■第一章 01■
起死回生
 瞳の大きな少年は、長い廊下を一目散に駆け抜けた。
 目指すは彼の両親が座る、玉座の間。王と王妃の御座所。
 少年は少年の兄を探し、朝から城中を駆け回り、その居所を探していたのだが、何処にもその姿を見出せす、焦りを感じていた。
 もう他に探す場所がない。少年は日が暮れる頃になり、ようやく最後の、そして唯一の頼みの綱まで辿り着く。
 朝から同じ答えばかり聞かされ、広い城内で孤独を感じ始めた矢先、彼はまだ両親に兄の居場所を尋ねていないことに気がついた。
 のんびりしている場合ではなかった。とにかく全力で走る。急がなくては、他に探す場所も尋ねる者もこの城には残っていない。
 すでにこの時間ならば謁見の間より引いている筈の両親。
 少年は廊下の突き当たりに閉まる巨大な扉目掛け走って行く。
 彼のバタバタと走る足音に、扉は中から少年を抱き留める手のように大きく開かれ、走り込んで来る体制に備えられた。
 目指す部屋の中に居た扉の守りを固める守兵たちの機転によるもだ。彼らは日夜耳の神経を尖らせ、その足音と歩幅により相手を適格に判断し、それに応じた対応をしなければならない。そして、彼等は少年に対してまさに適格な判断を下した。
 その途端、待ってましたと言わんばかりの勢いで、少年は真っ赤な絨毯を踏み締めた。
二人の前に転がるような勢いで走りこんだにもかかわらず、少年はピタリと姿勢正しく立ち止まった。
それから優雅に、礼儀正しく挨拶をすると、強い輝きでもって両親の顔を見つめる。
「フォルネウス、そんなに急いで、どうしたのですか?」
 彼の母親が、静かな微笑みでその行為に戒めと慈愛を向ける。
「申し訳ありませんでした。急いでいたものですから」
 少年は見た目よりもしっかりとした丁寧な口調で深々と頭を下げた。
「そう。何を急いでいらしたのか存じませんが、以後このような見苦しい、不作法な真似はお止めなさいね。くれぐれも、気を付けるのですよ、良いですね? 王子」
 その春の陽射しに咲いた花の如く、柔らかな笑みを絶やすことなく、彼女は息子の、自分と良く似た淡く、光の加減によっては赤くも金色にも輝く髪を眺める。
 息子である少年は、母の視線に答えられず、じっと俯いて小さな声で「はい」とだけ返した。
 その様子を見つめていた若く凛々しい王が、小さな声をたてて笑った。
「アタラクシア、そう責めなくても彼は彼なりに反省しているよ。それよりフォルネウス、急ぎの用とやらを聞かせて貰おう。怒られていては急いだ意味もなくなってしまうよ」
 父親の優しい声に、少年は顔を輝かせ、体ごと父に向き直る。
「まぁ陛下ったら。私、怒ってなどおりません。ちょっと注意しただけですのに……」
竜王同様若く美しい姿を保った竜姫の、少し拗ねた表情は、とても三人の子供の母親であるなどと言う雰囲気を感じさせない。それどころか愛くるしい幼さの残る少女そのものだった。
「分かっているよ。だから君も、息子が何の用事か早く聞きたいのだろう? それとも君は、聞きたくなどないのかな」
 竜王の優しい微笑みを見つめながら、彼女は再び日だまりに咲く花のような微笑みを浮かべた。
「意地悪ですのね。早く聞きたいに決まっているではありませんか」
「と言う訳だ、フォルネウス話してごらん」
 二人が息子を見下ろした。
 その瞳は我が子へ注ぐ限り無い愛情で満たされた、幸福の風景そのものだった。
「はい」
彼は元気良く頷いたのはいいが、いざ話し出そうとした途端、その勢いが衰えた。
「実は……、そのぉ……。ジャスティスおじ様が……」
 フォルネウスはそこで歯切れ悪く一旦言葉を区切った。
 そして躊いがちにどんどん俯いてい行く。
「ジャスティスがどうしたと?」
 若干竜王の表情が曇り、竜姫は強張った。
「おじさま、アクラシエル伯母さまとセティーおじさまが、二人でどこかへ逃げたって言い出したのです。自分の目から二人が見えない所へ隠れたって。アガレスがセティーおじさまとアクラシエル伯母さまの子供だって言って、アガレスとアタールを北の塔に閉じ込めてしまったのです。二人を出したいならバールベリトお兄さまを連れて来いって。父さまと母さまでは本当のことを言わないから、お兄さまでなければ駄目だって言っていたのに、お兄さまが朝からどこにもいらっしゃらない。僕、もうどうして良いかわからない。 お兄さまはどこへ行ってしまったの? アガレスとアタールはどうなってしまうの?」
 フォルネウスは必死に訴え、その大きな、両親譲りの金色の瞳一杯に涙を浮かべ、それでもそれを零さぬように我慢している。
「竜王陛下、ジャスティスが」
アタラクシアは優しく息子を抱き寄せながら、隣で深刻な表情を浮かべるライウェンを見つめる。
母親の差し延べる手に縋った途端、ポロポロと積っていた不安と張り詰めた緊張が、一気に涙となって零れ落ちた。アタラクシアがその髪を優しく撫でる。
 ライウェンのその姿を見つめる瞳は、同時に別の何かを見ているように、どこか虚ろな陰りを漂わせていた。
 その刹那、彼は微かに頷いたかに見えた。
「私が行こう」
 静かに立ち上がったその姿は、二千有余年前、碧い竜によって再びこの大地に立ち、彼を待ち望んでいた民衆の前に姿を現したその瞬間から、わずかに成長した分だけ磨きのかかった秀麗な美貌を誇る、美しい青年。
 あの頃より落ち着きと、王としての威厳を纏ったその姿に、彼等の復活と、この国の栄えを望み、自らの命を犠牲にした男は、何と言うのであろう。
 そしてその最愛の兄を失ってしまった結果に、だんだんと正気を歪ませてしまったジャスティス。
かつての側近で、ライウェンを蘇らせたセティーソワル。彼の死は、時を刻むごとに悲しみを薄れさせた。やがて新たな肉体を持って生まれてくるだろうことを、誰もが期待し、信じていた。彼等はその男の復活を待つことで、この悲しみから解き放たれた。 
しかし、ジャスティスだけは時間を狂わせてしまった。
 月日が過ぎ行く程に、彼の思いは重く伸し掛かり、時の流れは彼の悲しみを苦しみにすり替ええ、やがては逃れられない深みに、彼を突き落とした。
 時の流れが、彼を狂わせてしまった。
 それ程までに彼は兄を慕い、愛していた。
 立ち上がったライウェンは、ゆっくりと視界を動かし、彼の息子と、妻の姿を捕らえる。
「フォルネウス、着いて来るか?」
 母の膝にすがりついて泣きじゃくっていた少年は、拳でごしごしと涙を拭った。
 そして強く頷くと、父の、その髪と同じ、銀の光沢を放つマントの後ろへ立った。
「陛下……」
 アタラクシアの不安そうな声が彼等を見送った。


 北の塔は、彼等の先代の王達が眠る王族の墓にあたる。
その塔の脇に、小さな小屋がある。見張りの兵士の休息を取る小さな休憩と安息の場として使われている簡素な小屋。
その中で彼等は向き合った。
 あの頃と少しも変わらぬジャスティスと、すっかり青年の落ち着きを身に着けたライウェン。
「これはこれは竜王陛下、こんなむさ苦しい場所に、何の御用でしょうか?」
 すっかり荒んでしまったジャスティスは、見た目こそ当時のままだが、中身はまるで別人のようだった。
「バールベリトはセティーソワルを探し、人界に向かった。アクラシエルはアガレスを産んで間もなく死んだ。しかし、セティーは探しもするが、アクラシエルに関しては、人間に転生したならそっとしておきたいと思っている。そもそも転生した後の人間に再び竜族に戻らせるのは至難の技。そう何人も迎えることはできないのだから」
ライウェンはジャスティスの、狂気さえ浮かべる瞳を捕らえたまま、正面から真実のみを語った。
「嘘を言うな。アクラシエルが死んだだと? 昨日は兄さんもアクラシエルも居たぞ。今朝目が覚めたら二人が消えていた。大方夜のうちに逃げたんだろうよ。アクラシエルが兄さんを唆したに決まっている。でなけりゃ兄さんがどこかへ行くはずないんだからな。陛下はアクラシエルの弟じゃないか。どうしたって姉の味方をするんだろう? 手を貸していたっておかしくないよなぁ。だいたいアクラシエルは昔から兄を慕っていた。それを知っていて俺はアクラシエルと結婚したんだからな。俺を憎んでたんだ。だから陛下が手を貸して、二人を逃がした。本当のことなど、言えるはずないじゃないか、その口で」
 フォルネウスは震えながら、父の後ろにくっついていた。
 おじが怖くて堪らなかった。おじは本気でそう思っている。いつも居もしないセティーソワルと楽しそうに会話を弾ませていた姿を思い出す。
フォルネウスの知らない、ジャスティスの兄。そして、彼等の両親をこの地に再び蘇らせた男。いったいどんな人なのか、恐怖の中にも好奇心の芽が重たい殻を被ったままその頭を擡げ始めた。
「セティーソワル、私の親愛なる従兄弟殿の魂は、先日かつて我らが生活した人界にて確認された。貴方の兄は、今人界にて人として暮らしおられる。私や、私の妻を助けたばかりに失った命を、新たな肉体に宿し、蘇っている。私は再び彼と、そして貴方と共にこの国を守りたい。その為にバールベリトを迎えに遣わした。ジャスティスよ、貴方なら誰よりも早くセティーソワルの魂を探し出せるだろう。そしてその時、貴方は逃げていた真実のうち、幾つかをも見つけられるはずだ。……隠された真実さえも。私が述べているこの真実を疑うならば、貴方本人が探せば良い。すでに降りたバールベリトと合流して、彼に手を貸してやってはどうだ?」
 ライウェンはじっと狂気の瞳を見つめ、その瞬間を見つめていた。
「……セティーソワルを見つけてほしい。貴方は知っている筈なのに、我らよりも先に彼の魂が転生を終えたことを知り得ることができる筈なのに、何時までも自分の作り出した幻に執着していてはいけない。今夜、人界への門を貴方の為に開いておきます。行くも行かぬも貴方の意思にお任せしましょう。ですからどうか、罪のない子供達を解放してほしい。彼等は何も知り得ない者達なのだから」
ライウェンは眉一つ動かさず、黄金色に輝く瞳で、じっとジャスティスの心の奥底に隠れている正気の部分に向かって語り掛けた。
「陛下においてはいつもいつもご立派な意見だけを述べられる。確かに子供達は何も知りはしない。だからと言って、我が兄を愚弄して良いはずがない」
 咄嗟にフォルネウスは血の気が引くような思いに、父のマントすらその手から放してしまった。
「愚弄……? 子供達がセティーソワルを愚弄したと?」
 初めてライウェンの表情に異変が表れた。
 疑うように、拒むように眉を寄せた父親の姿を見上げたフォルネウスが、二三歩後ろに退いた。
 彼は怯えた瞳で、それでも必死になって父とおじの間に割って入り、早口に喋り始める。
「そ、そんなつもりじゃなかったのですっ! おじさま、いつも二人分のお茶を入れたり、誰もいない壁に向かって喋っていたりしていたから、だからつい……。ご、ごめんなさいっ、僕たちほんとにそんなつもりじゃなかったんです、だから、だから二人を出してよ。……ジャスティスおじさま」
 狂気に燃える瞳を余所に、ライウェンが息子と同じ視線になるように、床に片膝を着いた。
「フォルネウス、君達は彼と、彼の見ていたセティーに、何と言ったのだ?」
 少年は暫く黙って、何度も唾を飲み込んだ。
「……おじさまのお兄さまには、おじさまを見る目も、おじさまと語る口も言葉もないって……」
 消え入りそうな程小さな声で、しかしはっきりと、少年は自らの軽はずみな言動を呪うかのように強く唇を噛み締める。
「フォルネウス、これからは後悔などするような言葉を口にしてはいけない。言葉とは常に恐ろしい物だと心得なさい。一度その口から出てしまったなら、二度と、消えることはない。たとえ自分が忘れようとも、それを聞いてしまった相手は忘れずにいることもある。
 時として言葉ほど鋭利な刃物は他にはないと、そう心して考え、言葉を紡ぐ、それは最低のマナーであると、きっと君の母上もおっしゃるだろうからね」
 己の発した言葉が、相手にどれだけの痛手を負わせてしまったのか、少年は後悔と自分への羞恥で顔を上げることすらできない。
 しかし、ライウェンは最後の言葉には笑みを乗せ、彼の肩に優しく手を掛けた。
 それは息子に対する彼の優しさ、愛情の全てだった。
「ごめんなさい……」
 フォルネウスはもう一度、父が示した優しさに答えるように、ジャスティスに向かって頭を深く下げた。
「この通り、子供も反省したと見える。今後このような考えなしの行動は慎むだろう。今一度だけ、彼等を許してやってはくれまいか?」
その時、彼は、ライウェンは知っていたのかもしれない。息子に合わせていた視線を、ゆっくりと本来の彼の位置へ戻しながら、その金の瞳は笑っていた。
「鍵ならその引き出しだ」
 もはや子供達にも、ライウェンにも興味を失ったという表情で、ジャスティスは一言残しただけで小屋を背に歩き出していた。
 もとより子供達をどうするかなどは考えていなかったのだろう。彼は彼の中で起きた現実を、素直に生きているだけなのだ。
彼の見ていた幻影が消えた。その理由は、彼自身には分からなくても、ライウェンには分かっていた。恐らく彼と、彼が抱く兄への思いの深さを知り得る者なら誰でも、その理由は明白であったことだろう。セティーソワルの魂が宿る肉体の現れが、彼から幻を奪った。彼の正気が現実を悟らせるために無意識に働いただけのこと。
 去り行くジャスティスの背中になんとも魅惑的な、それでいて冷酷なまなざしが、美麗なる微笑が向けられている。
 フォルネウスがただひとり、その冷たい微笑を見上げていた。
 その表情は、彼の知り得る中で最も恐ろしく、そして最も美しい竜王の姿だった。
ところが次の瞬間、フォルネウスに戻されたライウェンの表情には、乾いた陰りは消え、いつもの優しく柔和な、誰の心も潤わすであろう美しい笑顔に戻っていた。
「鍵を持って、彼等を解放して上げなさい」
「──は、はいっ」
 あっけに取られていたかのような少年は、突然我に返ったように、小さな体をピンと伸ばし、父の言葉に従うべく踵を返す。
 鍵はすぐに見付かった。部屋の中央に置かれた小さな机の一番上の引き出しに、それは無造作に投げ込まれていた。
 フォルネウスが鍵を手にしたことを確認すると、ライウェンは銀のマントを大きく翻し、その場から歩き始めた。
「まっ……」
 待って、と言おうとしてフォルネウスは口を閉ざした。
やや考え、手に握った鍵を見つめると突然彼は走りだした。唐突に鍵と、その鍵を使わなければならない理由を思い出したとでも言うように。
だがしかし、確かに彼は一瞬の間、あれ程一日中心を占領して止まなかった問題を忘れていた。その瞬間だけ、彼は別のことを考えていた。


 鍵はすんなりと開いた。
 中からはなんと、この扉を警護している筈の兵士が二人、子供達を庇うように開いた扉を睨んでいた。
「僕だよ、皆大丈夫?」
 少年がぬっと顔を出すと、一斉に安堵の吐息が漏れた。
「フォルネウスさまでございましたか、この度の我らの失態、どうお詫びしてよいか……」
 子供達を外に連れ出した後、兵士達二人は跪き、うなだれた。
 兵士達もジャスティスの突然の行為には、どう対処してよいか分からず、言われるままに鍵を渡し子供達共々塔の中へ閉じ込められてしまったのだ。
 兵士達は結局王族を守ることが最大条件なのだ。その王族の者に対し、意見は愚か逆らう動作の微塵も見せてはいけない。
 もちろん彼等はそのような行動など、想像すらしないであろうが。それ程までに彼等は王と、その一族に完全なる忠誠と信頼を寄せている。
 それがたとえジャスティスであったにしてもだ。
「お父さまがジャスティスおじさまにお話をつけて下さったんだ。貴方達にも、お咎めはないと思うよ。お父さまはなにもおっしゃらなかったから」
 その彼の言葉通り、今後一切この出来事に触れる者はなかった。


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