■02 掌中之珠■
「愚か者」
 彼等を前に、バールベリトは一言、低く戒めの言葉を投げた。
 彼等親子の中で、最も暗な色を持って生まれた長兄は、ライウェンの父、つまりジャスティスやセティーソワルの父と兄弟であった前竜王に似たらしい。
 今も城の奥で静かにその余生を送っているモレク前竜王とその兄であり、随分前に亡くなったアラストール。セティーソワルの容貌は、父のアラストールによく似ていた。さらに、そのアラストールも前竜王モレクと、よく似た兄弟だった。そして今、その面影を強く残しているのはバールベリトだ。
 しっとりと艶を放つ黒い、どことなく緑にも輝いて見える彼の髪は、真っ直ぐに背中を覆い、流れていた。意思の強い、確かな輝きを放つ瞳もまた、暗緑色に染まっている。
 弟達を見つめる視線は、厳しくそして、諦めをも宿していた。
「ジャスティス殿が言った通りだったな」
 溜め息混じりに吐いた言葉に、兄がすでにおじと会ったことを知った。
「おじ上が親切にもここで途方に暮れているだろうと忠告してくれなければ、どうなっていたか。今更帰れる宛てもなかろうに」
 その言葉に、彼等はうなだれた頭を一気に向上させた。
「おじさまが、僕等のことを?」
 フォルネウスが不思議そうに首を傾げた。そんなことをわざわざ知らせてくれるとは思えなかったのだ。
「私に言ったのではない。私がセティーソワル様の魂を持った人間にようやく行き着いた時には、もうおじ上のいらした後だったのをこの娘が全てを見ていた。ジャスティス殿はこの娘に言伝したのだ」
 言いながら彼は方向を変えた。自分の後ろに立つ、まだ十かそこらの少女を振り返るために。
 どこか不機嫌な口調の兄の背中と、すっかり眼中から外れていた人間を見比べる。
 長い栗毛色の髪が、毛先だけクリクリと丸まった少女の瞳は、零れ落ちそうなほど大きく、おどおどと宙を泳いでいたが、かわいらしいおとなしそうな子供だった。
「ソフィアだ。ソフィア・ピィスティス。この娘の名前だ」
 ぶっきらぼうに彼は今までのいきさつを語り始めた。
「私が行き着いた時にはこの娘と、僅かな人間がいるだけだった」
 そこは湖のほとりにひっそりと根付いた小さな村だった。あまり外との交流もない村の大きな収入源は、もちろん湖で捕れる魚だ。彼等の生活はすべて湖を中心に営まれていると言っても過言ではなかった。
 漁をしながら、わずかばかりの田畑を耕し、家畜を育てる。平和で退屈な、平凡すぎる村。しかしそれは一瞬にして打ち砕かれた。
 午前中の仕事を落ち着かせ、村人の誰もがのどかな日和に家族や仲間同志、和やかに昼食を取ろうとしている矢先にそれは起こった。突然のことだった。
 一頭の竜が、村に襲いかかったのだ。逃げ惑うしかできない彼等を尻目に、竜は狙いを定め、子供達が遊んでいた村の広場を見下ろした。恐怖に竦んだ子供達は、悲鳴のひとつも上げることなく立ち尽くしている。その中でただひとり、他の子供達を庇うように両手をいっぱいに広げた少年を見つめた。
 竜の巨体は、その羽ばたきで家を潰し、船を沈め、村はすでに悲惨な状況にあった。
 風圧に吹き飛ばされた者もいた。運悪く踏み殺された者もいる。だが少年は必死に皆を逃がそうとしている。
 子供の名を呼ぶ親達の叫び声、麻痺した恐怖に火がつき、突如泣き叫ぶ子供達。そんな中、子供達をなんとか助けたい一心で、大人達の必死な攻防が始まった。手に手にもりやら槍やら鍬やら、とにかく目に着く限り、武器になりそうな物を掴み、竜目掛けて降り下ろす。
 ところが何度突き刺そうとも、叩き付けようとも、その鱗ひとつ傷付けることはできなかった。やがて何をされても少年から目を放さなかった竜が、たかる蠅を払うかのように、突然尻尾を二度、三度と大きく振った。ただそれだけだ。ただそれだけに村の半数以上の命が断たれてしまった。
 そして次の瞬間、鋭い爪を生やした竜の前足は、固まった子供達を犠牲にしながら、ただひとり、その少年だけを傷付かぬように握ったのだ。もがく少年を落とさぬように、だが優しく柔らかく握って、けして少年を潰すことがないよう竜は力を加減していた。
 それからゆっくりと後ろ足で立ち上がると、翼をバタンバタンと大きく動かし、再び村を破壊し、貴い命を奪いながら歩き始める。高台まで登ると、そこに村から外れた小屋があるのを見て取った。
 そしてその扉の前に、少年と年の頃を同じくした少女が、ポツンと立っている姿見付けた。手の中の少年はすでに意識を失っている。
 少女は竜を、そしてその手に握られた少年を凝視していた。そこからは破壊された村が一望できた。
 少女は一歩、後ろへ退いた。
 彼女の目の前で、竜が人の姿へと変わったのだ。
「暫くすればここにひとりの男が訪れる。その男に伝えて頂こう。兄さんは見つけた。子供達は東にある死の砂漠で迷子になっている、と。頼みましたよ……」
 男は意味深長な微笑みを残すと、再び竜に成り代わり、北の空へと飛んで行った。
 少女はハタと、正気に返る。
 今し方までの放心状態ともいえる硬直した体の呪縛から解き放たれ、一気に村まで駆け降りた。
 そこで少女の目にしたものは、あまりにも無残な、瓦礫と化した村の残骸と、すでに息絶えた知人や友人達。
 僅かに残った無傷の者や、軽い怪我ですんだ者達さえ、未だ放心状態から脱していない。
 少女は暫く鈍感な精神状態で村の跡を彷徨った。そして見つけてしまった。
 彼女が立っていたあの高台に面した崖の、剥き出しに切り立った岩肌に、強く打ち付けらた老人の死体があるのを。
 そうとうな力で叩き付けられたのだろう、その首は折れ、口頭部から背骨に掛けて骨は砕け、肉は裂けていた。
「……じーちゃん?」
 老人は、少女の育ての親だった。正確には少女と、あの竜が連れ去った少年の親代わりだった。
 少女が老体に触れると、たちまちその態勢は崩れ、地面に奇妙な形でつっぷした。
 背中が、頭が割れていた。
 血が、真っ赤な鮮血が、岩肌をずっている。
「……じーちゃん?」
 もう一度少女は老人に呼び掛ける。体を揺さぶり、起こそうと必死だった。
「じーちゃん、じーちゃん、じーちゃーんっ」
 何時の間にか少女の目から涙が零れていた。
 認めたくないのに少女は老人の死を知ったのだ。
 しゃくり上げた泣き声は、やがて大きな声に変わり、その泣き声に、僅かに生き残った人達が自分を取り戻すきっかけを見つけた。村は、もう駄目だった。
 彼等は亡くなった者達を埋葬し、荷物を拾い集め、村を後にすることを選んだ。
 もちろん少女も連れて行くつもりでいた。ところが少女は、老人と暮らしていた小屋に残ると言い張ってきかなかった。
 これから生きていくのに何の宛もない彼等は、どうせ身寄りのない娘を、無理やりにも連れていくと言い出す者はなかった。
 誰もが不安だったのだ。自分ひとりでもどう生活していけばいいのか分からない。なのにこんな小さな子供の面倒まで、とても見てはいられない。
 ほんの数時間前までは、彼女も我が子も、分け隔てなく接していたはずの村人とは、もはや別人だった。
 子供を無くしてしまった親たちも、その身代わりに少女を引きとるなどとは考えなかった。
 怪我の重い、重傷でとても長い移動に絶えられそうも無い者も、少なからずいることだし、彼等は二組に別れ移動することに決めた。近隣の村まで歩いて五日近く掛かる。元気な者が先に村を出発し、隣の村で助けを頼む。
 そして歩けない者を乗せる荷台を出してもらおうと、話はすぐに決まった。
 グスグスしていたら、いつまた竜が襲ってこないとも限らない。怪我人と、何人かの人間が看病のために、彼女の小屋で暮らすことになった。
 それから二日ばかり経った頃、バールベリトがその村に訪れた。その時初めて弟達が無断で降りてきたことを知った。
 ジャスティスの言葉に従い、死の砂漠に彼等を見つけた最初の言葉が、愚か者だった。
 まさにそれは的を射った言葉と言えただろう。かつて両親が人間として暮らしていた場所を、転生体とはいえ、あれ程ジャスティスが執着しているセティーソワルという人物を、彼等は見てみたいと思っただけなのだ。
 それがまさか、こんな殺伐とした広いだけの砂の世界に下ろされ、置き去りにされるなどと思ってもみなかった。
 ジャスティスに着いてくるのがやっとだった彼等は、帰る道も、ましてや進む道もわからず、今ここにわざわざ探し出してくれたバールベリトという存在がなかったなら、今頃どうしていたか、想像もしたくない。
 それを思うと彼等は皆一様に、安堵の息を漏らさずにはいられない。
 改めて頭を下げたい気持ちを押さえながら、目の前に立つ少女、人間の子供を見つめた。
 見た目はどこも彼等と変わりがないように思えた。人間の子供も竜族の子供も、同じように小さく弱いのだろう。だが、彼等は子供子供と言ってはいるが、ソフィアと比べれば、とんでもない年月を生きていることになる。
 フォルネウスもアタールも、優に千は軽く越している。さらにアガレスなどは双子に比べて僅かに大人びて見えるだけなのが、年数にして四百年程の違いがある。
 最も、人間と竜の寿命など、比べるような者もいないが。
 人間界において彼等竜族の寿命について、万年とも永遠とも言われているのは確かだ。 どちらにしても竜とは、死を知らない生き物だと誤解を受けるだけの長い年月を生き長らえるのは、致し方ない事実として変えることはできないのだから仕方がない。
 成長の度合いに掛かる年数が、人間と竜族では根本からして違うのだろうが、それにしても僅かに十年を生きたか生きないかの少女と、千年の長きを生きている彼等の違いが差ほどもないことに、なんとも奇妙な感覚を覚える。
 ぼんやりと少女を見つめる彼等を余所に、バールベリトはソフィアに向かってあらかたの紹介と説明を済ましてしまったていた。
「ともかく、一刻も早くジャスティス殿の居所を探さなければなるまい? セティーソワル殿の新たな肉体は、あの方の手元に渡ったのだ。安全は保証されるだろうが、父や母の意向とは掛け離れる」
 両親の意向と聞いて、アタールとアガレスが囚われていたあの時の、小屋で聞いたライウェンの言葉が蘇る。
 再びセティーソワル、ジャスティスの二人と共に……。
 フォルネウスはバールベリトの艶やかな髪が風にそよぐ姿を見ていた。あと千百年もすれば、きっとアガレスも彼のような立派な青年になるのだろう。そう思いながら視線をアガレスに向けた。彼は、緊張と尊敬と、崇拝の色さえ浮かべて、少し潤んだ瞳でバールベリトを見つめていた。
 いつもバールベリトを見るアガレスが緊張していることは知っていた。恐らく見られているバールベリトも、アガレスのそんな態度を知っているのだろうと思う。
 しかし、彼が熱く見つめれば見つめただけ、バールベリトは一瞬の空きも与えない。それでも僅かの時を惜しむように、アガレスは見つめ続ける。
 だがフォルネウスは知っていた。兄のバールベリトが、アガレスのそれと同じ視線を、ジャスティスに向けていることがあることを。
 もちろんアガレスのようにどこでも、という訳ではない。人目を憚り、遠くからその姿を見つめている時に、彼は辛そうにその姿を捕らえている。偶然に知ってしまったが、誰に言うつもりもなかった。フォルネウスにとって大事なことは、ただ側にアタールがいることだ。
 アタールを感じ、アタールを守る。その瞳を見つめ、その白い髪の一筋を撫で、彼女の安らかな笑顔がありさえすれば、何も欲しくはないし、それ以上は望まない。彼の確信する彼女への思いと、彼女からの思いだけがすべてであり、幸福であると信じている。
 揺るぎない思いが、彼を支えている。だからこそ、彼は何も恐れない。愛しいアタールの不安そうな、それでいて確かな存在に安心しきった手の強さを感じながら、フォルネウスはソフィアの中に悲しみを見て取った。
 目の前に立つ少女、ソフィアと言う幼い少女は、その瞳に彼等に対する恐怖と信頼を同居させるほかに、大切な者を失った拭い去ることのできない絶望感を抱えている。そんなふうに見えたのだ。
「兄上?」
 フォルネウスは兄を見上げた。 彼を見下ろす瞳は、続く言葉を促すように輝いている。
「ソフィアとセティーおじ様って関係あるの?」
 率直な、素直な疑問。最初に彼女を乗せている姿を見た時から気になっていた。なぜ人間を連れてくる必要があるのか。なんの関係があるというのか。
 さっきの話しで、彼女はお爺さんを亡くしたと言った。彼女と一緒に育った少年がさらわれたとも言った。だが、兄妹ではない。それなのになぜ……。
 彼の質問に、バールベリトは軽い溜め息をついたように思えた。口を開くのさえ億劫だとでも言いたげな様子で、ソフィアとフォルネウス、そしてアタールを交互に見つめる。
 そしてようやく肩を落とし、話し始めた。
「さらわれた少年の名は、イェラミール・レミエル。ソフィアと共に老人のもとで暮らしていた。このイェラミールがセティー殿の転生された姿なのだが、私が見るかぎり、このソフィアもまた竜族の生まれ変わりであろうと思われる。が、誰の転生体であるかまではわからない。それを知っているのはおそらくイェラミールだろう。まぁそれはそれとして、ソフィアを連れてきた理由とすれば、本人の意思と、私の配慮とでも言っておこうか。ソフィアとイェラミールは、そう、フォルネウスとアタールのような存在だったと言っても良い。互いを認め合った仲なのだろうとな」
 ソフィアが自分達と同じ竜族であったと聞いて、何となく親近感を持ったフォルネウスとアタールは、顔を見合わせ、バールベリトの言葉に答えるような、無邪気で愛らしい微笑みを交わし合った。


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