◇◇ 風に… ◇◇
 澄み渡った青空は何処までも高く、何処までも広く続いていた。
 気持ちよく晴れ渡った雲一つない透明な空色を眺めていると、引き込まれて落ちてしまいそうな錯覚に目眩を覚える。
「ユナさん?」
 絶え間ないとは言え、穏やかなそよ風に押し倒されそうになり、改めて地上に広がる草原を見渡した。
「はは、大丈夫。ただ、あんまり青い空に落ちていくような気がしただけ。この草原の景色はまさに壮大、雄大、感無量。僕ならとても耐えられない孤独感だな、と思ってね」
 耳を澄ますと、聞こえてくるのは遠くに広がる丈の長い草が煽られる音ばかり。さざ波にも似た音に視線を向けると、柔らかな太陽の光を受けた草が、風に吹かれて白く輝き波のように揺れている景色が飛び込む。
 世界は、澄み渡った青と、若々しく輝く緑に彩られ、境界線の美しさは白く輝く波打ち際のように絶えず煌めいている。
「孤独感、ですか? 僕は一度も感じたことはないですよ」
 六脚目の最後のイスを置いた少年は、愛くるしい笑顔で明るく笑った。
「アーディーは偉いなぁ」
 この広大な草原にたった独りで暮らす少年の仕事に、ユナルライズはしみじみと頷きながら感心の色を示す。
「そんなこと! 僕はただ与えられた仕事をこなしているに過ぎません。それに、僕はこんな大役を頂いて感謝しているんですっ。偉いなんてこと、絶対にありませんっ」
 少年はびっくりして真剣に否定を訴える。その一生懸命な姿がまたほほ笑ましい。
「アーディー、褒められたら素直に喜ぶ物だよ。それに、僕は本当に君が立派だと思っているんだから、そんなにムキにならないで」
 可笑しさを耐え、できるだけ穏やかにユナルライズはアーディーの興奮を抑えた。
「あ、ごめんなさい。大きな声を出してしまいました。それに……、ユナさんの仰るとおりですよね。ありがとうございます」
 少年は少年らしい素直さでユナルライズの言葉に笑顔を取り戻した。
「よし、じゃぁ、後は……」
 テーブルとイスを少し離れたアーディーのすむ家から運び出し、セッティングをすませ振り向くと、そこへ籠を持ったミア・レイクスとリーゼがやってくるのが見えた。
「ごめんなさいねアーディー、本当に迷惑じゃなかったかしら」
 ミア・レイクスが気遣ったのは、このテーブルやイスが、アーディーの普段使用しているものを、わざわざ持ち出させてしまったことについてだった。
「そんな、迷惑だなんて。本当はもっと立派なものを本宅で用意させれば良かったんでしょうけど……」
 アーディーの生活は、簡素、と表現するより質素という言葉がよく似合う。彼がふだん家として使っている東屋は、本当に慎ましやかで、何の飾り気もない。それは彼の人と成りを充分に物語っているように見えた。とは言っても、草原の彼方に望む森の向こうに、本来所有している立派な屋敷がある。ところが、主として名を掲げてはいても、彼は滅多にその屋敷へ戻ることはなかった。
 彼の生活は殆どこのパルゼの中で、独り風を相手に使命を果たすことに費やされている。
「上等過ぎるくらいじゃない? こんな立派なテーブル」
「そうよ、ユナの言う通りだわ。アーディーのお陰で素敵な会場ができたんだもの。感謝するわ」
 籠を足下に下ろしたミア・レイクスは、恐縮しているアーディーの緊張を解く、優しいほほ笑みを向けた。
「あ、ありがとうございます!」
 ふだんから仕えている、とは言っても彼女は風の守護神、アーディーにとっては雲の上の存在。本来ならば年に二度程、報告会の席で遠くからその姿を拝見できれば幸せな立場。
 その自分が彼女の主催するお茶会に呼ばれるなど、夢にも思わなかった。リーゼという少女と出会うまでは……。
「リーゼ、テーブルクロスを広げるわね」
 足下に置いた籠からミア・レイクスは純白のテーブルクロスをすくい上げ、少し後ろでやはり籠を手にしたリーゼを振り返った。
「ミア独りで?」
「ええ、そうよ。でもね、本当は独りじゃないの。風が手を貸してくれるのよ。見ていてね」
 そう言うと彼女は一気にクロスを風に靡かせ大きく広げた。瞬間、風がほんの少し強く吹いた気がした。純白の大きな白い布が、青い空と緑の草原に広がり、音を立てて翻った。そして、ふわりと静かにテーブルを覆い隠すころ、風は再びとても微かなものに戻っていた。
「わぁ、凄い」
「ほんと、流石ミアって感じ」
 リーゼが感心すねのは当然としても、ユナルライズまでがその光景に圧倒され感嘆のため息を吐いた。
「ユナまでなぁに?」
「いや、ただクロスを広げるだけで絵になるなんて、ミアだけだなと思って」
「まぁ、やっぱりユナね。ルノからは聴けない台詞だわ」
 ミア・レイクスはほほ笑んだ。
「そう? じゃぁ今度ルノに指導しておくよ」
「お願いするわ、と言いたいところだけど、遠慮しておくわ。私、今のままのルノで充分ですもの」
「あら、そ。そりゃ残念。じゃ、そのルノ達が来るまでにまだ時間があるから、花でも摘んできたらどうかな。テーブルのセッティングは僕達でするからさ」
 ユナルライズは言いながらアーディーに同意を求め軽くウィンクを飛ばした。
「はい。テーブルを飾る花なら、あの森の手前にたくさんありますよ」
にこやかに森を指さし少年もユナルライズに賛同する。
「お花畑があるんだって、リーゼ見たいでしょ?」
 ユナルライズがリーゼの視線に合わせて覗き込んだ。
「お花畑?」
 復唱しただけでリーゼの期待が高いことを見て取ったユナルライズは、頷いて答えた。
「ほら、この姫君のお目々キラキラ光線にゃ、さすがのミアもお手上げだろ? 大丈夫後は任せて行っておいで」
 彼は摘んだ花を入れる籠をミアに手渡し、その背中をポンと軽く押した。
「そうね、分かったわ」
 彼女も結局ユナルライズの提案にのり、リーゼを伴い花畑へと向かうことにした。
「まったく、ミアやリーゼにセッティングまでさせたら、後ろ盾の方々が怖いんだから。ま、ミアの気持ちも分かるんだけどね」
 二人の背中を見送りながら、ユナルライズがアーディーに向かってニッと笑った。
「さて、はじめようか」
「はい」
 二人は早速籠の中から純白に磨き上げられた、陶器の食器を丁寧に並べ始めた。


 その日、ユナルライズは約束の時間よりかなり早く、ミア・レイクスよりも早めに到着するだろうと予想を立て、リーゼを連れてパルゼに降り立った。
 彼の予定では先にアーディーと会場のセッティングを終わらせ、ミア・レイクスを迎える筈が、反対にアーディーと一緒に既に彼らの到着を待っていた。
「良くいらして下さいましたわ。リーゼ、遠いところを呼びつけてしまって、ごめんなさい。ユナも忙しいのに、わがままに付き合わせてしまったわね」
 草原に流れる風のように、ミア・レイクスの声は温かく、心地よい。
「パルゼは大好き。アーディーもいるし、とても気持ちがいいわ。遠くなんてなかったわ、ね、ユナ?」
 ユナルライズを仰いだ瞬間、リーゼの黒髪がふわりと浮かんだ。頬をなで上げる風の感触にくすぐったさを覚え、リーゼは身じろぎ、小さな声を上げた。
「風が歓迎しているんだよ。リーゼのこと、大好きなんだね」
 アーディーが少し照れたようにはにかんで説明した。
「本当? 嬉しい」
 リーゼは小首を傾げ満面の笑顔でそれに答えた。
「お招きに与り光栄です。ミア様」
 和やかな雰囲気に、ユナルライズが恭しく冗談めかして一礼する。
「私は美しく可憐なお嬢様方の僕。わがままは花のごとく美しいあなた方に許された特権。私ごときが厭う理由など、何処に存在しましょうか」
 流れ出る台詞は、ミア・レイクスの笑いを誘った。
「相変わらずお上手ね。よく動く口だこと。何人の女性に言って歩いているの?」
 彼女はクスクスと笑いながら問いただした。
「酷いなぁ、そんなに何人もってことはないよ。なぁ、リーゼ?」
 わざとらしく困った表情を浮かべ、隣のリーゼを見下ろした。が、少女は小首を傾げにっこり笑顔を向けただけで、否定も肯定もしない。
「ダメよ、リーゼに助けを求めないの」
「一理ある。求めるだけ無駄ってことね」
 ミア・レイクスの言葉に神妙な顔をして頷く彼の裾を、リーゼが引っ張った。
「この前、薔薇園のお花、たくさんの女の人に上げていたでしょう。ユナルライズ様に頂いたわって、みんな仰っていたわ。薔薇園のお花、なくなってしまいましたわ」
 リーゼが責めているのは、無断で花を摘み取った行為であって、その花を女性にプレゼントしたことではない。それでも少女の指摘にミア・レイクスはもちろん、アーディーまでもが吹き出した。
「ちっ、違う、違うんだよリーゼ、あれは、あの花はほら、お茶にするには日が経ちすぎていたから、ね。ほら、ああいうお花は早く摘んであげないと、次のお花が綺麗に立派に咲かないから、それでだから……」
 慌ててリーゼと視線を合わせ言い訳を始めたユナルライズの姿がまた滑稽に映り、ミア・レイクスもアーディーもしばらく笑いが止まらなかった。あれだけ流暢な台詞を並べ立てられる筈の彼が、幼いリーゼに悪戦苦闘している姿が、余計に笑いを誘う。
「悪かったよリーゼ、黙って花を摘んだのは確かに僕だ。でも、正直に言うと、あれからしっかりギヲに見咎められてね。ここはリーゼの所有物だからって、怒られたんだ。これからはちゃんとリーゼに了解を得るから、ね?」
「お兄様が怒りますの?」
 きょとんとしてリーゼが首を傾げて見せた。
「うん、否、怒ったんじゃなくて注意されたの」
「なら、良いですわ」
「許してくれる?」
「もちろんですわ。だって、お兄様に注意されたのでしょう?」
「ありがとう、リーゼ」
 リーゼは兄のギヲノーグ・イリゼクティーが怒る姿を知らない。過保護の数十倍は甘い兄だ。妹の前では全くの別人になる。他人の目から見れば殆ど二重人格かと疑いたくなるほど態度が違う。それは友人である彼らもよく知っている。もちろん友人の前では比較的妹の前にいる態度に近いのだが、それでもまだまだだ、とユナルライズは密かに確信している。
リーゼの許しが得られたところで、ようやく彼らは荷物の運び出しに取りかかる。
ユナルライズは、お茶会がしたい、というミア・レイクスの相談に、快諾した。
総てのセッティングを自ら買って出た彼は、早速アーディーと連絡を取り、必要なものをあらかじめ揃えていた。
「まずはテーブルとイスを運んでしまうから、ミアとリーゼは必要な物を籠に収めておいてくれるかな」
 ユナルライズの指示で彼らがテーブルを運んでいる間に、二人は丁寧に陶器の食器を棚から籠へ移し替えた。
テーブルを運び終え、イスを運び出す頃に、ミアがテーブルクロスを別の小さめの籠に入れた。そこへ、戻ってきたユナルライズが、陶器の入った籠を軽く一気に二つも持ち上げ、最後のイスをアーディーに運ぶように指示した。
「ミアは悪いけど、台所にお菓子があるからそれを籠に詰めて、リーゼと一緒に持ってきてくれる?」
「ええ、でも、ユナ大丈夫? 重いんじゃない?」
「平気。これでもユナさん一応特上級剣士なんだよ。忘れてるかもしれないけど」
 彼はにっこり笑ってウィンクすると部屋を出ていった。
 特上級剣士、とは剣の中でも一番扱いが難しいとされる、超大型の剣を扱うことができる特別クラスの剣士を言う。ユナを始め、闇、光、水、地の守護神もこのクラスの資格保持者であることは言うまでもない。が、付け加えるなら、闇と地の守護神はさらに別格のランクを所有している。もはやこの二人のレベルは尋常でないもので、彼らと手合わせをしたがる命知らずは皆無といって等しい。
 一見華奢にも見えるが、確かに彼の剣の腕前は素晴らしい。数年に一度、城で開かれる、資格検定試験を含む武道競技会の、開幕式に行われる模範演技を務めて随分長い。相手となる剣士の変更は多いが、必ずユナルライズは模範演技者として名が連なっている。
 そのことをすっかり忘れていたミア・レイクスは、リーゼと顔を合わせ肩を竦めて見せた。
「お菓子って、誰が焼いたのかしら……」
 気を取り直し、台所に行くと、焼き菓子がたくさん用意されていた。
「まさか、ユナじゃないわよね」
 独り言を呟きながら、おいしそうな甘い香りのお菓子を籠に詰めていく。
「さ、準備できたわ。リーゼ、この籠、持てるかしら」
 彼女は大きめの籠にお菓子の殆どを詰め、その上に先ほどのテーブルクロスを被せるようにそっとおいて、クロスを入れていた小さな籠に、残りのお菓子を入れ、リーゼに渡した。
「持てるわ。大丈夫」
「じゃぁ、行きましょう」
 二人はそろってアーディーの家を後にした。




 パルゼには四季がないどころか、天気の良し悪しもない。もちろん、花も咲かない。風が花を散らしてしまうことはもとより、鳥や虫さえこのパルゼには近付かない。
 彼らがいる場所は比較的パルゼの端。外界との接点にほど近い場所で、時折小動物などが紛れ込むこともあるような穏やかな地帯だったが、パルゼを奥に進めば、穏やかな風も凶器へ代わる。
 緑の草原が終わると、草一本、小石ひとつない岩肌が剥き出しの荒野が広がる。守人以外の人間が迂闊に近寄れば、その凄まじい風の威力によって、たちまち四肢がバラバラに切り刻まれ、微塵も残らない。が、そんなところへ辿り着く前に、通常の人間ならば窒息死や圧死。まず辿り着くことさえ不可能なことはとは間違いない。パルゼの全貌は、穏やかな草原からは想像もできない過酷な場所でもある。
 それでもここから少し離れた森の周辺には花も咲き、四季も訪れる。森と草原を隔てる境界線のように、花が美しく咲き誇る一帯は、リーゼを大変喜ばせた。
「この籠一杯にお花を摘みましょう」
 ミア・レイクスは無理矢理押しつけられた籠を花の中へ置き、来た道を振り返った。
 二人の人影が小さく動く様子が見て取れた。
「……でも、早く戻ってお手伝いしましょうね、リーゼ」
 本当は、せめてテーブルのセッティングくらいは手伝いたいと思っていた気持ちを抑え、彼女は花の中へふわりと座り込み、リーゼにほほ笑み掛けた。
リーゼも彼女の仕草を真似て花の真ん中へ座り込むと、満面の笑顔でこくんと頷いて見せた。
「リーゼは、どんなお花が好きかしら」
 花を手折る前に、彼女は辛そうにごめんなさいね、と呟き、野の花を丁寧に優しく摘み始める。
 彼女は優しく摘み取った花を、籠にそっと置いてから、リーゼをまっすぐに見つめ、そんな質問をした。
 少女は小首を傾げ、やや考えてから「薔薇園の薔薇」とはっきりと答えた。
「薔薇園の……?」
 彼女はまだ一度も見たことがないが、城の一角に広大な薔薇の庭園があると聞く。噂ではカリュッセ一の見事な花を咲かせ、香りも色彩も共に素晴らしいという。
「お兄様が下さった薔薇園よ。お茶にするととてもおいしいって、みんな喜んでくれますわ」
 誇らしげに少女は花を摘む手を休め、仕合わせな笑顔を向ける。その笑顔は、どんな花よりも愛らしく、一番元気に輝いて見えた。
「本当にお兄様が大好きなのね」
 リーゼを見つめる彼女の優しい笑みもまた、花々よりも可憐で清楚に綻んでいる。
 彼女の言葉に、リーゼは笑顔のままクッと小首を傾げて見せた。花と兄が入れ替わってしまった彼女の言葉に疑問を抱きつつも、確かに言われたことに間違いはない。そう自分を納得させ、今度はリーゼがミアに同じ質問を向ける。
「私? 私はブバリアが一番好き。ほら、丁度この花に似ているかしら。もっと小さくて、真っ白なの」
 彼女は近くに咲いていた花を手折り、リーゼに手渡し説明した。
 ほんのりと淡い黄色の、五枚の花びらを少女はしばらくじっと見つめ、
「真っ白な、お星様みたいなの?」
 と、尋ねた。
 リーゼは初めて聞いた花の名前に興味を抱いたらしく、瞳をキラキラと輝かせ、小首を傾げミアを見上げる。
「そうね、でも、とても珍しいお花なの。ルノが初めて髪に挿してくれた、思い出の花よ」
 彼女は近くに咲いていた白い小さな花を手折ると、その花を見つめため息を吐き、膝の上に手をのせ、空を仰ぐ。
 何処までも高く広がる青空に、さわやかな風が吹き抜ける。彼女の黒髪を優しく撫でながら、何事かを囁くように頬をかすめ、行き過ぎる風の心地よさに目を閉じた。




「また熱があがるといけないから、窓は閉めるよ」
 ベッドから手を伸ばせば届く窓を、彼は部屋に入るなりパタンと閉じた。
 閉め切った部屋で過ごすより、よっぽど気分がいい。それに孤独を感じないですむ。よく熱を出し寝込むことの多い彼女は、どんなに晴れ渡った気持ちのよい日にも、独りこの部屋に取り残される。入れ替わり立ち替わり、彼女の様子を見に来てくれる仲間が達の、立ち去った後の静けさが、余計に寂しさを募らせる。
 そんな気持ちを風に吹かれることで紛らわせていた彼女の脇から、少年は腕を伸ばし、ほほ笑み掛ける。
「また熱を出したんだって? みんな心配していたよ。お土産がお見舞いになっちゃったかな」
 しばらく両親とともに遠国周遊に出かけていた少年は、戻ったばかりだというのに、少女の部屋を訪ねてきたらしい。落ち着いた優しい笑顔とは裏腹に、外出着の厳ついマントを羽織ったまま、慌ただしく駆けつけたのが一目で分かる。
 しかし、ベッドに半身を起こした少女には、それが嬉しかった。
「見て、ブバリアって言うんだって」
 言いながら差し出したのは、小さな純白の花で作ったささやかなブーケ。
「ミアに一番似合うと思ったんだ」
 少女は両手でその花を受け取り、初めて見た花の、清楚にして愛らしい魅力に見とれてしまった。
「いい? ほら、こうすると……」
 少年は彼女の手から少しの花を抜き取り、真っ直ぐで美しい艶を放つ髪にそっと飾って破顔一笑する。
 その笑顔は、自分の選択が間違っていなかったことを確信する、喜びに満ち溢れ、納得が含まれている。
「思った通りっ! ミアにはこの花が一番似合うよ。初めて見た時に直ぐにミアだって、思ったんだから。これをミアに持っていって上げようって。残念なのは、この国にこの花がないってことだよ。だって、こんなに可愛いんだから」
 興奮気味に語る少年の言葉は、少女にとって、これ以上ないほど嬉しくて、自然に涙が溢れだした。
「えっっ! ミア? どっか痛い? それとも、僕何か……」
 突然泣き出した少女に、どうしてよいのか分からず狼狽え、言葉さえ失って立ちつくす。素直な彼の表情は、何故少女が泣くのか、その理由が見つからず、ただただ傷つけてしまったと後悔している。
 その意気消沈してしまった彼の手に、少女がそっと触れた。
 弾かれたような勢いで少女を見ると、彼女は溢れる涙に濡れながら、幸せな笑顔を浮かべ涙を拭っていた。
「ありがとう、ルノ。あんまり嬉しくて、涙がとまらなくって……。だから、泣いたりして……ごめんなさい」
 少女はやっと囁くように告げ、触れた手を名残惜しげに離した。
「ミア……」
 少女が触れた手の温もりを確かめるように、彼は自らの手を握り、呼び慣れた名を呟いた。不意に、愛しさがこみ上げた。
彼女を、強く守りたい、と彼は唇をかみしめる。
 しかし、自分の気持ちに気が付くには、彼はまだ幼すぎた。まだ、今目の前で涙を拭う少女への気持ちが、友情以外の物だと気が付くまでに、彼は気付いていなかった。
 少女の流した涙の意味を知るには、まだ、子供すぎる。それでも、彼女は同じ気持ちを抱き続けていく。
 彼が、真っ先に駆けつけてくれたから。誰よりも先に、自分を思いだしてくれたから。遠く離れた場所で、自分を思ってくれたことが嬉しかった。今はただ、それが幸せだった。
 この瞬間が、彼女を満たしてくれたから。彼と一瞬が幸福に満ちている限り、彼女の心は満たされ、優しくなれる。
 ……。
 ミア・レイクスは心の中で花の名をゆっくりとなぞってみる。今でも大切な思い出がそこにはしまわれている。
「きっと、ルノは覚えていないわね。もう、随分昔のことですもの」
 彼女は手にしていた花を籠に置き、ほほ笑んだ。
「寂しくない?」
 突然、リーゼか真剣な眼差しで彼女を覗き込んだ。一瞬、何を聞かれているのか分からなかったけれど、直ぐにその意味を理解する。
「……寂しくない、とは言わないわ。でも……」
 悲しげに瞳を伏せた。
「前に、お兄様が仰ったの。どんなに遠くにいても、側にいないときでも、リーゼのことを抱きしめているんだよって。だから、寂しいなんて思わないで、いつも一緒にいるんだって信じていなさいって」
 リーゼは元気に笑っていたけれど、その中に、寂しさが潜んでいるのを見て取った。
「リーゼ……。そう、そうよね。リーゼもいつもお兄様のこと想っているのよね。私も、同じだわ。いつもルノのことを想っているの。ギヲの言う通りね。いたいのにって思って悲しむよりはずっと素敵」
 リーゼに語りかけるよりも、彼女は自分自身へ言って聞かせていた。
「本当はね、ルノと少しでも一緒にいたかったから、カリュッセに来たの」
 彼女はとびっきりの笑顔でリーゼに笑って見せた。
 その笑顔を受けて、リーゼもその日一番の笑顔に戻る。
 もう、寂しさなんて、何処にもなかった。
 風の守護神が治める領地は、他の守護神と少し違っている。どちらかと言えば地の守護神と似ていて、光の地ディクートと闇の地カリュッセ、のどちらにも領主として立つ場所が用意されている。
 先代の風の守護神、ミア・レイクスの父は、ディクートに城を構え、彼女自身もディクートで生まれ育った。しかし、そのさらに前の前の風の守護神は、現在彼女が城主として暮らす場所に居を構えていた。
 つまり、風はその性質を時の持つ継続性と、地の持つ普遍性を併せ持った、特別な地位にある。時の守護神が最期に残した言葉が、その必要性を如実に物語っていた。
 『風が吹く限り、世界は時と共にある』
 時の守護神が世襲制であるにもかかわらず、途絶えてしまったその瞬間、後継者を指名する儀式の場において伝えた言葉。
 ミア・レイクスはその言葉の重荷を、華奢な身に背負っている。
「さぁ、もう戻りましょう。お花も、このくらいあれば良いわね」
 彼女は自分の背負う物を、けして見せることはせず絶えることのない笑顔でその場を和ませてきた。きっと、これからも、彼女は気丈に振る舞って行くのだろう。
 ルノゼフを始め、六人もの仲間が、彼女の弱さを知っていてくれる限り、大勢の人を癒す優しい風でいられると、知っている。
 彼女は花籠として立派になった籠を持ち、立ち上がる。それまで忘れていた香りが、風に乗って届いた。
 仲間達が待つ、草原の匂い。
 花籠を持って戻る二人を、ユナルライズが温かく迎える。
 すっかり調ったテーブルに、最後の花を飾ると、彼女が提案したお茶会の会場が完全な姿になる。
 アーディーが沸かし立てのお湯を運んでくるのと、二人来客が訪れるタイミングが、ほぼ同時でお茶会が始まる。
「遅くなったかな」
 一緒に現れた二人はそれぞれ花束を抱え、城では見ることのない雰囲気でやって来た。
 子供の頃に、馴染んでいた懐かしい感覚。
 ギヲノーグの抱える花束は、深紅の薔薇。
 ルノゼフがミアに差し出したのは、純白の小さな花束。
「やっぱり、ミアに一番似合うよ」
 ミアが驚いて受け取った花束から、僅かに抜き取り、その髪に飾りながら、彼は小さな声で耳元に囁いた。今度は泣かないで、と。
「ルノ……」
 彼女はその言葉に、涙が溢れるのを堪え、笑顔を振りまき、元気にようこそ、風のお茶会へ、と席を勧めた。
「お招きありがとう、ミア。ユナのお陰で薔薇が好い具合に咲いてね。少しだが、薔薇茶にと思って、持ってきたよ」
 彼がミアに差し出したのは、先ほどリーゼが自慢した薔薇。そして、既に乾燥させた薔薇の花びらで作られた花茶。それに付け加え、ユナルライズが無断で摘み取った薔薇へのささやかな嫌み。
「も、もう、この兄妹はっ!」
 既に忘れていた話題に触れられ、彼は苦笑混じりに花瓶をテーブルへ置いた。
「ありがとうギヲ。リーゼからこの薔薇のことを聞いて、是非頂きたいと思っていたのよ」
 薔薇茶に浮かべて飲むには充分過ぎるほどの大きな花束を抱え、彼女はリーゼと目を合わせ笑った。
「それでは丁度よかったかな」
「お兄様っ、とっても素敵!」
 リーゼが抱きつくと、彼は当然のことのように妹を抱き上げ、ユナルライズが花を生けるのを眺めていた。
 薔薇とブバリアがテーブルの中央へ飾られ、一気に華やかさを増した。
 アーディーが早速、薔薇のお茶をカップへ注ぎ、ミア・レイクスが新鮮な、瑞々しいビロードの花びらを一枚ずつカップに浮かべ、席へ配る。
「お菓子は、ジュリアからの差し入れだよ。リーゼの大好きなお菓子なんだってね」
 ユナルライズはギヲノーグからリーゼを預かり、席に座らせながら笑った。
 リーゼがつかの間見た夢を、パルゼで再現してみたいと、ミアの提案を告げると、リーゼの双子の兄は、快くお茶会のお菓子を用意すると言ってくれた。
 パルゼからさほど遠くない場所に、リーゼと離れ暮らす双子の兄妹は、出席はできないけれど、と言って残念そうに笑っていた。
「では、これはリーゼの母が作った物か」
 ギヲノーグとリーゼは、母が違う。ギヲノーグの母は、既にこの世を去っているが、リーゼの母は、今も前の闇の守護神であった彼らの父と、今は息子ギヲノーグが城主となった城で暮らしている。
「あ、そうなの? そこまでは聴いてなかったよ」
「お母様は、とてもおいしいお菓子をたくさん焼いてくれたの。ジュリアがいつも届けてくれたのよ」
 リーゼは嬉しそうに焼き菓子をひとつ手に取った。
 少女の生い立ちを知る彼らは、今、リーゼの笑顔に寂しさのないことが救いだと思う。
 リーゼは特別な娘。生まれてから、生家で親兄弟と暮らした経験が殆どない。直ぐに大人だけが管理する場所に移され、現在の城へ移るまで、教育係とだけ接してきた。
 それでも少女は、素直にほほ笑んでいる。
 ミア・レイクスは、そんな幼い友人を見つめ、この光景が、もっと大勢の人と分かち合えればと願い、風の中に謡い始める。
 彼女の、高く澄んだ歌声が、空に、草原に何処まで響く。
 リーゼが見た、夢の景色。
 風に吹かれて、優しい時間が流れていく……。




おまけ



*** ひかるあしあと ***
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