◇ 聖夜の三月
 -SEIYANOMITUTUKI- ◇

 広大な広がりに『無』だけが唯一絶対であった頃。
 『無』の中に、無その物としての意思が誕生する。
 無の結晶とも呼べる意思は、やがて姿を持ち、成長を続けた。
 やがてその意思は最初に「光りあれ」と声を上げられた。
 無から生まれた最初の有である声は、同時に一条の光の筋と、その光によって照らされる闇を作り出した。
 つまり『無』こそ、闇と光の原始の姿であり、最後の姿でもある。それ故闇と光は相反する鏡のように、相手を映して成長する対の存在であり、けして啀み合う仲ではない。
 世界の始まりが闇と光から生まれたことを忘れてはいけない。
「……と、この本には書いてあるのだよ。いつか貴女がこの本を一人で読めるようになった時、貴女は私のことを忘れてしまうのでしょうか。仕方のないことだとは分かっていても、やはり私としては悲しいことです……。今の、この瞬間だけは、私だけが知る小さなプリンセスの素顔なのですね」
 少女の黒髪にそっと口づける。
 愛しい小さな小さな無垢なる子供。悲しいと思う私の気持ちさえ知らないままで、育って行くのだろうか。
 膝の上に座った少女の、小さな体が大きく向きを変えた。不思議そうにくるくる回る黒い瞳で私を見上げる。何よりも純粋で眩しい闇のきらめき。この瞳に、私は情けないほど寂しげな自分を見た。それでもこの子には、それがどう言うことなのか、わからないでいて欲しい。
 無理に微笑み、その小さな頭を撫で下ろし、少女の座る向きを戻してやると、残された時間が胸に込み上げてくる。
 ──もう、少し。もうあと僅か。
 この膝に、この温もりを感じることが出来るのは、ほんの僅かな刻。
「貴女の長い生の中で、私はいつしか消えて無くなる。貴女の中の『無』に、飲み込まれてしまうでしょう。星見たちが予言した子供。宿命の星に生まれた、たった一人の貴女。月の守護を受けた御子。貴女に、この小さな貴女なのに、どうして信じられるというのだろうか。私達の世界と、対の世界の、ほとんどの運命、闇の行く末が掛かっているなどと。貴女の教育者として選ばれた私だけれど、未だに信じられない。それ程大きな運命を、この小さな愛らしい少女が担っているなんて。こんな僅かな時間で、貴女は何を学ぶのでしょう。私は何を貴女に教えればよいのでしょうか。時間が私には短すぎます。この瞬間に何を求めるのでしょう、貴女の進むべき道は……」
 今、膝の上で不思議そうに私を見上げているこの瞳。例え私の言葉が理解されなくても、構いはしない。今は、なにもわからずにいてくれれば良い。その瞳に私を映してさえいてくれるなら。やがてはただ一人の存在のみを映して輝く、その黒い闇の静けさに。
「お部屋が冷えてまいりましてよ。そろそろお支度の準備をさせて下さいましね。今宵は聖夜。三つの月がきらめく素敵な夜。お城で素晴らしい宴がございますわ」
 手に手に色とりどりの宝飾品、美しいドレス。そして綺麗な靴を持ち、この至福の時間にピリオドを打つ。女神のように優しい彼女たちの声は、囀りに似て無から有を生み出す。音も立てずに立ちはだかり、私の手から、少女が消える。
 僅かに残る温もりさえも、静かに緩やかに、私の中から去って行く。
「お兄様がお迎えにまいりますよ」
「お城では、あのお方、お優しく聡明な貴女様の愛すべき方がお待ちでございますわ」
「貴女様は選ばれた方。あの方に、この闇に、そして月の守護に」
 彼女たちは口々に、呪文のように毎度同じことを繰り返す。一体、それが何の役に立つだろう。少女はいつしかここを離れてしまう。あと僅かな時を過ごし、彼のもとに旅立つのだ。それが運命。彼女の歩く道筋。
 例え私の側から貴女が去ってしまっても、貴女の心があの方の物になったとしても。それでも私は構わない。貴女は特別だから。きっと誰もが貴女を、愛さずにはいられない。
 どうか、その心に悲しみを知ることがありませんように。どうか、静かな瞳が何時までも穏やかでありますように。
 私が滅した、その後にも……。
 
 あぁ、空に祝福の三月が昇る。
 聖夜に闇と光の未来が見える……。
                                              終わり





*** ひかるあしあと ***
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