ、マントを止めるのに使っている物と同じ型の、髪飾りだった。
「これは……」
「覚えていてくれましたか?」
 そっと手にとった髪飾りを、オルレーヌが信じられないとばかりに見つめる。
 彼等が幼い頃、お互いの誕生日に贈り合った小さな置物のデザインそのままだった。
 ところが大きくなって、そのデザインをそのまま身に付ける止め金として作り直した物が、モレクのしているマントを止める物だったが、アラストールの分は、置物ごと彼の妻、アンジェリークの嫉妬の対象物となり、粉々に砕かれ捨てられてしまった。それ以来、アラストールはそのお揃いのデザインを持つことなく死んでしまった。
 それを今、ここに用意したモレクは満足気に微笑みながら、彼女の髪へ、そっとその髪飾りを止めた。
「これをブローチにするか、髪飾りにするべきか、最後まで迷っていましたが、あなたが女性として戻って来られたと聞き、少々時間をいただき、最後の仕上げをしていたという訳です。待たせてしまいましたね」
 遅れた理由がこの髪飾りだったと聞いて、オルレーヌの表情は一気に泣き崩れかけた。
「泣かなくてもいいんです。私はずっと、あなたを愛していた。あなたの愛の重みを知っていたのも私ひとり。私は信じていたんですよ。だからこうしてこの姿のまま、止まっていられたのです。あなたが私の生き甲斐だったのですからね」
 竜族の若さには限りがあって無いようなもの。その命を延ばすも縮めるも己の気持ち一つ。望みを失い、希望を持てなくなった者から順に老いて、ゆるゆると死に行く。しかし、望みを持ち希望に勇むなら、その若さをその寿命尽きるまでも持つ続けることが可能だった。だからこそ、彼は今も若々しい姿で現れた。
「なぜ、迎えに来なかったの? もしこのまま私が死んでも、再び転生を待つつもりでいたの?」
「それはあなたがいけないんだ。私を負いておとなしく殺されてしまったあなたに対するささやかな仕返し。もうすこし焦らせてから迎えに行こうと思っていた。けれど、その必要はないと判断したのは子供達が人界に降りたから。きっと利用すると思って」
 モレクもまた、苦しんだのだろう。けしてそんな顔は見せなかったが、その様子から簡単に予想がついた。
「もし、あなたが私以外を愛していたり、私を裏切ったなら、復讐してやろうと思っていた。でも、いいのね? 私達、今度こそ幸せになれるのね?」
 ゆっくりと確かに頷くモレクを見たオルレーヌは、嬉しそうに微笑んで、モレクの首に腕を回し、ゆっくりと抱きつき、そこにライウェン達がいることも関係なく、その唇に自分の唇を重ね合わせる。モレクもまた、彼女の求めに応じ、暫く熱い抱擁に身を任せていた。やがて名残惜しげに離れたオルレーヌが、一枚の封筒を取りだし、ライウェンに向き直った。
「これ、頼まれていたの」
 ライウェンは差出人のサインに息子の名が記されているのを確認すると、微笑んで礼を述べた。
 彼に封筒を渡した後、オルレーヌとモレクは連れ立って出ていった。残されたのはただただ当て付けられていたアタラクシアとタルティーヌ、そして苦笑混じりに彼等のやり取りを聞いていたライウェンだけとなった。
 そこで改めて彼は彼専用に作らせた椅子に深く腰掛けると、白い封筒の封を開いた。数枚の便箋に一杯の文字が書かれていた。
 ざっと目を通したライウェンは、アタラクシアを側に呼んだ。
「子供達からの手紙だよ」
「まぁ、ではやはりバールベリトの後を追ったのですね? あの子達ったら……」
 謁見の時、ジャスティスの旅立った夜、三頭の子供の竜が続いて飛ぶのを見たという数名の報告を受けた二人は、子供達は先に降りたバールベリトを頼って、降りたのだろうと予想していた。
「まったく困った子供達ですね。セティーはジャスティスにさらわれてしまったそうですよ。賢明に捜索中のようです。誰の転生体か不明ですが、取り敢えず人間の少女をひとり旅の同行者として迎えたとありますよ」
 手紙を見つめながらライウェンが微笑む。
 その様子を両脇からアタラクシアとタルティーヌが挟むように見上げて座っている。
「おや、アガレスは怪我をしたようですね。獣に襲われたと書いてありますよ」
「アガレスが? それでその怪我の具合はいかがなの? 傷は酷いのかしら……」
 アタラクシアの鼓動が激しくなった様子を、ライウェンは見てとった。
「いいえ、なんでも私の姉アクラシエルに逢って、怪我は完治したんだそうです。彼女は今、スーリールと言う名の医者だと言うことですから、良かったですね」
 その言葉を聞いて、アタラクシアはホッと息を付いた。アクラシエルなら、アガレスの母親でもあるのだから、けして悪いようにはしないだろう。
 そう彼女が胸を撫で下ろす様子を、微笑ましげに見つめていた彼も再び手紙に視線を戻した。
「他には? 他には何と?」
 手紙の内容を催促され、ライウェンはチラッと微笑みを向けるとざっとそれから先の内容を確認する。伝える必要のない部分を探していると言ってもよかった。
「そう……ですね、後はアラストール叔父上に出会った過程と、次に向かう目的地が記されています。ああ、最後に大事な一言がありました。『父上、母上、フォルネウスとアタールも無事旅を続けています。必ずジャスティス殿とセティーソワル殿を連れて戻ります。 その日を楽しみに……』だ、そうです」
 彼は便箋を畳み、再び封筒の中にしまうと、ゆっくりと立ち上がりそれを小引き出しにしまった。
「バールベリトが付いているのなら安心ですわね」
 にっこり微笑むアタラクシアも自らの目で手紙を確認する意思はないようだった。
 ライウェンが聞かせた内容が、手紙のすべてだと信じている。
「ああ、そうでしたわ。お兄さま、私すっかり忘れておりましたけど、後で謁見の間にリリーさまとケイエルさまがお見えになりたいと、言付けを頼まれていましたの」
 銀の髪に金の瞳、それはライウェンと瓜二つの少女が持つ色。双子の妹はのんびりと笑う。
「リリーとケイエルが? しかし謁見の間は閉めてしまいましたからねぇ。仕方ありません、こちらへ二人を呼びましょう」
 早速ライウェンは立ち上がり、部屋から出て言った。
 人払いしてあるお陰で、誰もいない城内はひっそりと静まり返って、温もりの一つも感じられなかった。その変わり一歩その静けさを踏み出した先の廊下には、ぐるっと兵士が隙間無く立ち並び、不審人物を見張る警備の目を必要以上に光らせていた。
 そこへ、二人の若者が、兵士相手に悪戦苦闘中なのを発見する。
 どちらも美しい容貌を持った男女だった。
 一人がリリー、もう一人がケイエルであることが、遠目でも確認できる。
「ですから今日はこの奥への出入りは堅く禁じられております」
「だから、何度言ったら分かるんだよ。あんたらも俺達が変な真似するわきゃないの知ってんだろ? もういいよ、今日は帰るから、とにかくここから出してくれ」
 弟のケイエルがもういい加減疲れた顔で兵士に懇願していた。
 竜王暗殺事件以来、どうも警備が過剰な気がするな、などと人ごとのような感想を抱きつつ、ライウェンが声をかけた。
「助かった。なんとかして下さいよ、この仕事魔達」
 ケイエルの言葉に、ライウェンはつい吹き出してしまう。
「そう言われてもね、彼等はこれが仕事なのだし、私やアタラクシアの命を守ってくれているわけだから、感謝こそしなければと思っているんですけれどね」
 そう呟いた彼はその場で人払いの命を解き、通常の体制に戻るよう指示を与える。
 その指示は瞬く間に浸透し、彼等はいつもの持ち場に素早く散って行く。
「さすがだね。恐れ入ります」
 その様子にケイエルが口笛を吹く。と、隣でおとなしくしていた姉のリリーがキッと弟を睨み付けその行為を戒めた。
 二人ともライウェンより年は下だった。だが、見た目はどう見ても彼等の方が年上の雰囲気を持っているから不思議だ。
「私の部屋で良いですね、アタラクシアとタルティーヌが待っていますから」
 にっこり笑うその笑顔は、とても竜王であることなど感じさせないほど、人懐っこく愛らしい。


「おお、なんと麗しく、可憐な花の如く愛らしい貴女方に出会えたこの日を、僕はけして忘れない」
 一言で言えば軽薄な性格のケイエルが、部屋に入って上げた第一声がそれだった。女と見れば褒めちぎり、とにかくモノにしようと口説きまくるのが彼の癖だった。
 その癖のために、一族でありながら町中で暮らすケイエルと、その行動を常に厳しく見張り、犠牲者を最小限に押さえようとするリリーもまた、町に暮らしていた。
 しかし今回ばかりは怪我の功名とでも言おうか、下手にジャスティスを刺激する二人の存在を、旨く遠ざけることができた結果となったのは確かだった。
 なにせ二人はセティーソワルの子供達なのだ。つまり形式上の彼の妻、モンタナとの間に生まれた子供達である。
「ケイエルったら、いつも冗談ばっかりなんですもの」
 楽しそうに笑い合う幼げな彼女達は、二人揃って人の妻、などと信じられない気もしたが、早速褒めちぎるケイエルと、和気藹々としたムードで話が弾み出しているのを、後から入ったリリーが肩を落としうなだれた。
「すいません。あの父の息子だなんて思えないでしょ」
 しかし、その呟きにライウェンは複雑な表情を見せた。
 リリーはそんな表情のライウェンに、当然だと思いながら申し訳なく思って頭を下げた。
「しかし、彼はいつも元気だね」
 感心したように呟くライウェンが、明らかに呆れているのだと勘違いしたリリーは、慌てて弟を止めようとした。が、ライウェンに止められた。
「良いじゃないですか、あんなに楽しそうで。ところでわざわざお見えになったのには、何か理由がおありですか?」
 滅多なことがないかぎり、彼等は王宮に足を運ばない。
 ジャスティスのこともあったが、それ以上に王宮は堅苦しくて生にあわないとの理由から、どんどん遠のいている。
「はあ、その実は……。たいした理由ではないのですが、少しばかり人界に降りたいかな、なんて思いまして、その……門を開けて頂けないかと……」
 リリーは申し訳なさそうに申し出た。
「いいですよ。いってらっしゃい。今は私の子供達も降りていますからね、もし出会うようなことがあればよろしく伝えて下さい」
 思わず拍子抜けするほど簡単に彼は微笑み、その時刻と日にちを設定し、すでに予定として組んでしまった。
「リリーが行くなら私も降りたいわ。一緒に連れていって下さらない?」
 それまでてっきりケイエルと盛り上がっているとばかり思っていたアタラクシアが、ひょっこりと顔を出した。
「私は構わないけど……」
 リリーはそれとなくライウェンを覗き見る。
「本当? ねぇライウェン、行ってもいいでしょう?」
 無邪気に微笑むアタラクシアの弾む声に、ライウェンは困った顔をしてみせた。
「それは、ちょっと困る……」
「あら、それはなぜ?」
 一喜一憂とはまさにこの時のアタラクシアのことを言うに違いない。途端に彼女は小首を傾げ、シュンとしてしまう。
 そんなアタラクシアの金の柔らかな髪に触れたライウェンは、そっとその髪にキスをする。
「それはね、私が困る。頃合を見て、私が一緒に降りるから、今回は我慢しておくれ。君が私の側から離れるなんて、私はとても絶えられない」
 彼は恐ろしく誘惑的な微笑の中に、寂しい苦悩の色を漂わせ、アタラクシアを抱き寄せた。
「ライウェン……。きっとよ、きっといつか連れて行ってね」
「約束するよ」
 黒砂糖の上に蜂蜜を掛け、さらにその上に糖蜜をあしらったような世界は、ここにいる誰もが知っている竜王と竜王妃の日常と言っても過言ではなかった。
 目も眩むような秀麗な夫妻に、国中から祝福と光輝な視線が集まるのはもはや当然といえる。
「さあ、そろそろタルティーヌを送らなければ」
「そうね、旦那さまが心配なさっているといけないわ。貴方と同じで、とても美しい方ですもの」
「君は誰よりも愛らしい」
 そう言って軽い口付けを交わすと、視線はタルティーヌに向けられた。
「タルティーヌを送ってくるよ」
「ええ、行ってらっしゃい。気をつけて」
 彼は妹を嫁ぎ先へ帰すのに、他人の手を煩わすことを嫌い、必ず、どんなに立て込んでいようとも彼専用の馬車で送ることが決まっていた。
 ライウェンには二人の姉と、双子の妹がいたが、彼は姉妹の中でも特にタルティーヌには優しく、どんな我がままも許してしまう程甘く、何時でも側で守るように暮らしていた。
 今もそのころの名残なのか、彼の妹に対する愛情は深いように思えた。
 もちろん誰にでも平等に優しく温和な彼が、一番愛しているのは彼の妻、アタラクシアであることを疑う者はいない。
「お兄さま……?」
 馬車の中で、隣でもたれかかっていたタルティーヌが、不意に黙り込んでいるライウェンの様子を気にかけ、そっと呼び掛けた。
「ん? どうしたね?」
 しかし、その反応は早く、いつものように穏やかな笑みが返された。
「なんだか今日のお兄さま、少し変ですわ。黙ってばかりいて」
 拗ねたような、甘えたような、それでいて寂しげに呟く彼女の肩を抱き寄せ、小さく笑った。
「なんでもないよ。心配することなど、なにもないのだからね」
 彼はとびきり上等の笑顔でタルティーヌを抱き寄せると、その銀の髪の上から柔らかなキスを額に贈った。
「ほら、お兄さまが黙ってばかりいらっしゃるから、屋敷についてしまいましたわ」
 それでもなお機嫌を直さない様子で、彼女は甘えた。
「それはすまなかったね、でもまたいつでも遊びにおいで。アタラクシアも貴女と逢えるのを楽しみにしている」
「ええ、私もお義理姉さまのこと大好きよ。今度レース編みを教えて貰うの」
 途端に顔を輝かせた彼女は、声を弾ませ興奮気味に言った。
「レース編み? そう、それは良かった。是非私にも編んで欲しいものだが」
 その笑顔にライウェンも微笑みを浮かべる。
「そうだ、アタラクシアにも頼んでおかなくては」
 慌てて彼は真剣な顔付きでそんなことを付け加える。
「まぁ、お兄さまったら」
 タルティーヌはおかしくてたまらないといった様子で、コロコロと笑い出した。
 そして馬車が止まる。


 妹を送ったその帰り、ひとり馬車の中で目を瞑り、バールベリトからの手紙を思い出していた。
 そこに書かれていた内容のひとつが、気掛かりなのだ。彼は誰にも広言していないが、逆転生を行ったその瞬間、失われていたもう一つの人格をはっきり思い出していた。
 ぼんやりとした己の中の記憶、ライウェンのすべてをはっきりさせるために、最後に受けた傷を真似、記憶に沿って同じ場所を切り付けたまでは良かったが、間抜けなことにその後の豪雨の為と、自分で付けた傷が思いのほか深く、人間であったころの記憶を雨と一緒に流してしまったわけでもないのだろうが、目覚めて見れば人間としての彼の記憶はすでになく、そこには立派に人格を持ったライウェンの意識だけが目覚めてしまっていた。
 しかし、その後直ぐに彼は自分が人間であった時、なにをしてどこで暮らしていたのか、何者であったのかまで、細部に至るまでをしっかり取り戻していた。
 そして、手紙に記されていたかつての恋人のことも……。
 これは予想外だった。まさか人間が肉体を滅ぼした後もその精神を物に宿らせ生きているなどと、そんなことができるなど、考えたこともなかった。
 それだけに彼は気掛かりなのだ。今となっては、その女性に、微塵の愛情のかけらさえ持っていない。それどころか彼女との関係は人間であるうちに終止符を打ったはずではなかったか。
 彼は今再び遠い記憶の糸を手繰っていた。


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