■第二章■
 01 暗中模索
 人里離れた大地。広陵とした砂漠が、見渡す限り延々と続いている。
 気の遠くなるような地平を黙々と歩いていた。
 もちろん彼等の他に人影はない。凍える気温、容赦なく吹き付け、止むことのない風。全てを凍らせてしまえるのではないかとさえ思う気温は、その体から体温を奪い、この冷える大気の中で、人は死と直面する。
 故にここは、死のを意味する場所。いかなる理由、いかなる勇気を持ってしても、誰もが足を踏み入れることを拒む死の砂漠。
 自らの命に自らの審判を下し、しかしその手で己が首を括れぬ愚かな者達が彷徨う例外はある物の、偶然命あるものに出くわす確立など皆無に等しい。
 そんな死の大地を、彼らはひたすら歩いていた。


「いつまでそうしている?」
突然、なんの前触れもなしにジャスティスはその歩みを止めた。
同時に距離を保ち彼の後を追っていた彼等の足も止まった。
「いつまでそうしている気だと聞いているんだ」
 再びジャスティスの声が飛ぶ。それでも子供達は答える様子を見せない。
 怯えているのか、凍えているのか、とうとうジャスティスは振り向き、彼等の側へ歩み寄った。
「フォルネウス、なぜだ? なぜ俺の後を追った?」
名指しで呼ばれた少年は、ビクビクと怯えた瞳をそっと上げる。おじの深く濃い蒼色の瞳に見つめられ、子供達は唇を噛み締める。
 きっと追い返されてしまう。足手纏いなだけの彼等を、彼が認める訳などなかった。
「アガレス、おまえは答えられるな?」
三人の中では最年長である少年は、突然一歩退き、強く唇を噛み締めた。
 ジャスティスの妻で、ライウェンの姉であるアクラシエルによく似た少年は、それでも僅かに父の面影を宿した瞳をしていた。
「僕たち」
 少年の声には、観念したかのような、弾けるような勢いがあった。
「僕たち、お父さまのお兄さま、セティーおじさまがどんな人なのか、竜王陛下や竜王妃さまが暮らしていたという人界がどんな所なのか、知りたかった。だけど言えば反対されると思ったから、だから黙って着いて、きました……」
「黙って? だがライウェンは知っているだろうな。お前達が俺の後について門を潜ったことをあいつは見ていたぞ? 止めることもせずにな」
 ジャスティスの顔に残忍な微笑が浮かぶ。
「迎えも捜索も出す気はないだろう。お前達は勝手にバールベリトと合流すればいい。俺はお前等とお手々繋いでって気はさらさらないからな」
 ニヤリと冷たい笑みを見せたかと思うと、彼は踵を返し先程とは比べものにならないほどのスピードで歩き出した。
 走っているのではない。無理をしているわけでもないのに、彼は普通に、なんの抵抗も感じさせず、ただ歩いているのだ。なのに早い。
 身に纏った分厚い生地のマントだけが風を孕み、バサバサと突風に煽られている。
「お、お父さまぁっ」
「ジャスティスおじさまっ」
「おじさま……」
 三人は後を追いかけて走った。しかし距離は離れるばかりで、一向に縮まらない。それどころか彼は地平線の影に消えてしまった。
 彼等は力なくその場に佇み、途方に暮れる。ただひたすらジャスティスの消えた大地を眺め、彼等は成す術もなく、立ち尽くす。
「私達、どうなるの?」
 どれくらいの時が過ぎたろう。東の空がうっすらと白み始めたころ、白い、白すぎて透けてしまいそうな少女が、不安な震える声で、双子の兄であるフォルネウスのマントを引っ張った。
「僕たちだけじゃ国への帰り道が分からない」
 アガレスもまた、肩を落とし、視線を落とした。
「バールベリトお兄さまを探すんだ。帰り道も分からない、このままどうしていいのか分からない。だったら進むしか、ないじゃない。僕ら、人界に来たんだもの。お兄さまに逢って、セティーおじさまを探そうよ。だって僕ら、そのために来たんでしょう?」
努めて明るく、元気に彼は二人の不安そうな顔をみつめ返した。
「どうやって探すのさ。僕ら、ここが何処かもバールベリトさまがどこにいるのかも知らないのに」
アガレスが彼等の不安と恐怖の神髄をずばりと言い放つ。
 途端にアタールの、色素の薄い赤ぽっい金の瞳から涙がポロポロと零れ落ちた。それを見たフォルネウスが慌てて少女の、陶器のような手を取って抱き寄せた。
「アタール、泣かないで。大丈夫だよ。僕たちがなんとかするから、ね? アガレスそうだよね?」
 アタールは色こそ抜けたように真っ白だったが、フォルネウスとは瓜二つだった。
 昔からこの二人の仲が良いことを城の誰もが、そして国中の者達でさえもが知っていた。
 アガレスはそんな双子をずっと見ていた。彼等より少し早く生まれた彼は、漠然と立ち入れない壁が二人と自分の間にあることを理解していたかもしれない。
 それでも今ここで互いを支え合うように抱き合う兄妹を、彼は羨ましいと思いながらも、愛しいと感じていた。本当の兄弟ではないが、彼等と共に過ごす時間が多くなればなるほど、自分は彼等の兄でありたいと強く願う。
「大丈夫、きっと平気だよ。きっとなんとかなるよ」
 気安め程度にしかならないと知りつつも、アガレスは精一杯の笑顔で頷いた。
 やがて彼等はのろのろと重い足取りで砂の上を歩きだす。方向などわかるはずもない。位置など、とうてい知ることさえできない。だが、進むしかないのだ。
 今彼等に用意されている道は前方へ伸びる幾多の道。それでも彼等は信じる。きっと彼等が望む場所へと通じる道だと。


すっかり日は昇り、太陽が眩しく照り付ける。しかし気温は大して変わらなかった。やはり人の影さえない。途中何度か砂に埋まる白い人骨に遭遇したが、なんの感情も沸かなかった。
本能で悟っていたのだろう。けして彼等がこの死の静寂しかない砂漠に、倒れることがないことを。人間がどれ程寒がろうと、竜族である彼等にはさほど感じるほどのものではない。飲まず食わずで移動を続けても、不眠不休で歩き続けても、彼等の体から命の日が消えるまでには随分と時間がかかるだろう。
 幸にも子供たちは皆、完全な健康体でもあった。体力の続く内にはこの砂漠から出ることは可能だろうと思われた。今日一日歩いて、それでも無駄なら空を行こう。夜の空を飛んで人の住む所の近くへ降りよう。
アガレスの提案に彼等は素直に従った。もう丸二日歩いていた。この日でちょうど三日目を数える。いつ人間と会うとも知れない。その思いから、こうして彼等は歩いて砂漠を渡り切ろうとしていた。
「人の世界で、我らは恐怖の対象となってしまう。だからこそ本当の姿をさらしてはいけない」
 フォルネウスが前に父から聞かされた言葉を、ぼんやりと思い出した。
「私達の体は大きく、鋭い牙や爪を持ち、堅い鱗に覆われている、ただその外見だけで、彼等は恐れ、殺意を抱くものなのよ」
 父の言葉の後に、すかさず母親もそんなことを言っていた。だから、だからこんな人目のないところへ降りたのだ。
 砂ばかりを見つめながら、なぜおじがこんな場所に下り立ったのかをようやく理解した。けして彼等を途方に暮れさせる気などなかったのだ。彼自身が言ったように、子供たちとは行動を共にしたくなかっただけなのだろう。彼が関心を寄せる対象は、ただひとつしかないではないか。
 あの時のジャスティスには、子供達への関心など、恐らく微塵もなかったに違いない。だとしたらもうすでに、彼はセティーソワルの魂の居所を掴んでいたのかもしれなかった。
 フォルネウスはアタールの手を強く握ったまま黙々と歩いた。砂が足元に絡みつき、慣れない大地に幾度も転びかける少女を庇い、安全に歩けるように、全身全霊をかけて最善の注意を払う。
「アタール、平気? 辛くない? 少し休む?」
 何度も同じ言葉を掛けながら、一生懸命彼女を励まし、そして優しく見つめる。
「平気よ。フォルネウスがいてくれるもの」
 にっこりと微笑む少女には疲れの色は見えない。
 けして彼等は無理なペースで歩いている訳ではない。もちろんジャスティスが見せたあのスピードで歩くことはできないが、人間では考えられないほどの早さであることは確かだった。
 アタールの象牙色の髪が風に踊る。フォルネウスの髪が、アタールの髪に絡むように流れる。
 アガレスのマントに風が潜り、滑り出て行く。忙しなく続く動作に、どれ程の抵抗があるのか、彼等はまったく優雅とも言える姿勢を崩さず、夕暮れに向かう砂漠を進む。ただ黙々と歩く彼等が、その異変に気付いたのは、夕日に空が赤く染まり始めた頃だった。
 西に沈む赤い夕日の中に、黒い影を見つけた。次第に大きく、輪郭をはっきりさせたそれは、一頭の巨大な竜。
──大きな、黒く濡れたように輝く竜の姿。
 間違うはずはなかった。
「バールベリトさまっ!?」
 誰よりも早く、驚きと羨望の悲鳴に近い声を上げたのは、アガレスだった。
 一斉に彼等は空を見上げる。
 彼等は近付く竜の背に、豆粒より小さな何かがしがみついているのを見た。もちろん彼等はその正体を正確に捕らえていた。だからこそ、彼等は黙ってそれを見ていたのかもしれない。
アタールが不安そうにフォルネウスの手を引いた。アガレスの表情は堅く強調って見える。
妹の手を強く握り返したフォルネウスは、その光景を凝視して止まない。 何故? 一斉に彼等は恐らく同じ疑問を持ったに違いない。刻々と彼等に近付くバールベリトの背に必死にしがみついている存在。それは、紛れもなく人間の少女だった。
人間の少女、アタールやフォルネウスより幼い子供が、目を堅く閉ざし、鱗に掴まっている姿は、彼等にとって予想に反する光景だった。


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