■第四章■
 01 愛別離苦
 地図を開いていたフォルネウスがくるりと振り向いた。
「この先に村があるよ。寄って休んでいく?」
 ソフィアの小屋を後にしてから半月が過ぎていた。その間アガレスが何度か発熱し、傷の具合も悪化しているように思えた。
 一時は直り掛けたと思った傷だったが、背中の爪痕より、肩口に食い込んだ牙の跡が深く肉を抉っていたため、そこから化膿し、赤く腫れてしまったのだ。
「そうだな、アガレスを休ませてやらなければならないからな。うまく行けば馬の一頭も譲ってもらえるかもしれないが、くれぐれも我らの正体を気付かれぬよう気をつけなければならない」
「もちろん良くわかっているわ。それより急いだ方が良いんじゃないかしら。アガレス、苦しそう……」
 後ろからアガレスの様子に気をつけていたアタールが心配そうに言った。
 バールベリトに背負われて、アガレスは熱くなった体をぐったりと任せていたが、その呼吸は浅く早い。また熱が上がったのだ。
「まずいな。この調子では本当に命が危ない……」
 一行はできるだけアガレスに負担が掛からぬように急いだ。


 その村はソフィアのいた村より僅かに大きく、生活も豊かなようだった。滅多に旅人も寄らぬだろうに、彼等は皆敬遠するどころか大変な歓迎で迎えてくれた。
 アガレスの怪我の理由を説明すると、村の者はこぞってひとつの小屋へ案内した。他の小屋に比べると、一回りほど大きい立派な建物だ。
 村で唯一の医者の家だと誰かが教えてくれた。早速中に入りその医者に向き合った一行は驚いた。
 それはまだ若く美しい女性だったのだ。てっきり唯一の医者などと聞くと、余命幾ばくもない老体か、不精髭でも生やしたいい加減皺の多い中年の男性だと思っていたからだ。
 彼女は群がる村人を診察の邪魔になるからと言って追い出すと、再び彼等をじっと見つめた。
「どうして貴方達、人界なんかをウロウロしているの」
 突然その女性は彼等の行動を咎めるような口調で強く言った。
「でもまぁ、暫く見ないうちに立派になったわね。それにこの怪我人は私の息子、アガレスよね。話は後よ、この子の手当てをしてしまわなければ」
 彼女はひとりで警戒する一行を余所に医者の顔付きを見せた。
 寝台に俯せにされたアガレスの傷口を消毒するなり、彼女は眉根を寄せて低く唸った。
「これは酷すぎだわ」
 殺菌されたガーゼで膿んでドロドロに腐った肉を拭い去っていく行為に、二人の少女はすぐに音を上げ、隣の部屋へ逃げるように入っていった。
 血と膿とで染まっていくガーゼの山を見つめながら、フォルネウス自身、血の気の引く音を聞いたような気がした。
 見ていて気持ちの良いものではけしてなかった。
「ほら、なにをぼやぼやしているのよ、フォルネウスはその棚から茶色の薬瓶をとってちょうだい。バールベリトはそこ、そこの戸棚に入っている包帯を取ってちょうだい。あ、あと熱冷しの青い瓶もついでに持って来ちゃって」
 だいぶ傷口が綺麗になりだした頃に、彼女ははっきりと彼等の名を呼び指図した。
 言われるがままに彼等はテキパキと行動し、やっとの思いで一段落した。
「いいわ、後はこの薬を飲ませれば終わり」
 そう言うとスプーンにトロトロした液体を流し、抱き起こしたアガレスの口元にあてがいそのまま流し込んだ。
 喉が微かに上下した。
「よーし。これで寝てれば熱は下がるでしょう」
 すべて飲んだと判断した彼女は満足そうに頷いて再びアガレスを俯せに寝かせた。
「あの……、貴女は……?」
 一息ついたところでフォルネウスがその正体について尋ねようとしたその時、彼女は手でその言葉を遮った。
「はい、焦らないで。休憩しましょうよ、ね? あっちの部屋でお茶でも飲みましょう。今朝隣の奥さんが持ってきてくれた美味しいお菓子もあるし、話しながらお茶飲もう。ほら、行った行った」
 やけに明るく馴々しく、彼女は二人を後押ししながら部屋を移った。
 その部屋には先に音を上げた二人の少女が心配そうに扉を凝視している姿があった。
「もう大丈夫よ。私はこれでも名医なんですからね。落ち着くと思うわよ」
 彼女は元気に笑いながらそう二人に告げ、自分は少し奥まった位置にある戸棚から焼き菓子の入った皿を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これは隣の奥さんご自慢の焼き菓子よ、たくさん召し上がれ。今お茶入れてくるわね。 三兄妹の好みは知っているんだけど、お嬢ちゃんはなにがお好み? なんでもあるわよ。ジュースでもお茶でも」
「あ、じゃあジュース下さい」
 呆然としながら彼等はその女性の行動と、言動のすべてを観察するように見つめた。
 ソフィアの注文を受けた彼女はそんな彼等の探る視線にも動じることなく軽い足取りで奥の入り口を潜って行った。
「あの人、アクラシエル伯母様なのかな」
「うん、私達のこと知っていたし、アガレスのこと息子って言ったもの」
 双子は顔を見合わせ小声で不思議そうに囁き合った。
「そうとしか考えられんだろう。しかしまさかこんな場所で伯母上に出会うとは思わなかったが、地獄で仏と言えなくもない。幸記憶の方もしっかりとしておられるらしいから、我らとしても気がねせずにアガレスを任せられるだろう。それになんと言ってもアガレス本人には一番の薬になりそうだ」
 双子は長兄の意見に大きく頷いて見せた。
「なに? 何の話し? って聞くまでもないわよね。どうせ私が本物のアクラシエルかどうか疑っているんでしょう?」
 口調とは裏腹に、彼女は屈託なく微笑んでそれぞれの前に入れたてのお茶を差し出した。
 双子には甘みの強い琥珀色のお茶を、バールベリトの前には濃厚な薫りのダークブラウンに揺れるほろ苦いお茶を、そしてソフィアの前には絞りたての鮮やかな果実のジュースを。そして自分の前には薄い紅茶色をした薫り高いお茶を置いて腰掛けた。
「まぁね、人間に転生しちゃったんだもの。貴方達とこうしてまた会えるなんて考えたこともなかったわ。この記憶だって、古き良き時代の、今となっては美しい思いでにしか過ぎないんだし。でもね、意外と竜族だった者が竜族以外の転生を遂げると、こうして私のように前世の記憶を宿している者が多いんですってよ。以前にひとりだけ会ったことがあったわ。波長があるのかしら、なんとなくああ、この人はって感じで直感的に分かるのよ。不思議よねぇ。これも名残なのかしら」
 クスクスと楽しそうに語りながら笑うかつての伯母を見つめているうちに、フォルネウスが何かを思い出しかけた。
「それで? なぜ貴方達こんな所にいるのかしら? 見たとこ、このお嬢ちゃんも、私と同類みたいだけど」
 頬杖をついて彼女はソフィアに笑いかける。なんとも人懐っこい笑顔につられてソフィアも意味もなく笑顔で返した。
 確かに彼等は、彼女がソフィアと同じ転生体であることは認めていたが、まさかこれだけ鮮明に記憶が残っていることに、多少なりとも驚きは隠せない。
「伯母上とお呼びしたらいいのでしょうか? それともこちらのお名前で?」
 バールベリトは警戒を解いていないことを悟らせるような、わざとらしいほどの堅い表情と他人行儀な言動をとってみせた。
「ふふっ、ほんと貴方はあの父親と正反対で慎重なのよね。あの御気楽トンボのフリした食えない男。我が弟ながら末恐ろしいとは思っていたけど、それなりに立派な竜王しているみたいね。現在わたしの名前はスーリールということになっているわ。伯母さんでも、スーリールでもなんでも良いわよ。中身は私なんだから」
 なにがそんなに楽しいのかと聞きたくなるほど彼女は明るく、なおかつ人を引き付ける魅力に溢れた微笑みを絶やさない。
「あ……」
 そんな彼女を見ていたフォルネウスが、何かを思い出したとでも言うように、小さく顔を上げた。
「どうしたの?」
 不思議そうにアタールが首を傾げた。
「うん、ちょっとね。思い出したことがあって……」 
 彼は何か気まずいことを思い出してしまったらしく、いつもより歯切れ悪く、ぎこちない笑顔で答えた。
「なにを思い出したんだ?」
 あまり突っ込まれたくなかったが、兄のその質問には答えないわけにもいかず、ましてやごまかすなどという気の利いた芸当ができるはずもなく、おずおずと彼はその内容を語り始めた。
「実は、その……」
 なにから話していいのか分からずに、とうとう彼等がなぜジャスティスを追ったのか、といういきさつに至るまでを、すべて順序立てて話し始めた。
 アタールとアガレスが北の塔に閉じ込められたこと、ジャスティスが兄のバールベリトを呼んだこと、そしてその時、父ライウェンが語ったことを。
「なるほど、セティーソワルさまがこちらに転生なさったのね。それなのに私のことは放って置くと、そうライウェンが言ったってことを気にしているのね?」
 フォルネウスは小さく頷いて答える。
「気にしなくて良いのよ。あの子にはね、あの子なりの考えがあるのよ。それに、転生した者を連れ戻すことはあまり良いことではないのよね。だいたい私は戻れと言われても戻る気はないし、今はとても幸せに暮らしているの。だから、ね。気に病むことではないのよ」
 その言葉を聞いている時、彼等はなんとなく彼女がなぜこんなに楽しそうに笑うのかが分かったような気がした。
 彼女が、アクラシエルが生きていたころ、いつも物静かに、遠い瞳にいっぱいの悲しみを宿し、その微笑みは今にも消え入りそうなほど儚く、絶望を抱いているような暗い微笑みしか浮かべていなかった。それなのに同一の魂を持っているはずのスーリールには、一かけらの暗さもない。しかし、その次の瞬間には、彼等が知っている伯母の表情を浮かべていた。
「あの人、まだお兄さまのこと忘れられないのね」
 彼女は深い溜め息とともに、肩を落とした。
「ごめんなさいね、私はあの人の側にいるのが辛くて、日に日に狂っていく夫を見ていられなくて、逃げたの。ジャスティスから、アガレスを捨てて逃げたのよ」
 視線を泳がせながら、彼女は昔を語り始めた。
 それは昔を懐かしむような、それでいて、苦く思い出したくない記憶を探るような、複雑な表情だった。
「……確かにあの人の言う通り、私はセティーソワルさまに憧れていたわ。でも、あの人にはどなたか熱愛していらっしゃる方がいると、本人の口から言われたの。最初は政略結婚だったわ。ライウェンの復活後はまだ彼もまともだったし、アガレスが生まれてからも幸せだった。その頃、私はジャスティスを愛している自分に気がついたの。誰でもないジャスティスをよ。けれど、あの人、私がずっとセティーソワルさまを愛しているんだと誤解していたわ。どんなに違うと言っても、聞き入れてはくれなかった。それどころか私を恋敵でも見るような目で見始めたの」
 そこまで一気に語った彼女は、喉を潤すために、冷めたお茶を一度に飲み干した。
 白く可愛いカップを持つ手が震えていた。全身も小刻みに震えているような気がした。
 再び彼女は重い唇を開く。
「それからの生活は苦しみだけしかなかったわ。貴方達も王族なら当然黙認しているでしょうけど、竜族は代々それぞれが男女の別なく、時には血を分けた兄弟でも、魅かれ合ったり思いを寄せたりするわ。見た目や地位に惑わされることなく人を愛するって行為は当たり前なことだけど、それでも同性では種族が絶えてしまうでしょう。だから形式上、別の誰かと結婚して子供を儲ける。それで表面上は睦まじい夫婦、家族を演じるものなの。たとえ自分の夫が、別の誰かを愛していても、お互いさまですもの、咎めたりしないわ。 心はいつも自由でいなければならないでしょう? 縛れるものではないものね。互いに誰を思っているのかなんて、詮索したり、問い詰めたりなんてこともしないの。だけど、私達の場合、夫婦揃って同じ人間に好意を寄せていたんですもの。それも適わぬ相手に。だから、私はジャスティスに再三言い続けたわ。セティーさまには強く思いを寄せている方がいらっしゃる、と。それに、もうその頃にはセティーさまは亡くなってしまっていたんですもの。どうすることもできないじゃない。けど、あの人、貴方達の両親を、責めもしなかったし恨んだりもしなかった。ただ、セティーさまのお姿が側に ないことだけを、苦しんだの。そしてだんだんあの人は私からも息子のアガレスからも離れていってしまった。 何時の頃か、ひとりきりで誰かに語りかけるように喋りだして、それが幻のセティーさまと会話をしているんだってことに気がついたの。その時悟ったわ。私は負けたんだって。 私がジャスティスを愛する気持ちよりも、ジャスティスがセティーソワルさまを愛する気持ちのほうが勝っている。私にはあれ程人を、自分以外を愛せる力はないって。だから、負けを覚悟した。その瞬間から、私は居場所を失ったのよ。もう逃げることしか考えなかった。アガレスのことは、私がいなくても立派に成長してくれるだろうと思った。だからあの日、私は私の胸をジャスティスのナイフで突いた。あれからどのくらいの月日が流れたのか、アガレスの成長ぶりを見て見当をつけたけど、ジャスティスがまだ執着していたなんてね。やっぱり私には無理だったわ。今は彼になんの特別な感情も持てない。でも、そうね。むくわれない愛に狂ってしまった、悲しくて幸せな人だと思うわ。羨ましい……なんてね」
 ふっと瞳を伏せた彼女は、再びひの睫を持ち上げたその時最高の微笑みを見せた。
 ひとしきり語ったスーリールの笑顔は、長年背負っていた重荷から解放された時のような、清々しくさっぱりとしたものだった。
 もう彼女には未練などないのだろう。そう感じながら、フォルネウスは彼女のすっきりした笑顔を見つめた。
「だから、お父さまは伯母さまのことは探しもしないって言ったんだね」
「そうね、ライウェンは昔から人の思っていることを敏感に感じとる子だったし、私もそれに甘えていたんだわ」
 彼女の長い話しを聞きながら、バールベリトはただひとつのことだけを考えていた。
 セティーソワルの熱愛した人物とは誰なのか。ジャスティスにあれ程思われていながら、一度もその思いに答えることのなかった男が愛して止まなかった相手。バールベリトの胸中は、けして外見ほど冷静では有り得なかった。
「そう言えばお嬢ちゃんのお名前まだ聞いてなかったわね。どんないきさつでこの子を連れているの?」
 ソフィアに笑いかけてから、好奇心で輝く瞳をバールベリトに向けた。
「この子はソフィア。セティー殿の転生体、イェラミールと言う少年と暮らしていた子なんです」
 バールベリトは穏やかな口調でいつこの少女と出会い、今に至るのかを手短に語って聞かせた。
「記憶はないの? 全然?」
 不思議そうに少女を見つめながら彼女は首を傾げた。
「ええ、まったく記憶はないんですが、とにかくイェラミールの肉親同様育っていますし、本人がどうしてもと望んだので」
 その場の雰囲気は一気に砕けたものになっていた。
 遥か過去に舞い戻ったような、不思議な感覚が彼等を包み、束の間の故郷をかいま見る。
「でも、そのうち思い出すこともあるんじゃないかしら。どっちにしても、彼女が逆転生を望むんなら近い血が必要ですもんね」
「ええ、そうなんです。でも今はまだ、イェラミールを探してこの子に合わせることの方が先決だと思っています」
 幼い少女はキョトンとしながらその会話のやりとりを見つめていた。くりくりとした瞳がぐるっと辺りを観察し、再び真剣にその会話に耳を傾ける。
「そうね、こっちが焦っても仕方無いものね。まぁ、とにかくアガレスはあのままでは動けないのだし、暫くこの家でゆっくりしていってよ」
「はい、助かります」
 彼は軽く頭を下げた後、双子の様子に気がついた。
「どうしたんだ? お前達」
 二人の浮かない顔に、バールベリトが覗き込む。
「私、大きくなんかならない」
 はっきりとした声で、思い詰めた発言をかましたのはアタールだった。
「──? どうして」 
 首を傾げる兄に、アタールは意思の強い瞳を向けて口をきっちり結んでいた。
「だって、僕アタール以外の誰かとなんか結婚したくない」
 これまた随分と悲痛な叫びでフォルネウスが訴える。
 その二人に向かって、バールベリトは呆れたような微笑を浮かべて見せた。
「そんな心配、まだ早い。今はまだ、誰もお前達の邪魔はしないし、無理に引き離すことだってないよ。そんなこと、その時になってから主張するなりなんなりすればいいことだ」
 二人の頭をポンポンと叩いて彼はおおらかに言って聞かせた。他人からはあの両親の子供とは思えないほど冷静沈着で、なおかつとっつきにくい、冷酷無比な男と見られる彼も、兄妹には無類の優しさを発揮する。
 だからこそ、彼等はバールベリトを信頼し頼っているのだが。そして今回もまた、彼等はその兄の言葉に素直に頷く。
「あら、もうこんな時刻なのね。ソフィアちゃん、アタール、お夕飯の支度、手伝ってくれるかしら?」
 ポンッと手を打ってスーリールが立ち上がった。それに合わせて二人の少女も立ち上がる。
「それじゃ、こっちに来て。悪いけどアガレスの様子を見てきてくれる?」
 二人を手招きし奥へ招いた後、戸口から顔だけ出したスーリールが残った二人にそう告げた。
「ええ、もちろんです」
 バールベリトもその腰を上げ、フォルネウスがその後に着いて診察室のベッドに横たわるアガレスの側へ歩み寄った。
 彼は俯せのまま、すっかり熟睡している。
「良かったね、アクラシエル伯母さまと逢えて」
 その痛々しい姿を見つめながらフォルネウスが呟いた。
 バールベリトは何も答えず、眠っている少年をじっと見下ろしていた。
「ねぇ、これからはアガレスにも優しくしてあげてよ」
 そう言うフォルネウスの頭をくしゃっと撫で付け、彼は何かを目論んでいるとしか思えない、魅惑的な微笑を浮かべる。しかし、その微笑が何を意味しているのか、フォルネウスには計り知れないものがあった。こんなとき、彼は兄と父とが親子であることを痛感せずにはいられない。
 誰が何と言おうと、兄と父は正真正銘親子に間違いない。
 兄の微笑は、時折見せる父ライウェンの、あのぞっと凍えるような美しい笑みとよく似ている。
「よく寝ている。起こさぬようにな」
 そう言って静かに二人は部屋を後にした。


 アガレスの傷は、想像以上に完治するまでに時間を必要とし、彼等は暫くの間その村で暮らしていたが、ようやくこの日、出発できるまでになっていた。
「それじゃあ気をつけて。何かあったら私を尋ねてちょうだい。できるかぎりのことはさせていただくわ」
 彼女の意思で、意識を取り戻したアガレスに、母親であったアクラシエルの転生体であることは黙っていた。息子を捨てた手前、どんな顔をして接していいのか、彼女自身随分と悩んだようだったが、それでも彼等は世話をかけたその女性の意見を尊重し、誰ひとりとしてアガレスに仄めかす者もない。
「お世話になりました。僕、死んだお母さまを思い出しました。ありがとうございました」
 深々と頭を下げた彼は、にっこりと微笑んで、元気な姿で歩き始めた。
 一行の先頭を行く彼は、二度と振り返らない。
 やはり親子、アガレスはそれとなく彼女が母親であることを知っていたのであろうか。
 それとも本当にただ、亡き母の面影を追っただけなのか、それは彼等にはわからない。そしてその真実を追及するものもこの中には存在しない。
 一行は再び街道を真っ直ぐ北へ向こう。
 どこまでも続く道を。


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